日本キリスト教史
1、キリシタン史理解のために
1549年キリスト教は、天竺の仏教の一派として日本に受け入れられる。キリスト教を伝えるために日本に来た宣教師は約三百名ほどであった。そのなかでも半数近くを占めていたとされるのがイエズス会である。ザビエルをはじめイエズス会から多くの宣教師、修道士が日本へやってきた。また宣教事業従事者は千六百人を下回らないとされる。
さてこれらの活躍により、どのくらいの日本人が改宗したかと言うと、およそ半世紀後には三十万人以上が改宗したとされる。また一世紀後には八十万人近い人が改宗したという。しかし禁教令とともにことごとく消えていった。
このようにキリスト教が受け入れられたのには大きな時代背景がある。まず、戦国の世の中で多くの仏教勢力が消滅又は沈滞した。また世に人々が来世での救済を強く待ち望んでいた。そしてマリア信仰が盛んになったということが上げられる。もちろん時代背景だけでなくいろいろな努力があった。たとえば、ペテロ・ゴメスは日本での布教にふさわしい内容を盛り込んだ「神学綱要」を習得して布教にあたった。このことに現れるように、ただキリスト教を売り込んだのではなく、キリスト教に日本独自の文化を盛り込んで布教した。また、識字率が高かったこともあり出版物の力によるところも大きかった。また戦国大名がそれぞれの国を支配していたことも大きい。各地でキリシタン大名が生まれ、それが家臣や領民にもキリスト教の考えを強制したということもある。
2、イエズス会創設と東洋布教
ヤジローが人を殺して逃亡の為にザビエルにあう。これがきっかけでヤジローは洗礼を受け、日本人最初の信者となる。又ザビエルはヤジローを通し日本を知った。
ザビエルは初めインドで布教をしていたが、インドではうまくいかず他の地を探していた。そしてそこにヤジローとの出会いがあり日本へ布教するために渡ることとなったのである。
3、キリスト教の伝播と初期布教
イエズス会が中心となり、織田信長や九州などの各大名の庇護のもとキリスト教を広めて言った話はもう繰り返すまい。しかし、そのような好条件がそれっていてもまだ不利な条件がいくつかあった。
その最たるものは仏教勢力との対立である。それがもっとも顕著に現れたのは京都である。ここでは何千人と受礼者がいるほかとは異なり、初めは指で数えられるほどの人数しかいなかった。そんな状況を打開するため、宣教師たちは日本語を学び、仏教を学び、信教を学び、さらには日本の風土が持つ独特の文化さえも学んだ。また、諸大名に頼み込み三好三人衆をも説得した。その甲斐あってだんだんと洗礼者を増やしていった。
4、キリシタン布教体制の確立
宣教師たちはキリスト信仰をより深く根ざすためいろいろな努力をした。また本国と連絡を取ったりしたが自分のことばかり考え、都合のいいことばかりを言ったものだから過度な期待を持って日本へ来る者が後を絶たなかったため、手紙をひとつに絞ったりした。また少年使節を送りキリスト教の教えを深く広めようとした。
5、伴天連追放令とキリシタン教会
信長が死にだんだんと雲行きが怪しくなってくる。やがて、秀吉が実権を握るようになりキリスト教も一向一揆などと同じで自分を脅かす存在になるのではないかと考えた。それには不幸にも、宣教師たちが必死に諸大名を抱え込んだ事が大きく影響を与えた。中でも高山右近が棄教を命じられてもそれを頑なにそれを退けたことが、秀吉に大きな危機感を与えたとされる。やがて伴天連追放令が出され公に布教活動が出来なくなっていった。それに加え、資金の不足などのこともあいまってさらに厳しい状態へと追い込まれていく。
6、幕藩体制社会とキリシタン教会
秀吉の死後、徳川幕府が成立する。宣教師たちはここぞとばかりに家康に近づいた。家康も南蛮貿易に魅力を感じていたので、少々の制約は加えつつも布教をゆるした。しかしたびたび南蛮船が来航を中止したりという事があり家康はだんだんと不信をつのらせ、ついにキリシタン岡本大八がデウス号事件に関わっていたことがわかり禁教令が出されるにいたった。そして家康から秀忠へと将軍職が変わってよりいっそう厳しく取り締まられていった。一例を挙げれば、町人全員キリシタンと言われた長崎は激しい拷問と処罰により殉教者が激増したとされる。また宣教師も続々と密入国を重ねたが皆殺されていった。時は進み将軍は家光となる。この年コンフラリアという信仰集団が動き出した。この動きはやがて天草・島原の乱へとつながり、それによってキリシタンの勢力は一気に減少する。結果としてはこの乱によって幕府の体勢がまた一つ固まったとも言える。そしてとどめがあの有名な踏み絵である。これには隠れキリシタンの摘発と、一度つまずかせキリシタンへの立ち返りを防ぐ効果との二つの意味があり時が進むにつれ、後者の方の意味合いが強くなった。それでも隠れキリシタンが数多く残り開国とともに教会へと復帰する。しかし今では過疎化などが起こり大多数の組織が消滅したとされる。
7、近代日本とキリスト教
やがて日本は開国する。このとき長崎にいた隠れキリシタンが数おおく教会に復帰するがそれが原因で明治政府が目指す天皇中心の政治に邪魔になると目をつけられてしまう。五榜の掲示によりまたキリシタンは退けられていく。そして数多くのキリシタンが流刑に処せられた。しかししばらくすると海外からの圧力により生存者は本国より召還された。
またプロテスタント教会も続々と進出して来た。日本基督公会などが入ってきた。そしてこれらは文化の宗教として理解された。やがてこれらの教会は一つの日本組合教会となる。
そのほかにもメソジスト教会や聖公会も存在した。聖公会については政府が招待した外国人教師がキリスト教公布の為大きな足跡を残した。しかし明治三十三年、不平等条約が解消されたことによりキリスト教の拡大を恐れた政府はキリスト教教育禁止を私立学校に申渡した。
やがて戦争へと突入していく中でキリスト教は国家主義的色彩を帯びるようになる。諸教会は外国との関係を打ち切り独立したりなど国家に擦り寄っていった。そうすることでそれに属する団体も存続することが出来た。立教大学や上智大学などがそれである。
そして戦争も終わり、各教会は独立し再び海外との関係を取り戻して活動を再開しはじめた。しかしいまだにキリスト教は外国の宗教であり、一般になじみの深い宗教とは成っていない。キリスト教がはじめて日本に来てから長きに渡り数多くの苦難があったが、まだ日本土着の宗教と成るにはかなりの道のりがあり、また時間が必要であろう。
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