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従 順

−聖書の原則に基づく生き方−

A.N.マ−ティン著



序文


『主は私の受ける分です。私は、あなたのことばを守ると申しました。私は、心を尽くして、あなたに請い求めます。どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。』(詩篇119:57-60


 本当に神を敬う心とはどういうものだろうか。イエス・キリストのまことの弟子としての資質に欠かせない要素とは何だろうか。聖書の答えは単純明瞭である。キリスト者の信仰生活は、聖書に表されている神のみこころという原則に真心から従う生き方である。冒頭の聖句は、そのような生き方の主要な部分を包括的に、簡潔に語っている。

 この聖句が、キリスト者の信仰生活に関する聖書の教えをどのように要約しているかを見る前に、従順という事柄が聖書の教えの中心であることを強調しておきたい。さしあたって読者の方々には、次のことを私とともに肯定していただきたいと願う。すなわち、宗教的な真理や体験の中で考察に値するものとは、ただ聖書の証言によって確証されたものだけである、ということを。人の意見と経験は、聖書の証しと調和しなければ、信仰の真理への道案内とはなり得ない。神の民にとって何が真理であり、何が基準となるかを決定するときには、聖書のみが権威を持っているのである。そして、聖書は、従順が真の宗教の中心的位置を占めるということを繰り返し教えている。

 

 神がアダムとエバを造り、エデンの園に置かれた時、一切の喜びと幸いの持続はみことばに対する彼らの忠実な服従にかかっている、とはっきり告げられた。神の命令は簡単明瞭であった。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時(すなわち、この木に関し、私に従うことを止めた時)、あなたは必ず死ぬ。』(創世記2:16-17) アダムとエバが従順の道から外れるようなことがあれば、エデンの園での祝福に満ちた生活は、神との自由な交わりであれ、神と人とに対する真の愛の生活であれ、すべてその瞬間に悲劇的に終わってしまう、というのである。そして、悲劇的にも私たちの始祖は神に背いてしまった! さらにアダムは、従順の道から踏み出たとき、代表者として彼の全子孫をも引き連れていった。神の恵みなしには、人は生まれつき『不従順の子ら』なのである(エペソ 2:2)。私たちは、明らかにされた神のみこころに逆らう道を踏み行く種族なのである。

 

 聖書は、主イエス・キリストの民の贖いは御父への従順を通して成し遂げられた、と証言している。最初のアダムは、自分の不従順な行為によって、自らとその子孫すべてを堕落させてしまったが、第二のアダム(イエス・キリスト)は、神のみこころという原則に従順に従い、御自分の選びの民のための救いを確保された。『すなわち、ちょうどひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり(イエス・キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるのです。』(ロ−マ5:19) ピリピ2:8の言葉にも注目していただきたい。イエス・キリストは『人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた』のである。

 

 聖書は、主イエスが父のみこころに従順に従い、だれもに数えられないほどの群衆の救いを確実なものとするため十字架の上で血をながされた、とはっきり教えている。従順は主イエスの「行いと死」によって成し遂げられた贖いの要にあたる。しかし、聖書はそれ以上を説いている。つまり、主イエスは従順によって買い取った救いをある人々にお与えくださるわけだが、しかも救いを受ける者がみな、生ける神の従順な民となるようにお与えになる、というのである。したがって、第一ペテロ1:2にあるように、聖書は神の民のことを『イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように』父なる神に予知された者たち、と語っている。キリストの血は、人を神に対する従順へと導く救いと関係なしには誰の上にも注がれない。これが、ヘブル人への手紙の著者が『キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり・・・』(ヘブル5:8-9)と語っている理由である。主イエスの買い取った救いが、神の力をもって分け与えられる時、その救いを受けるすべての人の内に神のみこころという原則に従う生き方が生じる。そしてそれは、救いを確かなものとするために歩まれた救い主の生き方の反映なのである。

 

 さらに、みことばは神の民のことを『神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ち続ける』人々と言っている(黙示録14:12)。キリスト者は自分の不完全な従順が救いの根拠だと考えるような独善的な者ではない。いや、むしろ「キリスト信仰」にしがみつく。救いの最初のきざしは、自分の罪深さと罪人に向けられた神の怒りから自らを救うことができない、と告白することである。そして自分が罪人であることを認め、キリストにある神のあわれみに身を投げ出した者、すなわちキリスト信仰を持ち続ける者は、同時に『神の戒めを守る』。彼らはみことばに示された神の意志に断固として従う生活をするのである。ある人が「イエス信仰」を持ち、キリストの救いを受けたと公言しながら、その生活は基本的に従順を欠くものであるなら、神はそのような人を偽り者と呼ばれる。『もし、私たちが神の命令を守る(従う)なら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っているといいがら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。』(Tヨハネ2:3-4

 

 前に引用したみことばから、従順が副次的なものでないこと、すなわち真の宗教の中心点に、いわば間接的に関わってくるようなものではないということが十分ご理解いただけたと思う。神のみこころに対する従順は、真に聖書的な宗教の中心を占めるのである。

 

