倫理と本能―その矛盾と展望
倫理と本能とは対立する概念である。
人間と他の動物との差異の中で決定的に大きなものは―もちろん人間以外に意識を持つものがいないということが前提であるが―そこに意識という存在の介入があるかどうかということだ。意識ということは平たく言うならば考えることができるということであり、また考えなくては生きてゆくことができないということである。だからこそ人間は思考し、働くことで生きるための糧を得ているのだ。それははじめて意識ができたときからそれを持つものに強いられたことなのである。
ではそれ以前はどうであったかというと、それは現在の人間以外の動物と同じく無意識、つまり本能というものによって生きることができていたのだ。その本能というものがいかなるものかということは一概には言えないがこれまでの生物の歴史を見ることで共通していた生物の行動を本能と定義するならば、それは子孫の繁栄ということになる。それがいかなる理由によってそうなったのかを知る術は持たないが、子孫の繁栄ということが生物の前提であったことは否定できない。なぜなら、子孫の繁栄を望まぬ生物がいたとしたらここに存在することもないからである。共食いをするという種もいるがそれがそのまま子孫繁栄に結びつかないと考えるのは早急である。それというのはその背景にあるものとしてその種の中で弱者たる一個体と絶対的ではないが相対的にその個体より強い一個体がいた場合強者が弱者を捕食するという行為は繁栄のために強力な遺伝子を残すためか、弱いということでそれからも生き残る確率の低いものを残すより自身を強めることでそれだけ多くの子孫を残すためであるからだ。
それに対して人間の場合、つまり意識が介在した場合どうなるのかといえば、その意識というものの本能に対する割合にもよるが、本能に対立する概念が生まれることになる。つまりどういうことかというと初めのころの人間というものはそれまでの動物とそれほど変わらなかった。生きるための糧を自らで得なければならなくなったということだけが意識の全てであって、その先にあるものは子孫繁栄のための本能であった。それが意識の変化にともない、本能からの離脱がみられるようになる。即ち倫理観の誕生である。今述べたとおり人間にもはじめは倫理というものはなかった。はじめはといったが場合によっては数十年前までも倫理というものは存在していなかった地域すらある。ある場合では奴隷貿易であり、またある場合ではナチスドイツであった。それらのことが容認されていた時代は奴隷というものを自分たちの種と別のものと見ることで、ゲルマン人以外を別のものと見ることで、自身の種の繁栄を願うという本能色の強いものであったのだ。それが近代になるにいたることで世界中を席巻している本能と対立する存在があらわれる。つまり人権であり倫理観である。人権や倫理観といったものがなぜ本能と対立するかは議論に及ばない。子孫の繁栄を目指すのであれば弱者の保護などというものはその後の繁栄に対してはプラスになるどころかマイナスになるものだからである。本来であったならば生き残ることのできないものが生き残ることはそのまま子孫の弱体化を招くことになるからだ。
では人権や倫理といったことが子孫繁栄を願うものでないならばなにを目的としたものなのであろうか。倫理や人権、社会福祉によって守られる社会的弱者というものを後世の繁栄に直結しないものとすれば、いったい何のための倫理かということになる。それは子孫の繁栄ではなく現在の種の繁栄を願うものととることができる。弱者保護が未来にとってマイナスになるのならばなににとってプラスになるのかを考えた場合出てくる答えがそれである。子孫にとっての繁栄にはつながらなくとも、現在の種を考えた場合には繁栄ということになるからである。
