聖書的クリスチャンとは?
A.N.マーティン
世の中には、まったく知らなかったり無関心であっても、それ自体、悲劇的でも致命的でもないというようなことがたくさんある。おそらく、あなた方の多くは、アインシュタインの相対性理論についてほとんど知らないと思う。だれかにその説明を求められたとしても、たぶん答えられないのではないだろうか。この場合あなたは、ただアインシュタインの相対性理論を知らないというだけでなく、たぶん、ほとんど無関心なのである。そしてこのような無知や無関心は、悲劇的でもなければ、致命的なわけでもない。茶色い牛が緑の草を食べて白いミルクをつくりだす全行程を説明できる人はあまりいない。それでもミルクをおいしく飲むことはできる! ところが、あることについて無知であったり、無関心であったりすれば、そのどちらも悲劇的であり致命的であるというものが存在する。そして、そのあることというのは、これからあなたの前に提起する問題に対する聖書の答えである。
「聖書的クリスチャンとは何か?」、言いかえれば、ある男性や女性が、あるいは少年や少女が、聖書にしたがって「クリスチャン」という肩書きを自分のものとしてよいのは、はたしていつなのか、ということである。
私たちは、あなたが真のクリスチャンであると軽々しく考えたくない。私は、この問題に対して聖書が答えている四つの原則を、あなたの前に示したい。
1.聖書によると、クリスチャンとは実際に自分の個人的な罪の問題に直面した人のことである。
クリスチャンの信仰にはたくさんのユニ−クな点があるが、その中でも一つをあげるなら、世の中のほとんどの宗教とは違って、キリスト教は本質的にも根本的にも、罪人の宗教だということである。天使がヨセフにイエス・キリストの誕生を告げた時、天使はこういう言葉を語った。『あなたはその名をイエスと呼ぶようになる。彼は、自分の民をそのもろもろの罪から救うようになるから。』(マタイ 1:21) 使徒パウロは、Iテモテ1章15節にこう記している。『「キリスト・イエスは、罪人たちを救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値する。』 彼は罪人たちを救うために世に来られたのである。主イエス・キリストご自身、ルカ5章31−32節で次のように言っておられる。『医者を必要とするのは、健康な人々ではなく、病人たちである。わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を悔い改めさせるためである。』 そして、キリスト者とは、この、自分の個人的な罪という、問題に実際に直面した人のことである。
私たちが聖書を開き、罪に関する教えの全体(もうこれ以上細かくできないというほどの最小のものに至るまで)を理解しようとするとき、そこには、私たちはみな罪とのかかわりにおいて二種類の個人的な問題を持っている、との教えを見る。一つは、私たちが悪い前科という問題をもっていることであり、もう一つは、私たちが悪い心をもっているという問題である。仮に私たちが創世記三章の、人間の神に対する反逆と罪の状態への堕落という悲劇的な記事から読み始めて、それから旧約聖書全体をとおして、次に新約に進み、黙示録の書に至るまで、罪に関する聖書の教理の跡をたどるならば、「聖書が教える罪の教理はすべて、二つの根本的な部類(悪い前科の問題と、悪い心の問題)に分けることができる」と言う私たちの主張が、何も簡素化しすぎたものではないということを理解していただけると思う。
私の言う「悪い前科の問題」とは、何のことだろうか。私は、聖書が私たちの前に置く、罪による人間の有罪の教理を表すためにこういう用語を用いているのである。聖書ははっきりと、私たちがこの世に存在するはるか以前から、悪い前科を負わされているということを告げる。『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだ。それは、すべての人が罪を犯したからである。』(ロマ 5:12)
『すべての人』は、いつ罪を犯したのだろうか。私たちはみな、アダムにおいて罪を犯した。彼は、全人類を代表する者として神に立てられていた。したがって、彼が罪を犯したとき、私たちは彼にあって罪を犯し、その最初のそむきの罪において、ともに堕落したのである。これこそ、使徒が、第一コリント15章22節で『なぜなら、アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人は生きる者とされている。』と記している理由である。人はエデンの園において罪のないものとして創造された。しかし、アダムが罪を犯したその瞬間から、私たちは罪の責めを負わされたのである。私たちは彼の最初のそむきの罪によって、彼において堕落したのであり、有罪宣告を受けている家系の一員である。