 従順という概念が救いの中心を占めているということを以上確立したと思う。そこで次に、従順ということばの意味を検討しよう。従順とは、聖書に示された神の命令に、またその背後にある神の権威に細心の注意を払い、意識的に、全身全霊を傾けて服従すること、の意味である。この従順の定義は、よくある事を例にとって説明すれば分かりやすいかもしれない。従順な子供とはどのようなものだろうか。父親が「さあ。もう遊びはやめて帰っておいで。」と言ったとしよう。その時、子供が明らかに反抗的で、ふてくされた顔をして、しぶしぶ家の中に入って来るとしたら、それは従順だろうか。父親は「いい子だ。よくお父さんの言うことを素直に聞いたね。」と言うだろうか。とんでもない。子の足は家に向くかもしれない。しかし、父が父として子を従わせる権利を持っていることを、その子が理解しているとはとても思えない。このようなイヤイヤながらの服従は、ただ懲らしめのムチを逃れることを気づかっているだけで、神が与えた親の権威を気づかう真の聖書的な従順ではない。しかし、もし子供が父親の呼びかけにすばやく、しかも気持ちよく、協力的な心と足で答えるなら、違いは誰の目にも明らかである。そこには、しぶしぶ、ただ形だけ親の権威に服従するような姿はなく、真心から従う姿がある。

 

 さて、救いの完成において主イエス・キリストを特徴づけたものは、意識的な従順の行為である。また、救いの適用において、神の民が新しい心を受けたしるしとなるものも意識的な従順の行為なのである。われらの主イエスは人生を流浪されたのではない。ましてや、不注意や軽率さから、十字架に至り、民のために死なれたのでもない。主の、父なる神に対する従順は意識的で計画的なものであった。そして、主の第一の動機は、あの崇高な御父が(主が実際なさったように)生き、死ぬようにと命じられた、ということであった。このような神の命令に、またその背後にある神の権威に細心の注意を払い、意識的に、全身全霊を傾けてする服従は、イエス・キリストに救われた者を見分けるときのしるしである。主イエスの真の弟子は、尊敬すべき主人の、思慮深く、周到なしもべとして、主が生きたように生きようと心を用いるのである。このように従順とは、何よりも神の命令に、そして、その背後にある神の当然の権威に動かされてする、意識的で、全身全霊を傾けての服従以外の何ものでもない、ということである。

 

 さて、生まれ変わっていない人は、このような従順をもって神に奉仕することができない。ロ−マ8:7-8は次のように言ってる。『肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。』 この箇所は、回心していない人が神のみことばに従わない、あるいは神の律法に服さない場合、それは神の律法に反抗しているのではなく、その背後におられる神に反抗しているのだと教えている。肉の思いの敵意の対象は神ご自身なのである。さらにこの箇所は、回心していない人は、神に従い、神を喜ばせるような道徳的能力が無いことを教えている。『肉の思いは・・・神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。』 聖書はここで無能力を意味する言葉を用いている。生まれ変わっていないひとにとって、神に従うことは道徳的に不可能な事なのである。なぜそうなのかは、私たちが従順というもの理解するときにわかる。もし、本当の従順が心に関することであって、ただ単に法律上の規約に表面的に従うかどうかの問題でないならば、回心していない人が神に従い得ないのは全く明らかである。聖書によれば、その人は『石の心』を持っている。神を喜ばせるような服従をなすには、まず神と神のことばを喜ぶ新しい心を持たなければならない。

 

 神が心の性質を変えてくださる。これこそ驚くべき神の再生の恵み、新生の不思議である。神の霊によって人が生まれ変わる度ごとに、聖書の偉大な約束が成就しているのである(エゼキエル36:26-27)。

 

 『あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。』

 

 キリストにあって新しく造られた者は、以前は神に従おうとせず、従うこともできないものであったが、聖霊の力強い再生の御業により、生来の神への敵意に打ち勝ったのである。そして彼らは啓示された神のみこころに従う道を、意識的に、全身全霊を傾けて歩もうとしている自分を見出だすのである。

 

 次に、キリスト者の生活は当然聖書に示された神のみこころという原則に従う生活である、という見解を考える上での極めて重要な点に移ろう。よく注意して話しについて来ていただきたい。これは問題の要である! 新生は従順をもたらす。しかもそれは神の命令に、意識的に、思慮深く服従する従順以外の何ものでもない。新生は神のことばに服従したい願いを起こす。それは神のことばに服従する力を与え、神に従おうとする新たな心を造り出す。しかし従順に関する基本的な心理を変えることはない。新しい心を持つ人でさえ、従う時には神の言う事を行なおうとの、意識的、意図的選択が伴わなければならない! 主のことばに従う道を意図的に選ぶことこそ原則に従う生活の中心である。このように従順が習慣的(すなわち生活のパタ−ンとなっている場合)に示されるところに、原則に忠実に従う従順の生活が存在する。よく考えた上で従う選択をする以外は、神のみこころへの忠実な服従ではない。実際のキリスト者生活とはそれほど単純である。キリスト者の生活は「神にまかせて、なすがままに」というようなものではない。私たちは従おうとする時はいつも聖霊の力を求め、拠り頼まなければならない。しかし私たちがもし「なすがまま」(すなわち残れる罪に抵抗もせず、戦おうともしない)なら、神が私たちに命じたことをしてくださるようなことはない。神が私たちの代わりに従うようなことはない。

 

