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第8章







聖書的手段を


受け入れる:コミュニケーション


 
 
 

 セールスマンは外食に飽き飽きしています。私の父はそのことをよくわかっていて、よくセールスマンをうちの食卓に招き入れたものでした。


 そのようなある晩のこと、子どもの私たちがなかなか言うことを聞かなかったとき、父は「エペソ人への手紙6:1は何でしょう?」と尋ねて、私たちの義務を思い出させました。私たちは心の中に「子どもたちよ、主にあって両親に従いなさい。」と思い浮かべ、父に従いました。


 この質問の私たちに対してもつ力強い影響力は、お客さんに感銘を与えました。彼は子どもたちが従うようになる新しい方法にびっくりしたことは確かでした。そして夕食が終わるまでに好奇心を抑えることができませんでした。


 「ところで」と彼はついに尋ねました。「エペソ人の手紙6:1とは何ですか? 私も子どもたちに教えたいのですが。」と。


 多くの親のように、この人も子どもを扱う効果的な方法を知りたがりました。彼はおそらくこのエペソ6:1のアプローチが自分の子どもたちにも役立つだろうと考えたのでした。


 もし私たちが前の章で簡潔に評価したやり方をしりぞけるとすれば、どこに向かうところがありましょうか。親の手引きとして神のみことばは目的だけでなくやり方においてもまた適用されなければならないのです。


 やり方と目標とは互いに補い合うものです。あなたは自分の子どもが神の栄光のために生きてほしいと願います。彼らに、価値ある人生とはイエス・キリストの主権のもとで生きる人生なのだとわかってほしいと願います。あなたのやり方は、その同じ主への服従を示すものでなければならないのです。お利口で、出来のいい子どもを作ることを目的としたやり方はうまくいきません。なぜなら、あなたの目標は単に成功とかすぐれた順応性ではないからです。


 子どもへの聖書的なアプローチには互いに織り合わされた二つの要素があります。一つは豊かで十分なコミュニケーションであり、もう一つはむちです。箴言を見ると、これら二つのやり方が共存しているのが分かるでしょう。




子どもを懲らすことを差し控えてはならない。
 あなたがむちで打つなら、
 彼は死ぬことはない。
彼をむちで打って
 そのたましいを死から救え。
わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、
 私の心はうれしく、
 あなたのくちびるが正しいことを語る時、
 私のもっとも深い部分は喜ぶ。
あなたの心が罪人をねたまないようにせよ。
 主を恐れることにいつも熱心であれ。
確かにあなたには将来の望みがある。
 あなたの望みは断ち切られることはない。
聞け、わが子よ、賢くあれ。
 あなたの心を正しい小道のうちに保て。
 (箴言 23:13-19)


あなたに命を与えた父の言うことを聞き、
 あなたの母が年老いた時、彼女をさげすんではならない。
 (箴言 23:22)


わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。
 あなたの目が、わたしの道を守るようにせよ。
 (箴言 23:26)




 これらの聖句は、むちと豊かな哀願とを結びつけています。ソロモンは幅広いコミュニケーションとむちとを結合させます。この両方が聖書的な子どもの養育において必須なのです。これらが相伴って神に喜ばれ、霊的に満足があり、密着した、統一のとれた子どものしつけ、矯正、訓練へのアプローチとなるのです。むちの使用は聖書的に根ざしている親の権威を保ちます。神は子育てにおいて、親を神の代理として行動するように召すことによって、彼らに権威を与えたのです。他方、豊かなコミュニケーションの強調は、冷淡で暴君のようなしつけ方を排除します。それは子どもが理解され、自分自身を知ることのできるような正直なコミュニケーションのためのつながりを提供します。また、それは敏感なものではありますが、怒りっぽく、感情的なことを避けます。


 むちとコミュニケーションは、子どもの実際の養育の中でもいつも一緒に織り合わされなければならないものです。それらをよく学ぶために二つを分け、最初にコミュニケーション(8章―10章)、後でむちを扱うことにしたいと思います(11章)。




 最近、ある父親とこんな話しをしました。
「息子さんとのコミュニケーションについて聞かせてください。」と私は尋ねました。
「ええ、いいですよ。」と彼は答えました。「つい昨晩、子どもは私に自転車がほしいと言ったので、私は豆をちゃんと食べるようにいいました。」


