神の存在

トーマス・ワトソン

(A Body of Divinity からの抜粋)


 

問:神とは何か。
答:神は、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の霊である。


「神とは何か」という質問は、神がおられることを当然のこととしている。神の実在の信仰は、あらゆる宗教的礼拝の土台である。ヘブ11:6「神に近づく者は、神がおられること・・・を、信じなければならない」 万物を存在するに至らしめる第一原因が必ずなければならない。私たちは神がおられることを知っている。

[1]  私たちは、本能によって神がおられることを知る。神概念は、人の心に刻み込まれている。それは自然の光によって明らかである。人は生まれつき無神論者であることはできないと思う。神がいなければいいと願うことはできるし、神と争うことはできる。しかし、罪の蓄積によって良心が麻痺し、自分の感覚と理性を罪に明け渡し、こうして神に対して無感覚になるのでもなければ、彼は自分の判断によって神はいないと信じることはできない。

[2]  私たちは、神の創造物によって神がおられることを知るわけだが、これは神としてのご性質の現れであることはまったく明らかであり、ほとんどの無神論的精神は、これらの御業を考えるとき、ガレノスやその他の者らによって報告されているように、何らかの賢い、至高の制作者がいることを認めないわけにはいかない。栄光ある天地のしくみの創造から始めよう。そこに設計者ないし、第一原因があることは確かである。何もないところに地球をぶら下げるなど、偉大な神以外のだれにできただろうか。栄光に満ちた星座や、あのようにきらきら輝く光がちりばめられた天空など、だれがあれほど豪華なものを天に備えることができただろうか。神の栄光が太陽の中に燃えており、星々の中に輝いているのを私たちは見る。地をこのように装うことがだれにできただろうか。地は草と穀物でおおわれ、さまざまな花で飾られ、金で豊かにされている。神のみにできることである。ヨブ38:4 天で御使いたちを演奏会に参加させ、創造主への賛美を響かせるあの甘美な音楽は、神以外のだれに作曲できただろうか。ヨブ38:7「明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」 人が外国に行って、そこでさまざまな壮麗な建造物を見たとする。その時、だれもこれらの建物は自ら建ち上がったものとは思わない。だれか偉大な人物が建てたと見る。創造物が神によって形づくられたのではないと考えることは、あたかも画家の手によらずに筆で描かれる珍しい風景画を思い浮かべるようなものである。使徒17:24「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」 創造は神にふさわしい業である。万物の賢い統治は、神がおられることを証明する。神は偉大な世界の管理者である。神はその御手に黄金の手綱を握っておられ、万物をもっとも秩序正しく、つり合いのとれたかたちで、それぞれに固有な目的に向けて導いておられる。摂理に注目するとき、神がおられると認めない者がいるだろうか。摂理は世界の女王であり、統治者である。それは全創造物の歯車をまわす手である。それは太陽の運行を定め、海の境界を定める。もし神が世界を導いておられないならば、物事は無秩序と混乱におちいることになるだろう。ある人が時計を見て、歯車の動きや、時刻を打つハンマーの動き、ぶら下がっているおもりなどを見るとき、これはだれか職人の作だとその人は言うだろう。そのように、私たちがこの宇宙の中にすばらしい秩序や調和を見るとき、たとえば、大きな発光体である太陽が世界に光と熱(それがなければこの世界は墓や牢獄以外のなにものでもないのだが)を分け与え、川は人々のからだを活きかえらせ、乾燥を防ぐ銀の流れをもたらし、あらゆる生き物が、この球体の中でうごめき、しかるべき領域を守っているのを見るとき、私たちは、万物を賢く秩序づけ、つかさどっておられる神がおられることを認めないわけにはいかない。偉大なる被造物の軍隊を、かくまでさまざまな階級と隊に定め、それらを絶え間なく行進させ得るのは、「万軍の主」と呼ばれる御方以外の誰であろうか。被造物の全連隊の中で万物を賢く配置されるように、神はその御力によってそれらを支えたもう。神がその影響を少しでも停止させたり、手控えたりされるなら、創造世界の車輪のピンが外れ、車軸はばらばらに壊れてしまう。「あらゆる動きは」と哲学者は言う。「動かぬ何ものかからのものである。」と。たとえば、元素はもろもろの天体からの影響と振動によって動く。太陽や月やそれらの惑星は、第十天と呼ばれる、より大きな天体によって動かされる。そこでだれかが尋ねよう。もっとも大きな天体はだれが動かすのか、と。あるいは、もろもろの惑星の原動力は何なのか、と。それは神以外の何者でもあり得ない。

