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実例3



4才から5才のころ影響を受けた小さな少女の聖い生き方と、勝利の死の記述



 メリーAは、4才から5才のころ神のことばを聞いて非常に影響を受け、自分のたましいと、永遠の状態についてとても心配するようになりました。この子は、神さまのこと、キリストのこと、自分のたましいのことをいろいろ質問して、次の世界で自分がどうなるかを思って激しく泣きました。それで、この小さなメリーは、5才になる前にどうしても必要な一つのことを心にとめ、その良い方を選んだかのようで、いく度も、そしてしばしば涙を流しながら、キリストのみ足もとに座りました。

 この子はよくひそかに祈りました。そして、何度も、涙ながらにひざまづいていました。

 この子はよく秘密の祈りのために、他の人になるべく気づかれないように、その時と場所をえらんでいました。そしてひそかに行う務めにたずさわっているときに、何をしているか、できるだけ知られないように努めていました。

 この子は偽善をとてもおそれました。そして、どのようなことでも人に見られ、ほめられたり、賞賛されるためにすることを恐れました。いつか兄弟のひとりが、ぼくはひとりで祈っていた、というのをこの子が聞いたときなど、彼をきびしくいましめ、そのような祈りはあまり益にならないし、偽善者のように祈ったり、自分が何をしていたか他の人に知られるのを喜んだりするのはほめられたことではない、と告げました。

 この子は、母親が夫の死後、かなしみに満たされていたとき、母親のところにやって来て、なぜそんなにはげしく涙をながすのかと尋ねました。母親は、あなたのお父さんが死んだのだから泣くのはあたりまえでしょう、と答えました。「いいえ、愛するお母さま。」とこの子は言いました。「それでも神さまは、お母さまにとってよい神さまですから、そんなにひどく泣く必要はありませんよ。」と。

 この子は忠実な福音の働き人をふかく愛する子でした。あるとき、ホワイテカーさんの話しを聴いたあと、こう言いました。「私はあの方をふかく愛します。あの方は、キリストについてうるわしいことばを語られますから。」

 この子は本がとても好きで、読んだことを自分のものにすることを愛しました。そして学んだことを、よく考え、理解するのでなければ次に移ろうとはしませんでした。しかもその考察や理解は並外れたものでした。何度もこの子は、聖書を読んで不思議なくらい影響をうけました。それは涙があふれ出て、もとにもどるのが困難なほどで、キリストの苦しみや、神のしもべたちの熱心や、生まれながらの状態の危険さなどに非常に激しく熱中するのでした。

 この子はよく、これ以上十分に悔い改めができない、これ以上へりくだれない、善なる神さまに対して犯した罪のためになげこうとしないと、自分の性質の腐敗や自分の心のかたくなさについて不満をもらしていました。そして、この子がこのように不満をもらすときには、あふれる涙とともにそうするのでした。

 この子は他の人のたましいのことをとても心配し、彼らのあわれな状態のことを思ってなげきました。そしてできる時には、何かキリストに関することばをつけ加えるのでした。しかし、何よりも、自分の弟や妹の心をキリストに導くためにできることをするのでした。そしてこれは決して小さな期待ではありませんでした。というのは、この子の模範やよい助言は、弟や妹がまだとても小さいときに、そのうちのあるものは部屋の隅に行って祈ったり、神さまのことについてとても恵み深い質問をしたりするほどまでに影響を与えていたからです。

 この子は、安息日を守ることに、とても注意深く、その一日を朗読と祈りと教理問答の学びと、弟たちや妹たちを教えることに使いました。いつかこの子が主の日に家に残されたとき、自分の弟たちや妹たちといっしょに、他の小さい子どもたちを集めました。そして、(ほかの言うことを聞かない子どもたちがよくするように)遊び回るのではなく、「今日は主の日です。あなたたちはこの日をきよく守るようにおぼえないといけません。」と教えていました。それからこの子は、この日はどうしてもしなければならないことや、あわれみの仕事のほかは、まる一日を信仰のつとめを行って過ごさなければいけません、と彼らを教えるのでした。それから彼らといっしょに祈り、いろいろな願いごととともに、この小さい子どもたちがどのように主に仕えたらいいかを知ることができるように、主が彼らに恵みと知恵をお与えくださるようにと乞い求めるのでした。

 この子は、やさしさとあわれみに満ちた子で、みなに対して非常な親切とあわれみを示しました。自分が助けてやることができないとき、特にこの子の母親が大変な目にあっているときなどは、今にも泣き出しそうになるのでした。この子は、母親の悲しみをすぐに自分の悲しみとして、母親のために、母親といっしょに泣くのでした。

 この子は、母親が何かこの世のことで思いわずらっているような時など、できるならば母親を何とか思いわずらいから逸らせようとするのでした。ある時、この子は母親に言いました。「お母さま、神さまのお恵みはそれよりもよいものです(この子の母親が欲しているものより、という意味)。私はこの世のどんなものより、お恵みとキリストの愛をいただきたいと思いますよ。」