 私たちは、原則に忠実に従う生活が、無節操な感情やいまだ残っている道徳的腐敗によって打ち負かされるのを許してはならない。もし、良い感情が従順に伴っているならすばらしいことである。神がほめたたえられるように! しかし、たとえ自分の腐敗を感じたとしても、なすべきことは変わらない。服従していく上で、内に残る罪が逆らったとしても神に従う義務を免ぜられるわけではない。私たちは徹底してこのような見方をしないかぎり人生の歩みはもたつき、滞ってしまうだろう。無節操な感情と内に残る罪に勇ましく立ち向かうことがなければ、神に従う本当の生き方をほとんど知らないのである。

 

 親愛なる読者の方々、あなたはどうだろうか。あなたにとって従順とは、よろこび溢れる花のベットの上にいるかのように、流れに身をまかせるようなものだろうか。つまり、あなたの気分と周りの状況がうまくかみ合ったときだけ神に従うのだろうか。魂が内に残る罪の嵐に打ちたたかれる時、心の思いがサタンの猛攻撃に苦しめられる時、体が疲れている時、あなたは従順を放棄し、異教徒のごとくふるまうのだろうか。今日は従いたくないから、ということで従順の道から外れていくのだろうか。もしそうだとしたら、もしこれらのことがあなたに当てはまるなら、私はどうにかしてあなたをそのような思いから引き離したいと思う。どうか神が、そのような考え方をあなたの心から追い払い、いかなる代償があろうと神のみこころを行う、という決心、いわゆる原則に対する従順な心を入れてくださるように。

 

 

1.原則に従う生き方の基盤

 原則に従う生き方の基盤はいったい何であろうか。みこころに忠実に従う生活を神に捧げようとする場合、そもそも、どのような心の思いが不可欠なのだろうか。詩篇記者が『主は私の受ける分です。私はあなたの言葉を守ると申しました。』(詩篇119:57)と言ったとき、彼はその答えを述べている。この聖句は原則に従う生き方の基盤を二つ示している。(1)神を選ぶこと(それは救いをもたらす)・・・『主は私の受ける分です。』 (2)神に仕え、みこころを行うとの断固たる献身・・・『私はあなたの言葉を守ると申しました。』 この二つの主根がしっかりと心の中に根ざしていなければ、原則に従う生活などありえない。

 

 まずはじめに詩篇記者は、偉大な契約の神エホバ(今やイエス・キリストによってご自身を表しておられる神)は自分の受くべき分だと宣言している。言葉を変えていえば、神を自分の愛と献身の最高の対象としたのであり、エホバを自分の神として選んだのである。そして、その選択は救いをもたらす。

 

 新約聖書ではこのような考え方をどのように言い表しているだろうか。この質問にできるだけわかりやすく答えるために、出発点として、ヨハネの福音書に出てくるイエスの「わたしは〜である」発言をとりあげてみよう。イエスは『わたしはいのちのパンです。』と証言された。真の信仰は心から「主イエスよ。あなたは私が受くべきパンの分け前です。私はあなたを唯一健全なたましいの糧として楽しみます。」と応える。神の御子は『わたしはいのちの水です。だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』と言われた。真のキリスト者は「あなたは、わが受くべき杯、わが永遠の相続分です。」とこたえる。キリストは『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』と宣言された。キリストのうちに新しく造られた者は「私はあなたの道を、真理を、命を選び、偽りの道はすべて拒否します。あなたは私にとってこの世の、そして来るべき世の唯一の相続分です。」と答えるのである。この、ご自身の啓示(それは、みことばと御子のうちに示されている)どおりにエホバを選ぶこと、そして、われらの受くべき分、われらのいのちとしてエホバを受け入れること、これこそが真の聖書的な回心の本質なのである。

 

 親愛なる読者の方々、もし、あなたが今までに自分の罪を見たことがなく、イエス・キリストにおいて示された神の救いの備えをどうしても必要としていることがわかっていないなら、さらにはキリストの完璧な生涯と、十字架上で罪を負った彼の死のゆえに彼だけが貧窮する罪人の絶対的必要を満たすことができるということを、認めたことがないなら、神の原則に従う生活はあなたには不可能である。原則に従う生活を送ろうとするあなたの決心は、まったくの挫折に終るか、あるいは体裁とか、信仰生活の人目につく部分をよくすること(それは人々の賞賛を博するかもしれないが、神を喜ばせることはない)で十分とする自己欺瞞の形式主義者になるかのどちらかしかない。神のみこころを行うためには、まず「エホバはわが神である。」との、救いに至る選択をしなければならない。

 

 神の恵みによって、そのような救いに至る選択をした人は数多くいる。しかし、これは原則に従う生き方の第一の基盤にすぎない。これに関連して、神に仕え、みこころを行う決断という第二の基盤がある。もし『主は私の受ける分です。』という救いに至る選択をしたならば、とうぜん神に仕え、みこころを行うとの断固とした献身もあるはずである。詩篇記者は『私は(心の奥底における固い決心を表明して)あなたの言葉を守ると申しました。』と言っている。神は、彼の受ける分であると同時に、彼の主であり、主権者なのである。神は、ご自身を、救いをもたらす憐れみ深い神として示されたが、詩篇記者はそれをすべてとせず、エホバのことばを自分の生涯の規範として受けとめたのであった。チャ−ルズ・ブリッジスはこの箇所を注解して次のように言っている。