さらに、聖書は、私たちが通常の出生によって存在するようになった後、自分の個人的な、個々の反逆のゆえの余罪が私たちに加わると語っている。神のことばは、『この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいない』と教えており(伝道者の書 7:20)、一つ一つの罪は、余罪の責めを招くと教えている。天にある私たちの記録は、汚辱の記録なのである。全能の神は、私たちが生まれ出た瞬間から、実際に行ったことの全部を、絶対に動くことのない基準によって評価されるのである。この基準は、ただ私たちの目に見える行為を裁くだけでなく、さらに私たちの心の中のいろいろな考えやすべての衝動、意向にまでも及ぶのである。それは、主イエス・キリストが、不合理な憤りでカッとなるのは殺人の本質にほかならず、欲望のためという目的で見るのは姦淫である、と言われたほどである(マタイ5:22,28)。
さらに神は「詳細な記録」を保有しておられる。その記録は、裁きの日に開かれる「かずかずの書物」の中にある(黙示録 20:12)。これらの書物の中には、神の聖なる律法に適合しそこなうもの、それに逆らうもの、その基準に反するすべての考え、すべての衝動、すべての目的、すべての行為など、あらゆる規模の人間の体験が記録されている。私たちは、真の生ける神に対して実際に犯した罪のために有罪とされており、その罪責を問われる記録をもとに、まことに悪い前科という問題をかかえているのである。これが、全人類は全能の神の前に有罪として立たせられる(ローマ 3:19)、と聖書が私たちに告げている理由なのである。
自分の悪い前科という問題は、あなたにとって、重大で、切迫した、個人的な悩みとなっているだろうか。あなたは、全能の神が、私たちの最初の祖先が罪を犯したとき、あなたを断罪していること、さらに完全な聖、公正、純正、義に反してあなたが語ったあらゆる言葉のゆえに、あなたを有罪にとどめているという真理に直面したであろうか。神は、あなたが手にしたすべてのもの、神の聖さに反するすべてのもの、さらに、完全で絶対的な真理に反して語られたあらゆる言葉を知っておられるのである。このことは、あなたに障害となるだろうか。つまり、全能の神が、その面前にあなたを呼び出し、神の律法(これが、あなたの魂に罪責をもたらした)に反する一つ一つの行為についての、説明を求める権利を持っておられるのだ、という事実に目覚めさせられただろうか。
私たちは、確かに悪い前科という問題をかかえているのだが、実は他にも問題をもっているのである。それは、悪い心という問題である。私たちは天の法廷において、ただ自分の行ったことで有罪の判決を受けるだけではない。聖書は、私たちの罪の問題が、ただその行いからだけ発生するのではなく、私たちの存在そのものから発生すると教えている。アダムが罪を犯したとき、彼はただ神の御前に有罪となっただけではなく、その性質が汚れ、堕落したのである。
聖書はそのことを、エレミヤ17章9節で述べている。『心は、何よりも欺きに満ちており、凄まじい悪である。だれがそれを知り得よう。』 イエスはそのことを、マルコ7章21節で述べておられる。『内側から、人の心から出てくるものは、・・・』 そして彼は、冒涜、高慢、姦淫、殺人など、いつの新聞にも見ることのできる、さまざまな罪をすべて挙げておられる。イエスは、こういうものは人間の心という汚染された湧き井戸から出てくる、と言われた。彼が「外から、世間の圧力やその良くない影響を受けて、殺人や、姦淫、高ぶり、盗みなどが発生する」と言っておられないことに注意せよ。これは、いわゆる社会学の専門家が言うことである。犯罪や反乱を生むのは「社会環境」なのだ、と彼らは言う。イエスは、それは人間の心の状態である、と言われる。内側から、心の中から、偽りごとや自分本位や自分中心、あるいは自分の気分、自分の願望、自分の計画、自分の見方にとらわれたまったくの固定観念などなどが出てくるのである。
私たちは、聖書が『凄まじい悪』と表現するような心(すなわち、いっさいの悪の源泉)を持っている。聖書的な表現に言い換えると、ローマ8章7節で『肉の思いは神への敵意である。なぜなら、それは神の律法に従わず、いや、実に従うことができないからである。』と言っている。パウロは、肉の思い(神によって再生されたことのない心のこと)は、ある敵意を映し出す、と言っているのではなく、敵意そのものだと呼んでいるのである。『肉の思いは神への敵意である。』 生まれながらの人間の心の性質は、どれもみな、生ける神に対して突き上げた握りこぶしに描写できる。これは、悪い心(罪を愛する心、罪の源泉である心、神に敵意をいだいている心)という内的な問題である。そして、これこそ私たちひとりひとりが、生まれながらに抱えている問題なのである。
