自分の目で見て、耳で聞き、心で感じたこと
以下の文章は某R学院の月刊ニュース2004年十月号の記事の一つとして私が書いたものである。
夏も盛りの頃、R校の高校生六人で四日間、G県H町にある「S会」という老人ホームにボランティアに行った。六人とも今まで福祉関係のボランティアとは無縁であったので、実際に現地に行って説明されるまでは、何をするのかといった事の詳細は分からずじまいだったし、車椅子のつかい方のような基本動作でさえも、全く知らなかった。また施設では、活動するホームが生徒によってそれぞれ違い、正真正銘一人きりでの活動になった。ホームによって生活している方々の状況もさまざまなのである。まだ元気な方から、どこかに比較的軽い障害を持っている方、障害が重く寝たきりになってしまっている方など施設によりおおまかに分けられている。ちなみに、私はどこかに比較的軽い障害を持っている方が入っていらっしゃるホームで活動させていただいた。
施設に着いて見学してみると、どのホームも想像していた物よりも綺麗で、まるでホテルのようでさえあった。そして何より、そこであった人すべてが私の持つ老人ホームのイメージを打ち砕いた。皆さん明るく一カ所に集まり話しているのだ。
そこに行く前まで暗いイメージを強く持っていた私は、この雰囲気に大きなショックを受けた。なにせ私が抱いていたのは、暗く長い静かな廊下に非常口のランプが怪しく光っているといった、肝試しの舞台にでもなりそうな場所だったのだが、そのとき目の前に広がっていた光景はその正反対なのである。これが驚かずにいられようか?そんな私達を尻目に周りのおじーちゃん、おばーちゃんたちは、歯の無い口でTVの黄門様と共にホッホと笑っていた。
ショックを受けつつ実習に入ることになった。施設の方が入居者の方を紹介してくださった。なるべく名前で呼んだほうが好ましいので必死に名前を覚える。コミュニケーションとるための基本だ。そして用意できたら、各部屋に掃除に入る。これは顔を覚えてもらったり、コミュニケーションをとるのが本来の目的なのだ。しかし、なかなかこれが難しいのである。ある方は同じ話を延々とされるし、またある方は自己紹介したらもう会話がブッツリと切れるし、またある方には日に二十回は自己紹介した。相手に悪気は無いのはわかっているので、文句を言うわけにだっていかない。精神的な疲れが体力的なそれより遥かに大きい。
もちろん顔には出さない。相手だってなれない若者が来て、相当緊張なさっているのだから。
しかし、二時間もたてば段々とお互いに慣れてくる。私は相手がどんな方であるのかつかめてくるし、また相手も私のことを「異世界からの侵入者」ではなく「ボランティアの青年」だと認識してくださる。後は心にゆとりを持って取り組めた。やはり、お互いの信頼関係が一番重要なのだ。介護とは近年、制度がどうのこうのと騒がれているが、そんなことはうわべだけのことであり、介護の最前線に立って見てみると、いかにお互いの信頼関係が重要であるかが見えてくる。「やっぱり、日々現場で働いているケアワーカーさんには逆立ちしても勝てないなぁ」とはS会の職員のAさんの弁。
ちょっと自信をつけたので調子に乗って積極的に話しかけようと、TVを一緒に見てみたが、どうにも話が弾まない。ただ朝よりも進展しているという気はした。まあ、黄門様に負けたことは仕方が無い。なぜなら、私とは付き合っている年月の度合いが違うのだから。
翌日、頑張った甲斐もあり、顔だけは覚えられていた。ただ、朝からの食事介助はきつかった。なにせ、相手がいることなので常に気を配らねばならない。相手を第一に考え、どのペースで、どれほどを口に運ぶか?さんざん考慮し、また試してみた(!)あげく、少量をゆっくりと出すことにした。まあ、結果的にはそれなりであったろうと思う。それほど嫌がられる様子も無く、前よりスムーズにいったのだから。その日の夜のミーティングの時に、どこからか見ていた施設のS先生に「なかなかだったじゃないか。あの人は普段あんなにも食べないのに、今日はたくさん食べてたから、自信持っていいよ。」と言われた時は正直ほっとした。信頼関係が段々と出来上がっていることに感動しつつ、次の仕事に入る。どの場面でも昨日よりも会話が弾み、事がうまく運ぶ。もっともTVの黄門様には到底かなわなかったが。
そしてお別れの時、多くの方が「残念だ」「寂しくなる」「これからも頑張りなさいよ」などのことを言って下さったことを今でも鮮明に覚えている。やっぱり老人はあたたかいなぁとあらためて思う。
世間では、この人たちを「老いた」と言っているが私はそれよりも「年を重ねた」の方がふさわしいと今ならば断言できる。なぜなら、体力こそだいぶ低下しているものの、長年生きて学んできたことは、我々には計り知ることができないものがあるからである。つまり、深く、広く、すべての物を包みこむような大きさがあるのだ。この大きさはとてもではないが、二十年足らずしか生きていないような私にはとてもではないが真似できない。
私が失敗した時、成功した時、分からずに困っていた時、物事に躊躇していた時、うれしい時、悲しい時、頭にきた時。いったい何回その心の大きさに救われ、また励まされたことか、想像もつかないほどだ。
あるときに、私は「姨捨山」(”おばすてやま”、”うばすてやま”とも読む)のことを思いだした。姨捨山とは、今の長野県にあった藩が、昔もう労働力にならない老人をそこに捨てるように、決めていた山のことである。私の中で姨捨山とホームが重なって見えたのだ。環境こそ雲泥の差があるものの、隔離された空間にずっといなければならない、という点で共通している。これはいったいどんな気持ちなのだろうか?
実習中、何人もの方が外へ出たいという事を口にしているのを耳にしたので、ふとそういった事を考えて見た。どんなに綺麗で、広くて、快適であったとしても、ずっと同じところにいなければならないのはさぞかしつらい事なのだろうと思う。しかしながら、そういった要請に答えることは、職員の人数的に見てもできないし、安全面から見ても難しいと思われた。
だからこそ今日、そういった観点から見ても、ボランティアワークが今後、重要な役割を担っていくのだろうと思う。もちろん人数をカバーするなんてことは到底できない。しかし、すこしでもゆとりを持ちながら話せる相手がそこにいるだけでも、すばらしい気分転換になるだろうと思う。話しているときの施設の皆さんの顔は輝いていた。コミュニケーションをとることによってお互いに良い効果がある。聞く側は、普段語られないことを聞き、また老人と触れ合うことによって新たな発見がある。また話す側もストレスの解消をすることができる。核家族化が進み、年代の異なる世代との関係が少なくなりつつある今の日本において、高齢者と若者との数少ない交流の場としてのホームは、貴重な存在であると感じた。また、そういった出会いが将来的に良い方向へとすすんで行くだろうと思う。
この四日間で、私は多くの方々から、またとないすばらしい人生勉強をさせていただいた。日数が短く、まだまだ学び足りないことも多いが、得たものは我が人生の宝である。この文章では語り残したことも多いが、それらの経験も意味するところは最終的に同じであると確信している。
また、このボランティア学習でお世話になった数多くの方々に心から感謝の意を表すものである。まず、各自が学んだことを共にミーティング等で分かち合ったR校の参加メンバーのみなさんと、引率で来てくださったN先生、H先生。また、十分に役立てないような私を暖かく迎えてくださった「S会」の、S先生、Aさん、ケアワーカーの皆さん。そして、私の至らなさを笑って許して下さり、いろいろと気をつかって下さったこの施設の利用者の皆さん、四日間、本当にありがとうございました。