 

 「もしわれわれが主を、自分の受ける分として見るなら、王としても見なければならない。『私はあなたのことばを守ると申しました。』 これはよく考えた上での決心である。ここに完熟したキリスト者の姿がある。すなわち主を自分の受ける分と認め、主のみことばを自分の規範として受け入れる姿である。自分のすべてと、所有する一切のものは主のものであり、主の権利としてこれをこころよく明け渡し、主の働きに喜んで用いなければならない。このようにしてわれわれは、主の救いに対する関心を示すことになる。」※1

 

 あなたは原則に従う生き方に欠かせない基盤を持っておられるだろうか。あなたは神の恵みによってキリストのうちにあらわされた神を、自分の受ける分としてすでに選んでおられるだろうか。私はあなたに、礼儀正しい生活を送る決心をしたかとか、教会に行く決心をしたかとか、手をあげて伝道師に祈ってもらうことにしたか、などということを尋ねているのではない。私が尋ねたいのは、聖霊はあなたの必要の深刻さ(それはイエス・キリストのご性質とお働きによってだけしか満たされない)を示してくださったか、ということ。あなたは主を自分の受ける分として選んだか、ということ。神に仕え、そのみこころを行う固い決意をもっているか、あなたの意志を主のご意志に喜んでゆだね、主のみことばを生涯の規範として選ぶ決心をしたか、ということである。

 

 このことはあなたにあてはまるだろうか。もし、そうでないなら、あなたには自分をキリスト者だと呼ぶ聖書的根拠などまったくないことになる。そして、そのことはおそらく、あなたが原則に従順な生活をしようとするときの問題の中心である。ようするに根本的なものがあなたには欠けているのである。今までに救いに至る神選びなどしたことがなく、神に仕える固い決意もなかったのである。もし、これがあなたの場合ならば、今ここで、神が恵みとあわれみにのうちにいまだ近くいてくださる間に、主を選び、主の前に身を低くしなさい。『わたしのくびきはおいやすく、わたしの荷は軽いからです。』と言われた主イエスのくびきのもとに来なさい。

 

 

2.原則に従う生活の風土

 冒頭の聖句は、ただ原則に従順な生活の基盤を示しているだけではなく、そのような生活を送るための風土をも示している。原則に従う生活の風土、あるいは霊的な意味での空気とはいったい何だろうか。今回の聖句によれば、そのような風土には、二つの要素がある。(1)真の祈りに表れる神への信頼。『私は、心を尽くして、あなたに請い求めます。』 (2)神の約束を信じる信仰。『どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。』

 

 詩篇記者は、まず、真の祈りに表れる神への信頼という風土について語っている。彼は神のことばに従うべき義務に直面し、自分の弱さや誤りやすい性質を感じた。そして、そのような状況で唯一自分にできる理性的な行動をとった。すなわち、彼は祈ったのである。彼は心を尽くして神の恵みを乞い求めた。彼は王が顔を自分に向け、主人の意志を行うための恵みと力を与えてくださるように、と嘆願したのであった。

 

 詩篇記者が何を意識していたか、おわかりだろうか。彼は、基盤が自分のうちにあるだけでは十分ではない、と知っていた。主は彼の受ける分であり、彼は神のことばに従うことを誓った。しかし、その時その時の恵みがなければ、たとえ新しくされた心の決心でさえ不十分であることを知っていたのである。したがって、風土(その中で聖書原則に従う生き方があらわされる)とは、ある意味で祈り深い神への信頼のことだったのである。そして、主だけが従う力を彼に与えることができる。

 

 詩篇記者はまた、原則に従う生き方の風土に欠かせない要素として、神がお約束になったものへの信頼についても語っている。『どうか・・・私をあわれんでください。』と彼は祈っている。しかし、彼はどの程度あわれみを待ち望んでいるのだろうか。それは、神がお約束になったのとまったく同じ程度である。『どうか、みことばのとおりに(すなわち、あなたがことばでお約束になったとおりに)、私をあわれんでください。』

 

 これが原則に従う生き方の風土である。それは、私たちのうち(すなわち、私たちの肉のうち)には、善が宿っていないという認識を伴う風土である。そのような風土の中に生きているキリスト者は『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』(ヨハネ15:5)というイエスのことばの真実性を認める。この自覚は、私たちが全身全霊を傾けて神の恵みを乞い求めるように導きつづけるのである。私たちが神のみこころを行うのに必要なものはすべて与える、との神の約束は、私たちが祈るときの大きな励ましである。ペテロは『神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与える』(Uペテロ1:3)と証言している。神は『わたしの恵みは、あなたに十分である。』(Uコリント12:9)、『罪はあなたがたを支配することがない』(ロ−マ6:14)と言っておられる。神の約束によれば、キリスト者の可能性とは『私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなことでもできる』(ピリピ4:13)というものである。このような尊い約束は、キリスト者にとって、乞い求める時の原動力となる。「ああ、主よ。また失敗してしまいました。今度こそよくできるように、何とか助けてください。」などと神に泣きごとを言うことはない。いや、むしろ、神の約束どおりに憐れみが下されるように祈るのである。

 

