暮らしの中の仏教語
 
   私たちの日々の暮らしの中には仏教の教えを由来とする言葉がたくさんあります。言い換えれば仏教用語に包まれて日々暮らしているといっても過言ではありません。しかし、その言葉が本来持っている深い意味を知ることなく漠然と使っていたり、長い歴史の中で誤解されて使われている言葉も少なくありません。それらの言葉に込められた本当の意味を知ることによって、あらためて日々の言葉に出会うことができ、その言葉によって自分の生き方を問うきっかけを得ることができると思います。まずは「我慢」です。
      「我 慢」 比較することのできない尊い命 

 「ここは我慢のしどころ」と、自分がいま思っていることや、やりたいことがあっても、これからの付き合いや世間体を気にして、自分の思いを通すことを押しとどめ「ここは我慢しよう」とします。
 あるいは、「そんなことを言わずに我慢しなさいお兄ちゃんでしょう」などとわがままな言動をしている子供に向かって親が叱ったりする時に使われます。このように我慢は一般的には、周りの人との関係を意識して一時的に自分の意思を抑えて「耐える」という意味として使います。

 しかし、仏教での本来の意味は、「我」は自我の我です。そして「慢」は慢心の慢、おごりの心です。日々私たちは何かにつけて、他より優れている自分に優越感を感じたり、時には他より劣っていると劣等感にさいなまれる。その繰り返しです。家柄や財産、地位、知識、能力、容姿など、比べることの出来る事柄では、何にでも起こりえる比較する心で、思い込みの心を表します。これは、私達の持っている「煩悩」によるものです。特に優越感を感じ有頂天になると頭が高くなり他がまったく見えなくなってしまいます。それが「慢」という世界です。人間にとって最も危険な心身を滅ぼす病です。そして、すぐに自分に自信を持てなくなり自分をいじめ苦しめます。「我慢」とは尊い自分に気が付いてほしい、素直な本当の自分に帰ってほしいと言う仏様の言葉なのです。

 お釈迦さまは、この世に誕生されすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と宣言されたといわれています。これは誰もが「天にも地にも、ただ独りわたしとして尊い」。私たちは、他の誰とも決して代わることのできない、比較することのできないかけがえのない尊さをもって生まれてきたのだということを教えて頂いているのです。