人間というものはその本能と意識との割合の変化に連れて社会体制を変えてきた生き物である。意識の割合が多くなるに連れて学問は発達をし続けてきた。その発達に伴い、それまで必要なかった概念が次々と必要とされていくようになったのである。はじめは食べていくために必要となったことが狩猟その他の直接食料を獲得するための方法が必要とされ、つぎに食料獲得のための方法が直接ではなく間接的労働によっても可能になったときに貨幣が誕生した。そしてその労働の効率化等の副産物として科学が発展するに連れて神という存在が邪魔になっていった。そこで起こったのが諸々の革命なのである。民衆はそれまでの絶対王政でも食べていくことはできたが、科学によって神の手を離れた社会は絶対的なものを支柱として限界を迎えた社会体制から新しい形での社会体制を望んだ。それが神という絶対的な個による統治の鏡面に映った、社会を構成する民衆による民主政治だったのである。民衆が主体となるのに伴って政治を行うものとして民衆が権利を主張し始めるのは当然であった。そして体制というものは時を経るのとともに強化される傾向にある。倫理や人権ということが当然の権利というようになるのに時間がかかることはなかったのである。
そして現代。全体性の影響いまだ強い世の中で、それに反対する概念もまた影響を強めつつある。環境問題だ。「環境を守る」、この言葉を近年耳にしない日はないといって決して過言ではない。なぜこの話題が倫理、人権と対立するのか。それは環境問題が本能の働きに由来するものだからである。「環境を守る」とはその実、“人類が生きていけるための”環境を守ることに他ならない。「かけがえのない地球を守る」というのは「かけがえのない人類の未来を守る」ことへのスケープゴートに過ぎないのだ。ここで人類の未来、と書いたがそれにももちろん理由がある。今そのときの繁栄を望むのであれば地球環境など実際問題どうでもいいということになる。エネルギーの枯渇が早まろうが森林が激減しようが、今生きている人類には何の影響も与えない。影響があるのはわれわれの次代以降の世代なのだから。このことから、環境問題が子孫繁栄を目的としていること、即ち本能に由来することが明らかとなる。本能と意識が対立するものだということはすでに述べたが、この場合も例外ではない。環境即ち人類の未来を重視すれば人権や倫理はそれを妨げるものに他ならないし、人権倫理すなわち現在の繁栄を重視すれば環境問題などはそれを妨げるものに他ならないのである。
つまり、現代の世界というものは倫理や人権といったものと環境問題などの本能という矛盾の対立の中にあるわけである。なぜ現在倫理や人権というものと環境問題が表面上対立しているように見えないのかといえば、ひとつには環境問題が顕在化してまだ日が浅いことがあり、もうひとつに倫理や人権などを重視する人間にも環境を重視する人間にも決定的な決め手がないことがある。これは過去の状況と酷似している。そう、諸々の革命があったあの時期である。それまでの体制―神に由来しそれがそのまま本能に由来していた体制―と新体制―神を離れ倫理や人権の生まれる要因となった民主体制―とがせめぎあっていた時期である。これが何を示しているか。それはそのまま今の時代が旧体制と新体制との間の過渡期であることを示している。今後の体制が本能に基づくものになるのか意識に基づくものになるのか、はたまた二つの対立の中から弁証法的に現れる第三のものになるのかは予想しがたいが、体制の決定に際しなんらかのきっかけがあることであろう。
これより先は推測する以外にないがおそらくその決め手となるものは人口問題であろう。現在先進諸国では社会基盤の整備に伴い生活が安定してきたこととともに労働力としての子供を欲しがらなくなったことで平均年齢は上昇し、出産率は下がっている。それとは全く逆のことが発展途上国にはいえる。社会基盤が整わないということは生活が安定しないということであり、生活が安定しないということは収入を得るための手段が限られることであり、少しでも多くの労働力が必要になることだからだ。そのためいやがうえにも人工は上昇し続ける。そしてこの先進諸国と発展途上国の関係が崩れることは現実的にありえない。それはその傾向自体がお互いの社会状態に端を発するものだからである。つまり先進諸国の社会基盤の安定は発展途上国からの搾取によるものであり、発展途上国の社会基盤整備が進まないのは先進国による搾取のためであるということである。つまりこの状況が変わらないということはこれからも爆発的に増え続ける人口をとめる手立てはないということだ。過度に人口が増加するということで人類は選択を迫られることになる。人口を減らすか、未来の人類を絶滅させるか、といった。
いずれにしても、そう先の話でないことだけは確かである。
平成16年5月12日