あなたにとって、自分の悪い心の問題は、切迫した、個人的な悩みとなっただろうか。私は、あなたが人間の罪深さを、理論上信じているかどうかを尋ねているのではない。おお、罪深い性質とか罪深い心とかいうものは存在するのである。私の質問は、 --- あなたの悪い前科とあなたの悪い心は、あなたにとって、深刻で個人的な、かつ切迫した悩みとなったか --- あなたは、聖なる神の面前で、自分が有罪であることの恐ろしさ(『何よりも欺きに満ちており、凄まじい悪である』という心の恐ろしさ)を、実際に、個人的に、内的に知ったか --- ということである。
聖書的クリスチャンとは、自分の罪という、まったく個人的な問題を、極めて真剣な心で受けとめている人のことなのである。
さて、私たちが罪の恐ろしい重さを感じる度合いは人それぞれ違う。人が、自らの悪い前科と悪い心の自覚に導かれるまでの期間は、人によって異なるものである。そこには多様性がある。しかし、偉大な医師イエス・キリストは、自分が罪人であることを分かっていない人にはだれにも、その癒しの力を施すことはされなかった。彼は言われた。『わたしは義人を召くために来たのではなく、罪人を召いて悔い改めさせるために来た。』(マタイ 9:13)と。あなたは、はたして、罪という自分の問題を、真剣に受けとめている聖書的クリスチャンだろうか。
2.聖書的クリスチャンとは、罪のための、ただ一つの神の救済策を真剣に考えた人のことである。
聖書は、全能の神が、罪人である人間のために先手をうって事を行われることを、繰り返し繰り返し教えている。私たちが、幼かったころ習った聖句は、罪深い人間のために救いの道を与えるという神の先手をはっきりと示している。『神は、実に、唯一お生みになったご自分の息子を与えるほど、世を愛された』『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のための、なだめとして、ご自分の息子をお遣わしになった』『しかし、神は、あわれみ豊かなお方であり、その大いなる愛のゆえに、それをもって私たちを愛された』(ヨハネ 3:16,Tヨハネ 4:10,エペソ 2:4)
クリスチャンの信仰のユニ−クな特徴は、自分に神の助けをつぎ当てして、自らを宗教的に支えるとうよなものではない。キリストは罪人の救い主であるというのが、まったくクリスチャンの信仰の独特の教えであるように、私たちの真の助けはすべて上から来るものであって、それが私たちがいるところに来るというのもまた、クリスチャンの信仰の独特の教えなのである。私たちは、自分のボ−トの綱をもって、自らを引き上げることはできない。憐れみの神が、人間の事態に介入してくださり、私たちが自分のために絶対できないことをなしてくださるのである。
さて、私たちが聖書を開くと、神の救済策には少なくとも三つの、簡単であるが実にすばらしい中心点があるのを見出だす。
(イ)まず最初に、神の救済策はひとりのお方と密接に結びついている、ということである。人間の罪のための神の救済策を真剣に考え始める人はだれでも、聖書を見て、それが、まるで別の哲学のような一連の思想の中にあるとか、ある制度の中に見出だされるとかいうのではなく、ひとりのお方と密接に結びついているということを必ず知るであろう。『神は、実に、唯一お生みになったご自分の息子を与えるほど、世を愛された』『あなたはその名をイエスと呼ぶようになる。彼は、自分の民をそのもろもろの罪から救うようになるから。』 彼ご自身が『わたしが道であり、真理であり、生命である。わたしによるのでなければ、だれも父に来ることはできない。』と言われた(ヨハネ 14:6)。
その、神の唯一の救済策は、ひとりのお方と深くかかわっており、そのお方とは、他でもないわれらの主イエス・キリスト ―ご自身の神性に、まぎれもない人間の性質を結合させ、人となられた永遠のことば― である。これが、悪い前科と悪い心をもっている人間のための、神の備えである。神は、二つの性質がひとりの人に永遠に結びついたお方、すなわち神であり、人である救い主を備えてくださったのである。あなたや私の個人的な罪の問題は、もし、聖書的な方法で取り除かれることを願うならば、そのお方と、じかにかかわりを持つ以外に取り除かれる道はない。これこそがクリスチャンの信仰のユニ−クな仕組みである。まったく哀れな罪人が、まったく恵みに満ち満ちた救い主と結合するのである。罪人の必要と全能の力をもつ救い主が、福音のうちに結び合わせられるのである。これが福音の栄光である!