 その話しは私の顔をほころばせましたが、後で思い返した時に、それはほとんどの親子間のコミュニケーションを見事に描いたようなものだと気づきました。お母さん、お父さんは子どもに何をすべきかを言い、子どもは自分の望みや夢を伝えるのです。




コミュニケーションは一方通行ではなく、
対話



 私たちはコミュニケーションを、よく自分を表現する能力であるかのように考えます。だから子どもに自分のことを話すことだと考えるのです。そうではなく、子どもと一緒に話すことを求めるべきです。コミュニケーションは独りでべらべらしゃべるのではなく、対話なのです。


 それは話す能力だけではなく、聞く能力でもあります。箴言18:2では、この点を深い洞察力で論じています。「愚かな者は理解を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。」 箴言18:13は、「聞く前に答える者、それは彼の愚かさであり、彼の恥である。」ということを思い起こさせます。


 コミュニケーションのすばらしいこつは、どのように自分の考えを表現するかを学ぶことではなく、どのように相手の考えを引き出すかを学ぶことです。コミュニケーションの目的は、単に子どもに親を理解させることだけではなく、子どもを理解することでなければなりません。多くの親は決してこの術を学ぼうとはしません。彼らは子どもたちが考えや気持ちを表現するのをどう助けるかを見出しません。


 これを物語ったある皮肉があります。子どもが小さい時、私たちはしばしば重要な会話の中に彼らを引き入れることに失敗します。子どもが私たちの注意を引こうとすると、私たちは「んん、そうねぇ」と無関心な答え方をします。そして子どもたちは結局、親は自分たちに興味がないことに気づくのです。私たちの言う「よい会話」というのは、子どもたちのために「よく聞くこと」なのだということを彼らは知っていきます。子どもが十代になると立場は逆転します。親は十代の子どもの心をとらえられたらと願いますが、彼らはずっと前にそうすることをやめているのです。


 クリスタルはそのよい例です。彼女の両親は、彼女をカウンセリングに連れて行きました。彼らは、娘が自分のうちにとじこもっていると言いました。両親は彼女には何か悩みがあることが分かりましたが、彼女はそれを話そうとしないのです。彼女の母親は金切り声を上げる人でした。コミュニケーションはその噴火の時には制限されました。彼女が溶岩を吐き出す度ごとに、クリスタルは殻をかぶることを学んだのでした。彼女の父親は内にこもり、人と距離をおきたがる人で、人との付き合いはめったにありませんでした。十四歳のクリスタルは内で悩み、揺れましたが、両親の理解あるかかわり合いによって益を受けたことは一度もありませんでした。聖書的なカウンセリングによって彼女は話すことを学び、両親はどのように彼女を引き出し、その言うことを聞くかを学んだのです。




理解に焦点をあてる



 矯正の一番の目的は、子どもがしたことや言ったことについて親がどう感じたかを子どもに告げることではありません。彼らの内側を理解することに努めなければなりません。聖書には、心に満ちていることを口が話すとあります。子どもの内側に何が起こっているかを理解することによって子どもの心を捉えなければならないのです。


 矯正において重要なことは、あなたの感情や怒り、傷ついたことのはけ口とするのではなく、あなたの子がかかえている心のもがきがどういうものかを理解することです。重要なことは、したこと、言ったことの「なぜ」を理解することです。何が起こったかではなく、子どもの内側に何が起きているかを理解する必要があるのです。心に満ちているものを口が話すからです。矯正においては次のような問いかけが必要です。このような時に子どもの心に満ちているものは何か。心を誘ったものは何だったか。その誘惑に子どもはどう応答したか。これらの事柄を子どもが悟るようにあなたも理解をもって助けることができるならば、あなたは起こったことの「なぜ」を知る途上にいるでしょう。親がするべきことは、外面にあらわれた行為の中身をあらわにし、そのような状況下での子どもの内側の世界を明瞭に理解することなのです。子の心をはっきり理解できない間は、それを理解するよう努力することは価値あるつとめです。


