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どこへ
行くのですか?
Where Are You Going?
I.C.ヘレンディ−ン

 時は瞬く間に過ぎていきます。日も週も月も年も信じられないようなスピ−ドで過ぎ去っていき、気がついたときにはもうどこにもありません。時の流れというものは過ぎ去ってしまうというより、もう永久に戻ってこないと考えるべきです。同じように、その日の出来事も遠い過去へと退いていきます。この世のものはすべてはかなく一時的でしかありません。いつまでも変わらずに存続するものは何もないのです。「私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。」(詩篇90:9)。
 私たちの一生というものは、あっという間に逃げ去っていきます。この世の旅路の終着点は、すぐに、しかも確実にやって来ます。このような厳粛な事実があるにもかかわらず、私たちは仕事、労働、日々の暮らしなどにあまりにも忙しく、時の過ぎ行く速さに、多かれ少なかれ無感覚です。時間が無くなっていくことに気付いたとしても、それについてあまり考えようとしないか、何とかなるだろうと思ってしまいがちです。
 私たちの死の時は、心臓の鼓動とともに刻一刻と差し迫っています。そして死を迎えると永遠の世界に連れゆかれます。そこからはもう戻って来ることも逃げ出すこともできません。この事実を心に留めておくのはどれほど大切でしょうか。死というものがあまりにも普遍的であるため、私たちは深く考えません。死というものに対してある種の免疫ができてしまっているかのようです。死は非常に漠然としていて、非日常的で、当分ありそうに思えないので、真剣に考えようとしません。それどころか私たちはあと何年も生きるのだと確信しています。ところが、神のみことばは真実にこう警告してます。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)と。戦争や事故で非常に多くの人々が死んだとか、何千人もの人々がアフリカやインドで餓死したとか、見聞きします。しかし私たちは、そのような事実を少ししか、あるいは全く考えることがありません。私たちには直接関係がないので、あまり大きな意味をもたないと考えてしまうのです。隣近所の人が亡くなったり、身内の一人が世を去ったりすると、ひととき立ち止まって考えるかもしれません。でも、すぐに記憶から遠のいてしまい、日々の自分の暮らしを続けます。多分、心の片隅では「自分は大丈夫だ。心配する必要はない。」と考えるのです。  
 しかし、もし私たちがこの世を去ると同時に(今日という日が終わる前にそうなるかもしれません)、全く希望のない地獄の「焼き尽くす火」(イザヤ 33:14)の中で目を覚ますことを知れば、改めて死というものが深刻なものとなるはずです。実は、神のことばは、まさにこのことを救われていない罪人に教えているのです。聖書は明確に、そして簡潔に「悪者どもは、よみに帰って行く」(詩篇9:17)と教えています。「金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げ…」(ルカ 16:22) 多くの人はからだのことについて心配しますが、不滅の魂の重大さなど全く気にとめていません。しかし、「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」(マルコ 8:36-37)。ほとんどの人は、この束の間の一生が終わるとどうなるのか気遣ったりせず、目的もなく人生の流れに身をまかせています。そして最後には何とかすべてがうまくいくと思い込んでいるかに見えます。これは、いわば彼らの願いです。自分に都合よく考えているのです。 多くの人は自分の、救いのない状態を自覚していません。自分が完璧だとは考えないまでも、何か大変な間違いがあることには気付いていません。彼らは品行方正で善良な市民です。彼らは自分を周りの人と比べて、何も劣らないと考えています。神のことなどはほとんど気にとめてもいないし、教会にも行かないのに、自分では天国行きを当然のように考え、少しも疑いません。ある人は、自分が罪人であることを認めはしますが、自分のした良いことの方が、悪いことよりもはるかに多いと想像しています。ある人は、自分の気に入った教会に属し、バプテスマ(洗礼)を受け、主の晩餐(パンとぶどう酒)を受けているから、すべて大丈夫だと空想しています。しかし、神のみことばは、私たちが救われたのは「私たちが行った義のわざによってではなく」(テトス 3:5)と教えています。さらに、「良い方は、ひとりだけです」(マタイ 19:17)、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)、そのような者には「神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3:36)とも教えています。救われていない罪人は神の目にはすべてこのようなものです。それは、その人が王であろうと物乞いであろうと、身分が高かろうが低かろうが、金持ちだろうが貧乏人だろうが、道徳的だろうが不道徳的だろうが、親切だろうが不親切だろうが、敬虔だろうが不敬虔だろうが、まったく関係ありません。
 人間というものは、やがて来る神の裁きの厳粛な警告と脅威を、なんと軽く考えたり無視したりすることでしょう! 私たちは死後に裁きがあると教えられています(ヘブル9:27)。この真理は、人を不安にさせるので無視されます。従って、人はそのような考えを押しのけ自分の道を歩もうとするのです! まったく当惑して「救われるためには何をしなければなりませんか」(使徒 16:30)と泣き叫ぶ人は実にわずかです。あなたの永遠の運命が危険にさらされているというときに、そのように無関心でのんびりしているとは何と愚かでしょうか!
 すぐです。長い目で見れば、あなたはすぐにでも塵に帰り、あなたの魂は神のもとに帰るのです(伝道者12:7)。皆さん、このことを軽々しく忘れ去らないでください。さもなければ、あなたの愚かさがあの裁きの日にひときわ目立つだけです。永遠に泣いて歯ぎしりするよりも(マタイ8:12)、ひととき卑しめられるほうがはるかに良いのです。
 神の恵み深いことばは次のように述べています。「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。」(エゼキエル 33:11)。「悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。」(エゼキエル 18:30)。あなたが救いに至る信仰をもって福音を信じ、自分の罪を悔い改めなければ(マルコ1:15)、キリストご自身が「おまえたちはゲヘナの刑罰をどうして逃れることができよう。」(マタイ 23:33)と言われます。
 ああ、罪人たち。神の怒りがあなたの頭上にとどまったままで、どうやって今日という日を送ろうというのですか。お忘れにならないように。あなたに与えられている恵みの日はほとんど残っていないかも知れません。神は警告しておられます。「わたしの霊は、永久には人と争わない。」(創世記 6:3英訳)と。 神の忠告に心を留めてください。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ55:6,7)ハレルヤ、何とすばらしい救い主! 時と機会があるうちに、信仰によって今キリストのもとに逃れていただきたい。身を低くし、悔い改めの心をもって自分をキリストの御足もとに投げ出し、あわれみを求めて主に叫んでいただきたいのです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ 10:13)のですから。 キリストは罪人を歓迎されます。キリストは罪人を受け入れてくださるのです。あなたもキリストのもとにいらっしゃいませんか。
「確かに今は恵みの時、今は救いの日です。」(Uコリント 6:2
「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩篇2:12

死後の世界。この世の時はすぐに終わる。
人の一生はつかの間。
罪人よ、あなたはどこで過ごそうというのか。
変わることなき永遠の日々を。

あなたは悟らないか。
絶望の恐怖を、終わることなき地獄の日々を。
この夜、あなたの息が止まるなら、
その小さき生涯が閉じられる。
終わりなき災い --- 第の二の死は、
キリストを拒む者を待ち受け、
あなたの恐るべき将来を見る。
時が終わる。そして --- 死後の世界。



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