(ロ)神の救済策は、十字架という、そのお方が死を遂げられたところに中心点を置いている。それは、からの墓に導く十字架である。私たちが聖書を開くとき、独特な方法をもつ神の救済策というものが、その中心点をイエス・キリストの十字架に置いていることを見出だす。バプテスマのヨハネが、この方を公に告知するとき、指し示して、こう言っている。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』(ヨハネ 1:29)と。イエスご自身、こう言っておられる。『わたしが来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための身代わりとして自分のいのちを与えるためなのである』(マタイ 20:28)と。
さらに、パウロが、十字架のことば、あるいはメッセ−ジといっているくらいに、真の福音の説教は、十字架にその中心点を置いているのである。十字架の説教は、『滅びつつある者たちには愚かであるが、救われ続けている私たちには神の力である』(Tコリント 1:18) そして、同じ使徒は続けて、コリントに出向いたときのことを、修辞学上の専門知識にとらわれた知性派の人々とギリシャの異教哲学を念頭において、こう言っている。『私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した』(Tコリント 2:2)と。
罪のための、神の恵み深い救済策が、ただ単にひとりのお方とかかわっているというだけでなく、そのお方の十字架 ―抽象的な思想としてや、宗教的な象徴としての十字架ではなく、神がその真意を明らかにされた意味での十字架― に核心があるということがお分かりいただけただろうか。十字架は、神が、転嫁によってご自分の民の罪を、その息子に積み上げた場所であった。その十字架上には、呪いを引き受ける身代わりがあった。ガラテヤ3:13の言葉によると『神は、キリストをわれらのために呪いとされた』のであり、また『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた』(Uコリント 5:21)のである。
十字架は、自己献身愛の象徴という、なにか漠然とした、つかみどころのないものではない。そうではなく、十字架は、神が義でありながら、どのようにして罪人を赦すことができるのか記念碑のようにあらわしたものである。神が、ご自分の民の罪をキリストに転嫁し、その民の代表として、自分の息子に裁きを下す場所としての十字架である。十字架上で神は、御子が『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。どうしてわたしを捨て去られたのですか』(詩篇22:1,マタイ27:46)と叫ぶまで、容赦なく、復讐の激しい怒りを注ぎ出された。
神は、カルバリ−という目に見える世界の中に、いわば、目に見えない霊的世界で起こっていることを表現しておられたのである。あなたの罪や私の罪が受けるにふさわしい、地獄という外の暗闇に、ご自分の息子を突き落としていることを全人類が知るように、神は、天をまったくの暗闇で覆っておられる。イエスが、弁解の余地のない有罪犯人の立場を取って、十字架におかかりになる。民衆の、彼に対する選択はただ一つ『彼を除け』、『彼をはりつけにせよ』、『彼を死にひきわたせ』である。彼はそんな状況下におられる。そして、神が介入されることはない。神は、私たちが見ることのできない領域で何をなしておられるのかを、目で見ることのできる場面に映し出しておられるのである。神は、ご自分の息子を犯罪者として扱っておられる。神は、御子が、私たちにこそ爆発するべきものすごい怒りのすべてを、その魂の奥底で痛感するようにしておられるのである。
(ハ)この救済策は、何の差別もなく、すべての人に十分であり、提供されている。私たちが、何らかの自分の罪の意識をもつ前に、もっとも考えやすいことは、神は罪人を赦すことができると思うことである。しかし、あなたや私が罪とは何かということ考え始めるとき、私たちの思考は変わる。私たちは自分自身を、土の中の虫けらにすぎず、その中に『私たちは生き、動き、存在している』(使徒 17:28)といわれる神の御手のうちに、そのいのちと息が守られている被造物にすぎないと見るようになる。