 人は小宇宙、小世界である。人体のすぐれた組織と構造は刺繍のように絶妙に作られた。「私は・・・地の底で絶妙につづり合わされ」(訳者注:文語訳参照) このからだは高貴なたましいをもっている。神以外のだれが、肉体と霊という異なる実体を一つに結びつけることができただろう。私たちは神のうちに生き、動き、存在しているのである。からだのあらゆる部分のすばやい動きは、神がおられることを示している。私たちは、人の目の輝きの中に、神的なものを見る。肉体という宝石箱が、かくも絶妙に造られたとするならば、その宝石はいかばかりだろう。たましいはその中に天の輝きをもっている。ダマスカス人が言っている。「それは土の指輪にはめられたダイヤモンドである。」と。なんという高貴な機能が、たましいに付与されていることだろう!プラトンが言うように、理性、意志、感情は三位一体の覗き窓である。たましいの要素は霊的であって、それは天から点火された神聖な火花である。それはスケイリガーが言及しているように、霊的であるために不死である。anima non senescit「たましいは古くならない」それは永遠に生きる。このようにすぐれた、御使いに特有なものをもって高貴なものたらしめたたましいを、神以外のだれが造ることができただろうか。私たちは詩篇記者のように、「私たちを造ったのは神であって、私たち自身ではない。」(詩篇100:3英訳)と言わなければならない。

[3]  私たちは、自分たちの良心によって神を証明することができる。良心は神の代理人、代官である。良心は神についてあかしする。私たちに神がおられることを告げる聖書がなかったとしても、良心はそれを告げることができただろう。良心は、使徒が言うように、「責め合ったり」、また、「弁明し合ったり」している(ローマ2:15)。それは、より高い法廷のために活動する。ひどい罪から守られている状態の良心は、弁明する。人が、高貴な行いをし、慎み深く正しく生き、あの黄金律のように、自分にしてもらいたいと思うことを人にも行うとき、その良心は「よくやった」と言う。蜂のようにそれは甘い蜜を出す。悪人のもっている良心も告発する。人が良心の光に反して進むとき、とがめを感じる。Eheu! quis intus scorpio?「ああ!どんなサソリが内に潜んでいることだろう。」セネカ。良心は人が罪を犯すと、その顔に火のつばをかけ、彼らを恥と恐れで満たす。罪人が自分の良心の壁に筆跡を見るとき、その顔色は変わる。多くの人が良心を静めるために首をつって死んだ。流血を好んだ皇帝テベリウスは、良心のむち打ちを感じていたらしく、その苦しみに取りつかれて、自分は日々死の苦しみを味わっていると元老院に告げていた。神からの影響以外の何が、このような苦痛を、神の法廷に出頭している思いを人の良心に与えることができるだろうか。人間の法律の上にいる者は、自分の良心から来る抑制に従うことになる。注目すべきは、悪人が死に近づけば近づくほど恐れを増し加えることである。これは、さばきが近づいていることを悟るからでなくて何だろうか。たましいが不滅であることを感じている者は、決して死なないこと、したがって決して罰が終わらないことに恐れおののいている。

[4]  神がおられるということは、世界的に全人に認められ、同意があることからもわかる。「神がおられることを信じないほどの」とタリーは言う。「野蛮な民族は一つもない。」と。異教徒は真の神を礼拝してはいないとはいえ、ある種の神を拝んでいる。彼らは、「知られない神に」祭壇を設ける(使徒17:23)。彼らは拝むべき神を知らないのだが、神なるものは拝まなければならないことは知っている。ある者はジュピターを拝み、ある者はネプチューン、またマースを拝む。何かを拝まないというよりも、何でも拝もうとするのである。

[5]  神がおられるということは、未来の事に関する彼の予言からも明らかである。確実に起こることを前もって告げることのできる方こそ、まことの神である。神は、処女がみごもることを予告した。メシヤが断たれる時を前もって告げた(ダニ9:26)。ユダヤ人のバビロン捕囚と、だれが彼らを解放するかを予告した(イザ45:1)。イザヤ41:23で、神はご自分が真の神であり、異教の国の神々は作り話であり、無価値であることを弁証される。「自然の原因に依存しない偶発的な事をあらかじめ告げるということは、神にのみ帰せられるべきことである。」テルトリアヌス。

[6]  神がおられるということは、その無限の力と主権によって明らかである。だれも妨げることのできない働きをなさる方こそ真の神である。しかし、神はそのようにおできになる。イザ43:13「わたしが事を行えば、だれがそれをとどめることができよう。」 それを上まわる力以外、何者もその行為を妨げることはできない。しかし、神を上まわる力など何もない。すべての力は神によるものである。したがって、すべての力は神の下に位置する。神は「力ある腕」(詩89:13)を持っておられる。神は、人がご自分に対して目論んでいるはかりごとをご覧になり、彼らの戦車の車輪を引き抜かれる。神は占い師を狂わせる(イザ44:25)。また王子たちの霊を断ち切り、海を抑え、レビヤタンを阻止し、悪魔を鎖につながれる。神は、みこころの望むままに事を行われる。「わたしが事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう。」