 これを読むキリスト者の方々、あなたは、原則への従順に導く風土、すなわち弱さの自覚と全き信頼という風土を育むことを学ばなくてはならない。それは、あなたが全身全霊を傾けて祈るように導くものである。信者の中には、そのような風土を育むために大いに労する必要のある人がいる。その人々は、特に恵みの御座において労しなければならない。しかし、彼らの祈りの生活を見ただけでは、そのことは決してわからないだろう。恵みの前進がわずかしかないのを嘆いたり、うめいたりすることはあっても、祈ることがなければ、見かけ倒しの生き方というボロ着は、祈りのないあなたに対する神の呪いのしるしとなるだろう。『あなたがたのものにならないのは』とヤコブは言う。『あなたがたが願わないからです。』

 

 神は、あなたの弱さと、ご自身の強さとを交換するうってつけの手段として祈りを定めておられ、もし、この手段を軽んじるならば、神はあなたの信仰生活を繁栄させることはなさらない。長老から長老へとたずねまわって、週に百ものカウンセリングの時を持つこともできるだろうが、祈りがなければキリスト者として成長することもなく、残れる罪に打ち勝つこともない。あなたがたの中には、まとわりつく罪に苦しんでいる人がいる。それなのに、日々(いや、日に何度も)、神がその罪の根をおとろえさせてくださるように、また、キリストの死が持つ、罪を殺す力を思いと霊に注ぎ込んでくださるように懇願することもない。あなたは、全身全霊を傾けて神に向かって泣くこともない。いや、自分がなぜ、こんなにたやすく誘惑に負けるのか不思議がっている。あなたは、心がともなわないまま悔い改めようと努力し、もっとしっかりしなければと自分に言い聞かせる。明日になれば、また今日と同じように戻ってしまうことを知っていながら、神に本気で叫ぶこともない。あなたは、実は神と罪をもて遊んでいるのである。

 

 原則に従う生活の風土は、真の祈りにあらわれる神への信頼と、神の約束を信じる信仰によって認めることができる。愛するキリスト者の方々、あなたは、神の約束をどのようにして祈りの燃料とするか学ばなければならない。密室でどのように神と争い、みことばをもって嘆願するのか学ばなければならない。これなしに原則に従う生き方を知ることはない。

 

 「先生、私はなにか特別な信仰生活のやり方を期待していたのに、祈りと聖書朗読にもどりなさい、と言うのですか。それなら信じたての頃聞きました。」とあなたは思っているかもしれない。あなたは、今いるところから、なぜ進まないかおわかりだろうか。それは、あなたが聞いたことに耳を傾けなかったからである。私が、なぜ祈りと聖書朗読を思い起こさせているかというと、今とりあげている聖句が、まさにそのことを教えているからである。私たちが恵みに成長するために、神がお定めになった手段は簡単なものであって、けして新規なものではない。だから、もしこれほど簡単な手段を無視するなら(いつも魔法のような解決策をさがしまわるなら)、よろめきながら歩む生涯を、自分に運命づけることになるのである。

 

 

3.原則に従う生活の実際の歩み方

 私たちは、原則に従う生き方の基盤と風土について見てきた。それでは、このような生き方に見られる歩みとは実際どのようなものだろうか。心と思い、意志と霊の働きは、どのようなものだろうか。この質問の答えは、今とりあげている聖句の後半にある。『私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。』

 

 原則に基づく良心的な従順は、まず、正直な自己吟味から始まる。『私は、自分の道を顧みて』 このことばは詩篇記者の正直な自己反省の姿を表している。彼は自分の『道』、すなわち自分の行動様式について意識的に思い巡らした、と証言しているのである。自分の『道』とは生き方のことである。たとえば、時と財をどのように使うか、配偶者と子供の前でどうふるまうか、仕事仲間や近隣の人々とどう付き合うか、どのように考え、語り、行動するか、というようなものである。つまり生活を構成しているすべてのもののことである。

 

 原則に従う生活には、自分の今の立場を冷静に現実的にかえりみる、という作業が含まれる。何年も前、ある宣教師の友が、サウスカロライナの田舎に説教の奉仕に行く途中、完全に道に迷ってしまった。彼は自分がどこにいるのか全くわからず、目的地を示す標識も見つけられなかったので、持っていた地図は何の役にも立たなかった。彼はすっかり動揺し、途方に暮れてしまった。しかし、彼は自分がどこにいるのかわかれば目的地への行き方がわかるはずだと考えた。しばらく車を走らせていると、道路脇に子供がいるのを見つけた。彼は、車を路肩によせて「坊や、おじさん迷子なんだけど、いまおじさんがどこにいるのか知りたいの。そしたら行こうとしたとこに行けるから。いまおじさんがどこにいるのかおしえてくれないかなあ。」と尋ねた。すると、その子は驚いた目をして「おじさん、いまここにいるじゃないの! ここだよ。ここ。ほかのどこでもないよ。」と答えたという。神はよく、この少年のことばをもって、私の霊的な位置は確かに「ここ」なのだ、という真理を思い起こさせてくださる。今のこの私が私なのであり、ここが私のいるところなのである!