私たちは、(私は言うが)全能の神 −このお方は、私たちのいのちの息をその御手の中に握っておられる方であり、御使いが反逆した時には、容赦せず、彼らに対するあわれみの計画や啓示もまったくなさらず、暗黒という永遠の鎖に追いやられたほどの神である− を、ずうずうしくも侮ったということを真剣に受けとめはじめるとき、そのとき私たちの考えは変えられる。不快なものが流れ出る、あなたや私の腐った心を見られる方は、この聖なる神なのだという真理を、いったん真剣に考えるならば、私たちは「ああ、神よ、あなたはどうして義以外の者でありえましょう。私の罪が受けるに値するものをあなたがお与えになるとすれば、私たちには怒りと裁き以外なにもありません! あなたが私を赦して、どうしてなお義でありえましょう。義なる神でありながら、反逆した御使いたちとともに、私を永遠の刑罰に引き渡す以外のことがどうしてできましょう。」と言うのである。
あなたが自分の罪のことを真剣に考えはじめるとき、罪のゆるしというものが、自分の心の今まで苦闘した中でもっとも困難な問題となるのである。だから、私たちは、神がひとりの人、すなわち十字架につけられたお方によって、何の差別もなしに、すべての人に十分であり、提供している、救済策を備えてくださったということを知る必要がある。
神が、私たちを自分の罪の事実に気づくようにされはじめるとき、もしもキリストに何らかの利用条件がつけられていたならば、私たちは「確かに私は条件を満たさない。確かに私には資格などない。」と言ったことであろう。しかし、神の備えという奇跡は次のような、何ものにも縛られない言葉のうちに示されるものである。『お〜い、渇いている者はだれでも、水のところに来い。金のない者よ、来い。金なしに、代価ぬきで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたは満足しないもののために労するのか。』(イザヤ55:1-2) 『すべて労する者、重荷を負う者たち、わたしに来なさい。わたしがあなたがたに休みを与えよう。』(マタイ11:28) 『わたしに来るものを、わたしは決して追い払わない。』(ヨハネ6:37)
ああ、イエス・キリストにあるあわれみの自由な提供は、何とうるわしいことだろう! 私たちには、神に天を出てもらい、私たちに、名ざしで「来ることが許されているぞ」と告げてもらう必要はない。私たちには、『すべて労する者、重荷を負う者たち、わたしに来なさい。わたしがあなたがたに休みを与えよう。』という神ご自身の息子の、自由なあわれみの提供がある。
3.聖書的クリスチャンとは、神の備えにかなうように、聖なる条件に真心から従う者のことである。
聖なる条件は、悔い改めと信仰の二つである。これは、イエスが説いておられたものである。『(この時、イエスは来て説教された。)「悔い改めて、福音を信ぜよ。」』(マルコ 1:14,15) それはパウロが説いたものでもある。彼は『(私は行った先々で)ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、われらの主イエス・キリストに対する信仰とを証しした。』(使徒 20:21)と言っている。これは、イエスがご自分のものに説教するようにと告げられた福音である(ルカ 24:45,46)。彼は、聖書を理解させるために彼らの思いを開き、その御名によって、罪の赦しのための悔い改めがエルサレムから始まり、すべての国の人々に説かれるようになるために、キリストが死に、そして、三日目に死人の中からよみがえらなければならなかったことを告げられた。
神の備えを手にいれるための聖なる手段とは、どういうものであろうか。私たちは、悔い改めなければならないし、信じなければならない。私たちは、語るときには、前後につながりのある言葉を出さなければならないわけだが、この悔い改めが信仰から分割されるとか、信仰が悔い改めから分割される、などと考えてはならない。真の信仰には悔い改めが満ちており、真の悔い改めには信仰が満ちている。両者は互いに溶けあっているため、神の備えを本当に用いようとするときはいつでも、そこに、信じる悔い改め人、悔い改める信仰者を見出だすのである。お互いは決して分離されることはない。