[7]  悪魔がいるということは、神もおられるということである。無神論者が悪魔の存在を否定できないならば、神の存在を認めなければならない。私たちは、悪魔を宿している多くの者のことを教えられている。悪魔たちは書物の中で「毛深い者」と呼ばれている。なぜなら、彼らはしばしば山羊やサキュロスのなりで現れるからである。ガーソンは、彼のDe probatione spiritnumという本の中で、いかにサタンが昔、もっとも恵み深いしかたで、自分がキリストであると装って聖い人に現れたかを告げている。そのとき、老人は答えて言ったという。「私は救い主を、この荒野で見ようとは思わない。天でお目にかかれれば十分である。」と。悪魔がいるのであれば、神もおられるのである。異教徒のソクラテスは、自分の死に際にとがめを受けたとき、自分には悪い霊があったように思うのと同じように、よい霊があったとも思う、と告白している。

 
適用1:神がおられるのであれば、それを否定する無神論の愚かさを非難している。エピクロスは摂理があることを否定して、すべては偶然に起こっていると言う。神はいないという者は、もっとも悪い生き物である。彼らは、どろぼうより悪い。なぜなら、どろぼうは私たちの持ち物を奪い取るが、無神論者は、私たちから神を奪うからである。ヨハネ20:13「私の主を取って行きました。」 そのように、無神論者については、彼らは私たちのあらゆる望み、あらゆる慰めがつまっている神を私たちから取って行こうとしていると言うことができる。詩14:1「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」 その者は、それをあえて言葉では言わないが、心の中で言う。つまりそれを願うのである。だれも思索的な無神論者であり得ないのは確かである。「悪魔たちも信じて震えおののいています。」ヤコブ2:19英訳  私は、無神論者を称えるある著者が死に臨んだとき、地獄落ちを宣告されたと叫んだということを読んだことがある。神はいないという者は非常に少ないが、多くの人はその行いで神を否定している。テトス 1:16「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。」 キケロはエピクロスのことを、「彼はその言葉の中で、神々の存在を否定しながら、その存在を許している。」と言っている。世界は「実際的無神論」で満ちている。つまり、ほとんどの人は神がいないかのような生き方をしている。責任を問われる神がおられると信じながら、あえて嘘をつき、だまし取り、汚れた生活をするのだろうか。神のことを聞いたことのないインディアンが私たちのところに来て、その時代の人々の生き方以外に神について知る手段が何もなかったとするならば、彼は神がいるのだろうかと疑問をもつに違いない。「私は神々が存在するとあえて言い張ることはしない。」と。

 
適用2:神がおられるのであれば、その方は正しい取り扱いをなし、人に正当な報いをお与えになるということである。この世の中では、物事が非常に不公平に進んでいるように見え、悪人が栄えている(詩73:3)。神を試みる者が救われる(マラキ3:15)。罪を嘆き悲しみ、神に仕える敬虔な者が苦しめられている一方で、熟れたぶどうの房は杯にしぼられている。詩102:9「パンを食べるように灰を食べ、私の飲み物に涙を混ぜ合わせた」 悪人があらゆる善き物を楽しみ、善人があらゆる災いに耐えている。しかし、神がおられるということは、神は人を正しく取り扱われるということである。創世記18:25「全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」 悪を行う者は罰を受けなければならない。罪人の死ぬ日、そしてさばきの日が近づいている。詩37:13「主は・・・彼の日が迫っているのをご覧になる」 地獄があるかぎり、悪人はそこで十分苦しみを受ける。死後の世界があるかぎり、彼らはそこで十分永く過ごすことになる。神はご自分の民の忠実な働きには、豊かに報いてくださる。彼らは白い衣と冠を身にまとうようになる。詩58:11「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」 神は神であるので、ご自分の民に栄えある報いをお与えになる。

 
適用3:神がおられるのであれば、神を怒らせる者たちはみな災いである。その者は、報復を受けるために永遠に生きる。エゼ22:14「わたしがおまえを罰する日に、おまえの心は耐えられようか。おまえの手は強くありえようか。」 神の安息日をけがす人々、聖徒たちに反対する人々は、宝石をほこりと一緒に踏みつけているのである。神のみことばに反対して歩む人々は、無限なる天の帝王を敵にまわすことである。これは何と愚かなことか! 32:41-42「わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。わたしの矢を血に酔わせ・・・よう。」 ライオンのうなり声を聞いただけでも恐ろしいのであれば、神がご自分のえじきを引き裂かれるときには、どうなるだろうか。詩50:22「神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き」 ああ、罪の中を突き進んでいる者は、このことを考えるがいい! 大いなる神と戦いを交えるだろうか。神の攻撃はゆっくりではあるが、それは重い。ヨブ40:9「あなたには神のような腕があるのか。」 あなたはそのような打撃を加えることができるのだろうか。神は最善の味方であり、最悪の敵である。神が人の墓をのぞき見ることができるのならば、彼らをどれほど遠くに投げやることがおできになるだろう。「だれが御怒りの力を知っているでしょう。」詩90:11一滴の楽しみのために怒りの海を飲む者は、何という愚か者だろうか! パラケルススは、踊りながら死んでいく狂乱発作について語っているが、罪人は踊りながら地獄に向かうのである。