 

 読者の方々、あなたは自分が今どこにいるのかおわかりだろうか。立ち止まって考えたことがあるだろうか。詩篇記者は、自分が実際どこにいるのかを知りたかったかに見える。彼は自分の道を顧みた。すなわち、自分の生き方をじっくり反省したのである。彼が抽象的に、表面的にそれをしたのではなく、神のことばを前にして行ったことは明らかである。なぜなら『あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。』と語っているからである。神のことばという地図を前にして、自分が今どこにいるのかを習慣的に吟味する姿勢がなければ、原則に基づく従順がどんなものであるのか、けしてわからないはずである。過酷に思えるだろうか。そのとおり。「先生、気がすすまない時でも、そうしなければいけませんか。」 そう、気がすすまない時にも。「それは罪に向かう惨めな思いをどうすることもできない、とわかっている時もということですか。」そう、たとえ道のりは痛ましくとも。

 

 しかし、神のことばに照らしながら正直に自己反省をしても十分ではない。自己吟味だけでは、原則に従う生活に至ることはない。そこには必ず、考え方、生き方の意識的改革がなければならない。神のことばに照らして自分の道をかえりみ、対処すべき罪を見出すとき、あなたはその発見に伴い、心が痛み、その罪を殺すべき霊的な戦いを予測するだろう。しかし、それは、あなたが戦いの場を避けて通るようにするだろうか。あなたは、そういう問題に取り組まなくてすむようにテレビをつけたり、新聞を読んだり、庭いじりをしたり、他の何か気晴らしになるものを探したりするだろうか。詩篇記者はそのようなことはしなかった。みことばに反する生き方や、まっすぐでない皺、あるいは神の道徳的基準にそぐわない異常な性質などに気がついた時には、心の態度と行いを改めるべく自らを規制したのである。正直な自己反省は、彼を意識改革へと導いた。『私は・・・あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。』 詩篇記者が、私はそれをした、私は自分の足を神のことばに従う道に向けた、と言っていることに注意していただきたい。彼は、自分の道をかえりみて「ああ、主よ。私の歩む向きを変えてください。」と祈ったのではない。彼は「私が足を向けた」と言っている。彼は、119篇の他のところでは、神が自分の向きを変えてくださるようにと祈っている。この箇所でも、全身全霊を傾けて神の恵みを乞い求めた、と彼は語っていた。彼は祈りの人であった。彼は、神の力に頼りきる風土の中で生きていたのである。しかし、だからといって、彼は自分で自覚をもって行動すべきことを大目に見てくれるような神の恵みを期待してはいなかった。

 

 このような、詩篇記者の実例は私たちにとって、どのような意義があるだろうか。それは、例えば「神様、純粋な心を持ち続けるよう助けてください。」と祈ったとする。その後、たまたま好色場面の境界線上にあるようなテレビ番組に出くわしたら、直ちにその番組を見ないようにすることである。もし、キリスト者として、その番組をすぐ消すほどの分別と意志がないなら、神の前に良心を保つためにテレビを取り払うことである。「神様、私はいつも食べ過ぎてしまいます。助けてください。」と祈ったら、冷蔵庫と自分の口に入る物にはっきりとした限度を設け、その日から毎日体重計にのって、神の前に正直になることである。きちんと従う生活をしよう、という決意には、自分の生活のパタ−ンを意識的に変えようとする献身がなければならない。その一歩一歩は、聖書に教えられた良心の命令を、各自の実際の心構えや行いのレベルに応じて実行するものでなければならない。

 

 今回の聖句には、感情についての記述はない。罪を改めることは難しくないなどとは一言も言っていない。詩篇記者は、根深い罪を改めるのは辛く厳しい作業であることを知っていた。また、罪を殺さねばならないという辛い見通しは、キリスト者が自分の義務をおろそかにしたり、別の時に延期するための理由とはならない、ということも知っていた。臆病や時間かせぎが、神に良心的に従おうとする場合、敵となることも知っていた。だから『私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。』と付け加えているのである。彼は自分の行いが神のみこころに反していると悟った時、直ちにその行状を改めたのであった。

 

 『私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。』というような断言を見ると、詩篇記者が、全面的で俊敏な従順を言明していることがわかる。彼は、カフェテリアにならぶ人のように、神のことばを選り好みしたのではなかった。彼は「こちらが簡単そうだ。これに変えよう。あれは難しそうだし、一生涯を棒に振ることになる。それは歯を引き抜くようなものだ。目をえぐり出すようなものだ。」などとは言わなかった。否、彼の一番の感心ごとは、神の『仰せ』(原文は複数形)、つまり、すべての仰せであった!

 

 イエスは、もしあなたの目があなたをつまずかせて罪を犯させるようなら、それをえぐり出しなさい。両目のままで地獄に落ちるよりは、からだの一部を失って天国に入るほうがよい、と言われた。あなたがたの根本的な問題は、このように徹底的に罪を殺す必要性を実際信じないことである。これは、あなたが前進していない理由の一つである。罪深い行状を断固として、即刻全面的に改めないのは、あなたが欺かれているからである。そして、あなたは、締まりのない上辺だけの生き方をしても構わないと思い込まされている。それでもあなたは、少なくとも自分は天国の途上にある神の子なのだと自信をもっている。神の民は従順である、との聖句がいくらあっても、あなたは欺かれたままの状態で満足しているのである。

 