 次のシナリオを思い浮かべてください。あなたの子どもが新しいスニーカーを履こうとしているところです。あなたは、昨夜それを買ってあげた時、彼があまり喜ばなかったことを知っています。でもそれはあなたが買ってあげられる精一杯のものだったのです。そして今、学校に行く段になって彼は泣いています。あなたはこれをどのように扱いますか。もしあなたの考えを子どもに分からせることが目的なら、このように言うでしょう。




 「ほら、おまえがこのスニーカーを好きじゃないことは分かってるよ。でもそれは私の買える精一杯ものもなんだよ。赤ん坊みたいなまねはやめなさい。おまえがこんなことで泣いてるってジャレッドに言ったら何と言うだろうね。どうせすぐ汚れて何日かたったらどんなスニーカーだったかわかんなくなるって。友達がスニーカーをどう思うか心配してるのか。いったい誰が彼らをスニーカーの専門家にしたんだ? それよりスニーカーを持ってることを感謝しなきゃ。おまえの気に入らないそのスニーカーは、私が初めて買った車よりも高かったんだぞ。ほら、もう仕事に行く時間だ。そんなスニーカーのことなんかよりもっと大切な用事があるっていうのに・・・。」




 どうでしょうか。もし、子どもの心の葛藤を理解することがおもな目的ならば、次のように言うことができたでしょう。


親:「おまえはそのスニーカーのことで気分が悪いんだろう?」
子:「うん。」
親:「昨晩、それを買ったとき、気に入ってないんじゃないかなあと思ったよ。おまえはそれを言おうとしなかったね。」
子:「うん」
親:「何が気に入らないのかい。」
子:「おかしいから。」
親:「それどういうこと?」
子:「ジャレッドがおかしいって言うんだもん。」
親:「ジャレッドはいつそのスニーカーを見たの? 昨晩買ったばかりじゃないの。」
子:「クリスがちょうどこれと似ているのをはいてたとき、ジャレッドは教室でみんなに、こいつどんくさいぞって言ってたもん。」
親:「どんくさいってどういうことだ? ああ気にするな、気にするな。このスニーカーのどこがどんくさいっていうんだ?」
子:「後ろのこの赤い線だよ。新しいのは赤い線がないもん。それは去年のスニーカーだもん。だからたったの87ドル98セントだったんだ。」
親:「なるほど、わかった。おまえは今日、どんくさいって言われるのを心配しているんだね。」
子:「うん。」
親:「それはほんといやな気分になるよね。」
子:「うん。そんな言われるといやあな気分になる。どうしてあの人たちがぼくのスニーカーを気にしないといけないのかわからないけど、きっとぼくにどんくさいって言うよ。」




 どうでしょうか。あなたのお子さんは心に葛藤があります。そしてあなたはそれを彼の身になって分かってあげられるはずです。彼には三年生の教室の中で深刻なプレッシャーがあるのです。仲間によく思われたいというプレッシャーを感じているのです。このような状況は子どもの心に希望や恐れをもたらします。


 コミュニケーションの実体は、いくつかの簡単なことばで言い表すことができます。


1.目に見える行動は子どもの心に満ちていることの反映である。
2.あなたは子どもの心に満ちているものが何かをより具体的に理解しなければならない。
3.心の内側の問題はそれが行動をもたらすので、行動の詳細よりも重要である。


 要約すると:あなたは子どもの内側の葛藤を理解しなければならない。子どもの視点でその世界を見る必要がある。これは、今の会話の中でいのちを与える福音のメッセージのどの側面を話すのが適当かを悟らせる、ということです。


 あなたが子どもを理解し、彼らが自らを理解するように助けようと思うなら、その上手なやり方を磨いていかなければなりません。子どもが自分自身を表現するのを助け、会話がはずむようにする術を学ぶ必要があります。行いとことばの下をくぐって、心の問題を見分ける努力をしなければなりません。箴言20:5は言っています。「人の心の目的は深い水、しかし悟りのある人はこれを汲み出す。」と。あなたは親として、このような理解の人にならなければなりません。


 これは子どもたちを導くすばらしい機会です。あなたが子どもたちの内側の罪の葛藤を知るほど、あなたは有利な立場にあります。あなたも同じ罪人なので、誘惑の性質を見抜くことができ、彼らが自分たちの誘惑を理解するように助けることができるのです。