 
適用4:神がおられるのであれば、私たちの信条の、この大いなる項目を固く信じよう。神を信じないのであれば、どのような宗教が人のうちに存在し得るだろうか。「神に近づく者は、神がおられること・・・を、信じなければならない」 神がおられるということを信じないで、礼拝したり、祈ったりするのは、神を侮辱することである。神とは唯一の真の神であると信じなさい。すなわち、みことばの中に示されているような「義を愛し、悪を憎」(詩45:7)む神であると。真の神信仰は、あらゆる宗教的礼拝にいのちを与える。神の真実と無限性を信じれば信じるほど、私たちの生活はより聖く、天使のようになる。私たちが独りでいようが、人といようが、神は私たちを見ておられる。神は心を探るお方である。このような信仰は私たちがいつも神の目のもとで生きるようにする。詩16:8「私はいつも、私の前に主を置いた。」 神を信じることは、罪を犯すことへの手綱となり、義務への拍車となる。これは祈りに翼を与え、献身のランプに油を注ぐ。神を信じることは、あらゆる困難、緊急のときに、神に信頼するようにさせる。創世記17:1「わたしは全能の神である。」 あなたのすべての必要を満たし、すべての恐れを吹き払い、すべての疑いを解決し、すべての誘惑を征服してくださる神。神の力の御腕は決して縮まない。神は私たちのためにあわれみを創造することができるので、被造物に助けられることなく被造物を助けることができる。神がおられると信じたのなら、私たちは何か不誠実な手段を用いるのではなく、その摂理にゆだねるべきである。災難から自分を救い出すために、あわてて罪のもとへ走り行くべきではない。U列王1:3「あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。」 人があわてて罪深い方向転換をするのは、神がいることを信じていないから、あるいは神は必要を十分に満たしてくださる方であることを信じていないからではなかろうか。

 
適用5:神がおられるのであれば、神のうちに所有権を得るように奮闘しよう。詩48:14「この方こそ・・・われらの神であられる。」 堕落以来、私たちは神の似姿と神との親しい交わりを失っている。この失った所有権を取り戻すように奮闘しよう。そして、この神を「私の神」(詩43:4)というシボレテを発音できるようになろう。神が私たちの神であられることを知るのでなければ、神がおられるというだけでは慰めも少ない。神は自ら私たちの神となるために、ご自分を差し出しておられる。エレ31:33「わたしは彼らの神となり」 信仰は、この提供をつかみ取り、神を自分のものとする。そして、神のうちにあるすべてのものを自分のものとする。自分を教えるために、神の知恵を自分のものとする。自分を聖めるために、神の聖さを自分のものとする。自分を慰めるために、神の御霊を自分のものとする。自分が救われるために、神のあわれみを自分のものとする。「神は私のものだ」と言えるようになるということは、金や銀のすべての鉱山を持つより、さらにまさることなのである。

 
適用6:神がおられるのであれば、そのお方に神として仕え、礼拝しよう。ローマ1:21の「彼らは、・・・その神を神としてあがめず」ということばは、ある人に向けられた非難である。神にふさわしく祈ろう。熱心に祈ることである。ヤコブ5:16(英訳)「適切で熱心な祈りは、大きな効力を発揮する。」それは火であり、香である。熱心さを欠くならば、それは祈りではない。神を神として愛そう。「心を尽くして・・・あなたの神である主を愛せよ。」(申6:5 心を尽くして神を愛するとは、私たちの愛情の最上の部分を神にお受けいただくために、その愛の優先権を神にささげることである。ただ感謝を表わして愛するばかりでなく、できる限り熱烈に神を愛することである。太陽の光がレンズで集められると熱をもって燃え出すように、私たちの神への愛が熱烈なものとなるためには、私たちのすべての愛情が集められなければならない。神として、このお方に従おう。あらゆる被造物は、神に従っている。星は戦い、風や海も神に従う。マルコ4:41ましてや神から理性をさずかっている人間はなおさら従うべきである。この方こそ神である。この方こそ私たちに対し主権をもっておられる。したがって、私たちは神からいのちをいただいているように、神から律法をも受け取り、あらゆることにおいて、神の意志に服従しなければならない。これこそ忠誠心の口づけで御子に口づけすることである。これこそ神を神として、この方に栄光を帰すことである。