 良心と神のことばによるとがめを感じながら、行いをいつまでも正さないままでいることがないように気をつけなさい。このように引き延ばしていると、通常心はかたくなになるものである。『今日、もし(神の)御声を聞くならば・・・心をかたくなにしてはならない。』(ヘブル3:15)と聖書は警告している。罪を『今日』片付けるという緊急な問題と、心がかたくなになる危険の間には、どのような関係があるのだろうか。まず第一に、良心の命令を無視することは、私たちの持っている良心のあかしを聞く能力を殺すという影響を与える。市街地に住む人々は、都会の雑音を無視することに慣れてしまって、もはや車の騒音などは聞こえない。同じように、良心の声を無視することに慣れてしまっている人は、結局、その声すら聞くことができなくなってしまうのである。第二に、良心の命令を無視することは、私たちの良心が語る力を弱めてしまう。親は耳を傾けてくれない、といつも感じている子供は、そのうち親と話さなくなる。同じく、習慣的に無視されている良心は、その持ち主の犯している罪に対して精力的に抵抗することを止めてしまうのである。良心を無視すれば、その圧力はますます小さくなり、しまいには心がかたくなになって神の要求を何とも思わなくなってしまう。

 

 ダビデの生涯は、鋭敏な良心の圧力を受けて、急いでためらわずに罪を処理した人の美しい実例である。サウロ王はダビデを殺そうとしていた。ところが摂理によってサウロは、ダビデが簡単に殺せる場所に導かれた。しかし、ダビデはサウロの命を惜しんだのである。ダビデは明らかに、自分がサウロ王をいかに簡単に殺すことができたかを後に証明するために、ひそかにサウロの上着の裾を切り取った。しかし、そうするやいなや彼は、神に油そそがれた者に対して無礼を働いたことに『心を痛め』たのであった(Tサムエル24:5-6)。ダビデは自分の良心の痛みに対し、瞬間的に反応した。彼は自分の従者とサウロの前で罪を告白した。それによってサウロが自分の存在に気付き、きわめて危険な状況に自分の身をさらすことになるかもしれなかったが、彼はあえてそれをした。ダビデは神と人との前で責められることのない正しい良心を保つために、ためらわず、遅らせなかった。

 

 ダビデの告白の話しの中には、彼が正しいことをしたくなるまで待っていた、などという、彼の感情についての記述は一切ない。ダビデは原則に基づいて行動した。読者の方々、感情の鎖が解けるまでは、あなたが力強く、一貫してキリスト者の競争を走ることは絶対にあり得ない。あなたは、優美な気分の波に乗っていけるように、美しい感情の波があなたの岸辺に打ち寄せるのを待っているのだろうか。サ−ファ−のように完璧な波が来るまで待って待って待ち続けるのだろうか。もしそうなら、あなたは神のことばという原則に従う生活を送ることは決してないだろう。

 

 原則に従う生活をするためには、いま取り上げている聖句に表された考え方が、私たちの性質の縦糸とも横糸ともなる必要がある。あなたがたの中には、その気にならなければやる必要はない、と思いながら育った人もいることだろう。あなたは親に甘やかされ過ぎていたのである。やりたくないことを強いてやらされたことがないのである。すべてのものが銀の器に載せられてあなたの手に渡されたのである。前の世代のように困難と苦労をして生活する必要が全くなかった。ある意味で、あなたが原則ではなく気分に左右されて生きるのは、責められるというより哀れまれるべきことなのである。あなたは親にだまされていたのである。しかし、またある意味では、光と真理を与えられていながら、今までと同じ生活を続けるなら、あなたは明らかに咎められるべきである。そして、あなたの感情志向の行動パタ−ンが変わらないなら、全能の神はあなたに責任を問われることだろう。聖書の考え方に則って生きるということが霊的な習慣とならなければならない。そして、あなたが今現在そういう生活をしていないなら、今日すぐに始める必要がある。今、直ちに、このところから、である。もし、改めなければならないことがあれば「主よ、明日。」とは言わず、自分の罪と今日戦いなさい。原則に従う生活を今すぐに始めなさい。

 

 

4.原則に従う生活の報い

 私たちは、ただ単に正しいことだから、という理由で原則に従う生活を送るべきである。神の意志は神の意志だから従わなければならない。そのような生活をした結果、プラスの実をまったく結ばなくても、またそれに伴う報いが何もなくても、神を喜ばせるから、という単純な理由でそうしたいと思うべきである。イエスは、さらに大きな動機として、きわめて特別な祝福についてお語りになった。それは生涯を通じて楽しめる祝福であり、神のことばに意識的に服従して生きる人に与えられる祝福である。

 

 『もしあなたがたがわたしを愛するなら、わたしの戒めを守るはずです。・・・わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に表します。・・・誰でもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』(ヨハネ14:15,21,23

 

 原則に従う生活は、私たちの告白するキリストへの愛を肯定し、確かなものとする。キリストへの従順は信仰告白の誠実さを表す。信仰と同様、愛はただ言葉だけでなく、行いによって示されるのである。私たちはキリストを愛し神を愛する者である、と告白している。しかし、この告白が真実であると自分自身に証明するのは、自らの行いによるのである。自分が偽善者ではない、という確信は大きな祝福である。私たちの心は、内なる人の霊が真実であるという確かな証拠によって安息を得るのである。

 