悔い改めとは何であろうか。小教理問答の定義は優れたものである。「命に至る悔い改めとは、救いの恵みであり、それにより罪人が、自分の罪の真の自覚と、キリストにある神の憐れみの理解(把握すること)を経て、その罪をなげき、憎みつつ、そこから新たな服従の十分な決意と努力とをもって、神に立ち帰ることである。」
悔い改めとは、遠い所にいた放蕩息子が、本心に立ち返ることである。彼は、父の支配に耐えられなかったため、父のもとを出た。彼には父の考えや、やり方がことごとく気に食わなかった。それは、不潔で下劣な、罪を愛する自分の心の欲望を追い求める時に、いつも邪魔であった。そこで彼は、ある日、自分が受けとるべきものをくれるように言った。そして、彼は、遠い国へ出て行ったのである。彼が家を出たときは、父の支配や、そのやり方、その存在までも、まったくイヤだと思っていた。しかし、聖書はルカ15章において、遠いところにいて、彼が本心に立ち返ったと教えている。『彼が本心に立ち返ったとき、こう言った。「私は立って、父のところへ行こう。そして、父に言おう。『お父さん。私は天に対しても、あなたの前にも罪を犯しました。私はもう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。あなたの雇人の一人のようにしてください。』」』
聖書はそのあと、彼はそこに座って思いめぐらしたり、そのことについての詩を書いて、父に電報を打ったりしたのではないと言っている。聖書は、『彼は立って、父のところへ帰った。』(20節)と言っているのである。彼は、罪の中で親しかった仲間を離れ、そのような生き方に関係のあるもの一切を嫌悪し、憎悪し、忌み嫌った。彼は、そのようなものに背を向けたのである。それでは、彼を家に帰らせたものはなんだったのだろうか。それは、自分にとって幸福で愛に満ちた家庭に、寛大な心と正しいとり決めをもっている恵み深い父がいる、との確信であった。そして、彼はこう言うのである。『立って、父のところへ行こう。』と。彼は、電報を打って、「お父さんヨ。ここでの生活は荒れほうだいだ。夜になると俺の良心は急にとがめだすんだ。金をいくらか送って俺を助けてくれないか。ちょっと見に来て、俺の気分をよくしてくれないか。」などとは言わなかった。それとはおお違いだった! 彼は、気分をよくする必要などなかった。彼の方こそ善良になる必要があった。そして、彼は、その遠い国を去ったのである。
主の描き出される一場面には美しいものがある。彼は言われる。『彼は、まだ遠く離れていたが、父はこれを見て、あわれみ、走り寄って彼を抱き、口づけした。』(20節)と。放蕩息子は、自分が家に帰ろうと決心した次第などを、敬虔ぶって父に話すことなどしなかった。
ある人々は、いかにも敬虔そうにふるまい、少しばかりお祈りをして、自分の決心によって神を喜ばせることができると考えている。これは、私が自分を「アブラハム・リンカ−ンだ」と名のる以上に筋違いなことである。真の悔い改めは、自分が、天におられる偉大な、恵んでくださる、聖い、愛の神に対して罪を犯したことと、だから、自分は神の子と呼ばれるにはふさわしくないことを認識するのを含んでいる。しかし、私が心を整えて、自分の罪を離れ、それに背を向け、はたして自分のようなもののために、あわれみが残されているのだろうかと、戸惑いながらもどってくるとき、そのとき −信じがたいことだが!− 父なる神は、私のところに来てくださり、和解の愛と憐れみの御手とをもって、私を抱いてくださる。私は、感傷的にではなく、まったく真実を言うのであるが、神は、悔い改める罪人たちを、赦しと贖いの愛でつつんでくださるのである。
