暮らしの中の仏教語
 
      「分別」 つながり得ない深い悲しみ 

 「分別」と言えばゴミの分別を連想します。これは「ぶんべつ」と読みます。燃えるゴミと燃えないゴミ等、種類別に分けるという意味です。「あなたのお子さんは騒がずにとても分別のあるお子さんですね」。こちらは「ふんべつ」と読み、物事の善悪を判断して、きちんと対応できる力を持っているという意味になります。

 日頃は「分別」をこのように使っていますが、実はこの言葉は仏教用語なのです。人間は「考えること」を基礎にして生きています。考えることなしには生きていません。しかし、その考えることでまた悩んでいるのも事実です。それは、考えることで自分と周りが「つながらない」から悩むのです。仏教では、「考えること」のもつ本質を「分別」と見出しています。考えた結果つながらなくしているのは分別によるからです。

 分別の「分」は分断の分、分別の「別」は区別の別。考えるとは、自分と周りを分断し区別して考える、つまり、考えることにはすでに自分と周りを対立させていく構造が隠されているのです。しかも、分別の奥底には、さらに気づかないかたちで自我意識がはたらいていて、自分のきめこみをつくり出しています。相手のことを考えているようで、実は自分の考えの押し売りをしている。そのことに気づくことができません。人間の奥底にはつながろうとしてつながり得ない深い悲しみの淵があります。大切なことは、その悲しみから目をそらさずに、そこからまた歩みをおこすこと。これが「分別」という言葉が教えてくれる心です。