 もちろんイエスの導きによって私たちはもう一歩踏み出す。原則に従う生活によって、キリストに対する私たちの愛が真実であるという心の安息が与えられるだけでなく、神はご自分の、従順な民とともに住むという祝福を喜んでお与えになるのである。イエスはそう断言しておられる。原則に従う生活を送ることによって、この世で受ける報いは、神の御臨在を楽しむという特権である。この世における神との交わりは、従順な者たちに約束されたすばらしい祝福であり、さらに神が私たちを愛してくださるという偉大な証拠である。主が喜んでご自身をあらわしてくださり、私たちに宿ってくださるというのは、主が私たちを深く愛してくださっている証拠なのである。

 

 聖書は、原則に従って生きる者に、生涯を通して与えられる尊い祝福を約束している。あなたは、自分が真のキリスト者、キリストを真に愛する者である、という揺るがぬ確信を持ちたいと望むだろうか。神との交わり、神の愛の確信を楽しみたいと切望するだろろうか。もし、これらの質問に「はい」と答えるなら、あなたはその祝福が、原則に従う生活を通してだけ与えられることを知るであろう。これは、イエスが従順な者たちに約束された祝福なのである。

 

 あなたは、イエスが、御父との完全な交わりを保たれたのは、原則に忠実に生きることによってであったとご存知だろうか。イエスは言われた。

 

 『もし、あなたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。』(ヨハネ15:10-11

 

 イエスはどのようにして、御父の愛を確信し喜ぶ、聖い魂を変わらずに持ち続けられたのだろうか。原則に基づく忠実な生き方によってであった。それでは、イエスは弟子たちに何を望まれたのだろうか。それは、彼らが原則に忠実な主の生き方をまねて、主のもっておられた祝された神との交わり、そしてその喜びが彼らの中に満ち満ちたもとなることであった。

 

 父のみこころという意識は、イエスの心と魂に深く刻み込まれていた。主はご自分の道を回顧するたびに、その足を何度も何度も従順の道に向けられたのである。主がゲツセマネの試練に向かうことになったのは、原則への従順に自らの身をおゆだねになったからである。主がゲツセマネからカルバリ−の十字架へと行くことになったのも、原則への従順に身をだねられたからであった。闇が主の身に迫り、飲まざるを得ない杯のことをじっとお考えになった時、神に見捨てられるという恐るべきバプテスマを目前に控え、主の聖い魂がわなないた時、主が「父よ、みこころならばこの杯をわたしから取りのけてください。」と叫ばれた時、主のすべての感情が十字架に至る道から彼を引き離そうとしていた時、主は言われた。『しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください。』と。あのむごたらしい十字架の苦しみや荒々しい群衆の面前に裸でつるし上げられる恥を前に、しりごみしようとするのは自然な心の動きである。しかし、イエスは原則への従順という生き方に身をゆだねることで、そのようなあらゆる心の思いを乗り越えられた。主は御父との既知の交わり(主にとっては永遠の昔から熟知していたもので、少しの陰りもなかった交わり)から断絶されることへの聖なる嫌悪感を乗り越えなければならなかったのである。今や彼は真暗闇の中に突き落とされようとしていた。それでも主は言われた。『しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください。』と。

 

 親愛なる読者の方々、もしイエスが原則に服従する生き方をされなかったら、私たちには救い主などいなかった。もしイエスが御父の意志に従うことに身をゆだねておられなかったなら、ご自分の民の罪のためにカルバリ−で死ぬことはなかったであろう。しかし主は父なる神に従い、カルバリ−へ向かわれた。主は原則に従う生き方に身をゆだねる人々を獲得するために死なれた。主は気まぐれや衝動で主のみこころを行う道からそれるような人々、気分に支配された人々のために死なれたのではなかった。機嫌のいい時だけ妻を愛する夫や、気が向いた時だけ夫に従う妻、あるいは、したい時にだけ親に従う子供、気乗りする時だけ祈り、神の家に来るような人たちのために死なれたのではなかった。そうではなく、イエスは原則に服する生活をもって主の道徳的な生き方に従う人々のために死なれたのである。

 

 あなたは、そのような生き方の基盤を持っているだろうか。救いにかかわる神選び、神に仕え、その意志を行うという決然たる献身をしただろうか。もしそうでないなら、神のもとへ行き、そのような基盤を与えてくださるように神に求めていただきたい。あなたは意識的に神に依存する風土の中に生きているだろうか。神への信頼は真の祈りと神の約束のものを待ち望む信仰とによってあらわされると語った。あなたは神のことばという客観的な基準に基づいて、正直に自己を吟味をしているだろうか。罪深い行為を即座に、全面的に改めて、神のさとしの方へ足を向けているだろうか。

 

 あなたは言われるかもしれない。「先生、もしこれが真の信仰なら、それはあまりにも大変です。私は結構です。」と。それなら、友よ、あなたにとって聖書的な信仰に代る道はといえば、あなた独自の信仰を作り出すこと以外にはないだろう。しかし、そのような道をたどるなら、偽りの信仰とともに滅びる覚悟をしなければならない。真実で救いに至る唯一の信仰は、聖書が教えているものだけである。そして、聖書が教える唯一の信仰こそが、原則に従う生活をつくり出すのである。

                                                                                                                             

    1:Charles Bridges, Psalm 119:An Exposition(1827;reprint ed. Edinburgh:Banner of Truth,1977),p.143

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