だが注意せよ。父は、放蕩息子がいまだ豚小屋にいたとき、あるいは遊女とともにいたときに、彼を抱き寄せられたのではなかった。読者の中に、心がこの世に執着している者や、世のやり方を愛している者がいないだろうか。おそらく、あなたは、自分の私生活の中で、あるいは両親との間で、あるいはからだの神聖さを非常に軽く考えている社会の中での生活において、自分自身をあらわしていることであろう。
もしかしたら、あなたがたの中の誰かは、キリストの御名を口にしながら、淫行やヘビ−ペッティングにかかわっているかもしれないし、自分の欲望を満たすくだらないテレビや映画にふけっているかもしれない。あなたは豚小屋に住んでいながら、日曜日になると神の家へ出かける。恥を知れ! 罪の巣窟である豚小屋を離れよ。肉の道楽に満ちた生き方と行いを離れよ。悔い改めとは、自分の罪を捨てるほどひどく後悔し続けることである。あなたは自分の罪に執着している限り、神の赦しの憐れみを知ることは決してないであろう。
悔い改めとは、魂が罪から離れることであるが、信仰と常に結びついている。では信仰とは何か。信仰とは、福音の中に提示されているままのキリストに魂を投げ出すことである。すべてを捨ててでもキリストの方をとるのである。これこそ信仰である! 『彼を受け入れた人々、すなわちその御名を信じた人々には、神の子となる特権をお与えになった。』(ヨハネ 1:12) 信仰はキリストを飲むことにたとえられる。魂が渇くとき、彼を飲むのである。信仰はキリストを仰ぐことにたとえられる。信仰はキリストにつき従うことや、キリストに逃れることにたとえられる。聖書は多くの類比を用いている。それらすべてを要約すれば、無一物の中で、自分を救い主に投げ出すことであって、彼が貧しい罪人たちに約束してくださったとおり、彼に信頼することである。
信仰はキリストに何も持ってこない。まったく無一文の状態である。それによってキリストと、彼の中にあるすべてのものをいただくのである。では、何がキリストの中にあるのだろうか。すべての罪に対する十分な赦しである! 主の完全な従順が、私の記録に載せられた。主の死は私の死とみなされた。そして、御霊の賜物は、主のうちにある。子とされること、聖化、最終的な栄化は、すべて主のうちにある。そして、キリストを捕らえる信仰は、彼のうちにあるすべてのものを受けるのである。『あなたがたがキリスト・イエスにあるのは神によるのである。神はこの方を私たちの知恵、義、聖化、贖いとされた。』(Tコリ 1:30)
聖書的クリスチャンとは何か。聖書的クリスチャンとは、罪のための、神の備えを手にいれるため、神の条件に心をこめて応じた人のことである。その条件とは、悔い改めと信仰である。私は、それを救いの扉を開くための蝶つがいと考えたい。蝶つがいには、二つの金板がある。一つは扉にとめられ、もう一つはかもいにとめられる。これらは、ピンでくっついていて、その蝶つがいによって扉は開く。キリストは扉である。ただし、悔い改めて信じなければ、だれも彼を通って入ることはできない。
真の蝶つがいは、悔い改めだけでなっているのではない。信仰と結び合っていない悔い改めは、律法的な悔い改めである。そのような悔い改めの行き着くところは、あなた自身であり、あなたの罪である。悔い改めと結び合っていない信仰告白は、偽の信仰である。なぜなら、信仰とは、私を、罪の中でではなく、罪から救うキリスト信仰だからである。悔い改めと信仰は分離不可能であり、悔い改めなければ、あなたは滅びるのである。信じない者は永遠の罪に定められる。
4.聖書的クリスチャンとは、自分の悔い改めと信仰の告白が真実であることを、その生活の中であらわす人のことである。
パウロは、人は悔い改めて、神に立ち帰り、その悔い改めに相応する、矛盾のない歩みをすべきであると説いたことを語っている(使徒 26:20)。『あなたがたは、恵みにより、信仰をとおして救われた。それは、自分から出たものではなく、神の賜物である。行いによるのではない。だれも誇ることのないためである。それは、私たちが神の作品であり、善い行いのためにキリスト・イエスのうちに造られたのであって、私たちがそのうちを歩むようにと、神が予め定められたからである。』(エペソ 2:8‐10)