 この子は、よく自分の永遠のしごとのことを熱心に考えました。そしてこのような変わったことを言うのでした。「ああ、すでに天国に行った人たちは何をしているのかしら。」と。そして、この子は、罪もなく神を賛美し、神を愛し、神を喜び、神に仕えている人々の中にいることを強く望んでいるようでした。霊的なことを語るこの子のことばは、たくさんの優れたクリスチャンたちにとっても非常に珍しく、彼らをおどろかせました。

 この子は、聖書を読むことを大きな喜びとしていました。そして与えられたみことばは、彼女にとって三度の食事よりも心地よく感じるのでした。彼女は、特別に選んだいくつかの聖句を心で学び、それらについて恵み深く語り、適切に適用するのでした。

 この子は、他のいろいろな良い本も、まったく知らないわけではなく、それらに親しみ、たいへん情をこめて読んでいました。そして、読んでいてどういうところがもっとも心を暖めたかを述べながら、 一つ一つの本について語りました。彼女はすでに十分益を受ける読み方をしていたのです。

 ある時、一人の女の人が、まるで自分のような状態の者は他にどこにもいないし、この状態はもう決して変わらないといわんばかりに、激情して家にやって来ました。その時、この子は言いました。「今、夜だからといって、もう昼になることは決してないなんて言うのは変ですわ」と。

 また別の時には、彼女の近い親戚の者が、ある大変な状況の中で不平をもらしましたが、彼女はこの人に言いました。「私はガーターさんがこう言うのを聞いたことがありますよ。『人は財布の中に1ペニーも持っていなくても天国に行けるが、心の中に恵みを持っていなければ行けない。』」と。

 彼女は神の民に対して、非常な愛を持っていました。そして主を恐れていると思える人を見ると、彼女の心は喜びにおどるのでした。

 彼女はひとりでいるのをとても好んでいて、ひそかにお祈りするのに好都合な時をうばわれるようなときはいつも、とても悲しむのでした。彼女は、定期的に、ひそかに神に祈らなければ生きることができませんでした。そして、祈って泣くために部屋の隅に行くことができたときの喜びは小さなものではありませんでした。

 彼女はよく神をほめたたえていました。そして、罪のことを他にしては、めったに、いや決して不満をもらしませんでした。

 彼女は、このように祈り続け、神をほめたたえ続け、両親や彼女に何かを教えてくれる人々に対してとても従順で愛らしくあり続けました。彼女は、母親がやもめであった間、母親を大いにはげまし、子どもの従順と聖さによって、夫がいないことを、ある程度補いたいと願っていました。彼女は、母親の生活を快適にしてあげるために、できることは何でも一生懸命努めました。

 彼女は、11歳と12歳の間の頃病気になりましたが、みごとな忍耐をもってふるまいました。そして栄光に入ろうとしている彼女との別れのために、身内の者を支え、励ますために、聖書の議論をもって、彼女にできることをしたのです。そして彼らが死後の祝福の中で自分と会えるように彼らを備えようとするのでした。

 彼女が危険な状態になるまでに、それほど日は経ちませんでした。自分の病気のことを彼女は知っていて、今すぐにでもキリストのところに行こうとしているのだと喜びました。彼女は友だちに呼びかけて言いました。「心配しないでください。私は主のものですから。」

 どうしてそうだとわかるのかと、ある人が尋ねると、「私が主の愛する子どもであることを、主は教えてくださいました。」と彼女は答えました。このように、彼女は、主が自分のたましいを愛してくださっているとの聖い確信をもって語っていました。彼女は自分の死のことを語るとき、少しもこわがることなく、むしろ父の家に近づく予感の中で、大いに喜んでいるかのようでした。そして信じることで言葉に表せない喜びに満たされるのに、それほど長くはかかりませんでした。

 彼女の臨終のとき、母親が来て、「あなたのような良い子を、今までよくしかったり、こらしめたりして後悔してるよ。」と言いました。「お母さま。」と彼女は言いました。「そのように言わないでください。私は今死のうとしていることで神さまをほめたたえています。お母さまのおしかりや、こらしめのためにも神さまをほめたたえます。なぜなら、お母さまのおしかりや、こらしめがなかったら、私は地獄に行かなければならなかったかもしれないんですもの。」と。

 ある近隣の者たちが彼女を見舞い、「私たちとお別れできますか。」と彼女に尋ねました。彼女は「あなたがたが主にお仕えするならば、栄光の中にいる私のところに来ることになるでしょう。」と答えました。

 彼女が死ぬ少し前でした。彼女はサタンと激しく戦って、こう叫び出しました。「私は主のものでもなんでもない。」と。彼女の母は、娘が苦しみに会っているのがわかって、「どうしましたか。」と尋ねました。彼女は答えました。「サタンが私を悩ますのです。でもすべては善いのですから、今は神さまに感謝します。私はまったく主のものではないことを知っていますが、でも私はキリストのものです。」

 この後、彼女はまさに天が開けているのを見たかのような、そして御使いが自分を引き取りに来ているかのような栄光ある光景と神の愛の感覚をもち、それによって彼女の心は喜びに、その舌は賛美に満たされました。

 周りの人たちが、彼女の見たものを詳しく知りたがっていると、彼女は言いました。「この後あなたがたは見るようになるでしょう。」と。そして、喜びの絶頂と聖なる勝利の中で、彼女は神のもとに召されて行きました。彼女が12歳のころでした。ハレルヤ!






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