 さきほど想定した二つの会話のうち、子どもはどちらの方がよく理解されたと感じるでしょうか。どちらの会話の方が、福音をもっとも力強く示せるでしょうか。答えは明らかです。それは心をよく調べる技術を磨くことを意味します。ほとんどの親は子どもと次のような会話をしたことがあると思います。




 お母さん「どうして妹をぶったの?」
    子(じっと床を見つめながら)「知らない。」
 お母さん(怒って)「知らないってどういうことなのっ??」
    子「知らない。」




と、このようになります。何が問題なのでしょうか。子は単に話すことをいやがっているのでしょうか。そうではないでしょう。彼は単に答えることのできない質問をされているだけなのです。彼はお母さんの質問に満足に答えることのできる理解の深さと内省の能力を欠いているのです。彼にはもっと違った問題のとりあげ方が必要です。


 「どうしてあなたは〜したのか。」という質問は子どもには効果がありません(大人でもたまにそうです。)。もっと有益な質問があります。




1.妹をぶったときどういう気持ちでしたか。
2.妹が何かをしてあなたを怒らせたのですか。
3.妹をぶったことでどのようによくなったか教えてください。それとももっと悪いことになりましたか。
4.妹がしたことの何が問題ですか。(子どもが罪を犯した事実を否定する必要はありません。もちろん彼は罪を犯したのでそれについて言わせる必要があります。)
5.他のやり方で妹に応えられなかったのですか。
6.あなたの応答は、神があなたのために備えてくださる力への信頼、あるいは信頼のなさをどのように表したと思いますか。




 これらの質問に対するそれぞれの答えは、子の行動の背後にあるものを理解しつつ追求する別のやり方を開くことができます。


 子どもの罪をあらわし、子どもが神に向かっての霊的な心のもがきとキリストの恵みと贖いの必要を理解するのを助けるためには、多くの違う質問があります。私の言いたい事はこれです。妹をぶったことであらわれた内側の争いがどういうものか理解するように要求することから始めなくてはなりません。


 子どもが上記の質問に答える時、親の役割は、子どもに自分自身を理解させ、内側の罪とのもがきを、明確に、正直に話すよう助けることにあります。


 子どもを通らせなければならない三つの点があります。1)罪の誘惑の性質、2)この誘惑への可能な応答、3)彼自身の罪深い応答、です。


 この過程において親は、子どもの上と横の両方に立ちます。上に立つというのは、神が訓練と矯正の役割に親を召したからです。横に立つというのは、親も他人への怒りで苦しむ罪人だからです。


 親というものは、その一方だけに偏りがちになります。ある人たちは「私も同じことをしているのに、どうして子どもを矯正することができましょう。」というように、子どもの横にだけ立ちます。そして矯正に失敗するのです。他の人たちは、非常に高く立ち、偽善的に子どもと距離を置きます。このことにおいてあなたは神の代理として、子どもたちの心を捕らえなければならないことを忘れてはなりません。親には悪を非難する権利と義務とがありますが、そのことを子どもの傍らに立つ罪人として行うことで、人間の心に働く罪のあらわれを理解することができるのです。そこで矯正というものは心の謙遜をもって与えられなければなりません。


 子どもの養育における主要な聖書的方法の一つとして、コミュニケーションの重要性を見てきましたが、次の章では、聖書の中の様々なコミュニケーションのタイプを扱うことにしましょう。






この章からの適用問題


1.コミュニケーションの中でも、子どもたちが自分自身を表すのを助ける面を、あなたはどのように行っていますか。
2.あなたの子どもの問題に応答することを目的とした場合、まずどのようなコミュニケーションをしますか。
3.あなたの子どもが何を考え、何を感じているかを導き出すための効果的な質問を、五つ、六つ挙げてください。
4.あのスニーカーの例話のような会話をする場合、あなたの会話のスタイルをどのように変えなければなりませんか。
5.「子どもが自分の罪を理解するように助ける場合、子どもの上と横の両方に立つ。」とはどういうことですか。自分の言葉で表現してください。
6.この章から、行為の「何か」ということと、行為の「なぜなのか」ということの間の区別が理解できますか。








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