パウロは、ガラテヤ書5章で、信仰は愛によって働くと言っている。真のキリスト信仰があるところには、いつもキリストへの本当の愛が植え付けられている。そして、キリストへの愛があるところには、キリストへの従順がある。真の信仰は、いつも愛によって働く。どのように働くのだろうか。従順な生活によってである! 『わたしの命令を保ち、これを守る者こそ、わたしを愛する者である。わたしを愛さない者は、わたしの言うことを守らない』(ヨハネ 14:21-24) 私たちは、キリストを愛することによって救われるのではなく、キリストを信頼することによって救われるのである。しかし、何の愛も生じさせない信頼は本物ではない。
真の信仰は愛によって働く。愛というのは何も、美しくきらめく夜空の星のもとで、クリスチャンであるすばらしさについて詩が書ける、などというようなものではない。真の信仰というのは、あなたが家に帰って、聖書に教えられているように、父や母に従うことによって、あるいは、大学のキャンパスにもどり、同輩のあらゆる圧力に対抗して、真理と義のために立つことによって働くのである。あなたは、永遠で、不変な道徳と倫理的基準を信じるために、人々から馬鹿にされたり、頭がおかしいと思われたり、時代錯誤と見られたりするだろう。しかし、真の信仰は、これらを覚悟し、喜んで受けるようにするのである。あなたは、喜んで、人命の神聖さを信じ、結婚前のセックスや、母の胎にいる赤ん坊の殺人に反対して、はっきりとした自分の立場に立つのである。なぜなら、イエスが『だれでも、この姦淫と罪に満ちた世代にあって、わたしとわたしのことばとを恥じるような者は、人の子が、父の栄光のうちに、聖なる御使いたちとともに到来する時、彼はその者を恥じるであろう。』(マルコ8:38)と言われたからである。
聖書のクリスチャンとはどういう者か。それは、「ええ、私が悪い前科と悪い心をもっている罪人であることはもちろん知っています。また、罪人のための神の備えは、キリストと、その十字架のうちにあって、それは、すべての人に十分であり、自由に差し出されていることを知っています。そして、悔い改めて信じる者すべてに、それは与えられることも知っています。」と単に言う人のことではない。それでは不十分である。あなたは悔い改めて信じることを告白すると言うのか。それなら、イエス・キリストへの断固たる服従の生活(完全な生活によってという意味ではなく)によって、その告白を守り通すことができるか。『わたしに向かって「主よ、主よ」というものがみな、天の王国に入るようになるわけではなく』とイエスは言われる。『ただ、天におられるわたしの父のみこころを行うものが入るのである。』(マタイ7:21)と。ヘブル書5章8節では『彼を知っていると言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにない。』と言っている。
あなたは、自分がクリスチャンであるというその告白を、聖書にしたがって貫き通すことができるだろうか。あなたの生活は、悔い改めと信仰の実をあらわしているだろうか。あなたはキリストに愛着し、キリストに服従し、キリストを告白する生命を所有しているだろうか。あなたのふるまいは、キリストの道に執着するゆえに、きわだっているだろうか。完全にというのではない。とんでもない! 毎日こう祈らなければならない。『われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。』と。しかし、このように言うこともできる。『私にとって生きることはキリスト』 あるいは、
主イエスよ、私は自分の十字架をとりました。
すべてをさしおき、あなたに従うために、と。
私は、世を後ろに、十字架を前にして、イエスに従おうと決心した。これが真のクリスチャンの姿である。私たちのうち、どれだけが本当のクリスチャンだろうか。私はこのことを、あなたが自分の思いと心の中の深い密室で答えられるよう、ここで打ち切ろうと思う。ただし、記憶せよ。あなたが永遠に生きるために、備えとなる応答をするように。あなたの死の時に慰めとなるような、また裁きの日に安全でいられるような応答以外には、決して満足してはならない。