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第5章







目標を点検しよう

 
 
 

 涼しい、さわやかな秋の日でした。その日は、小雨まじりの天候ではありましたが、有名なペンシルベニア西部のホームカミングデーの祝い日でした。音楽隊も参加して、未来のアメリカの農業経営者から外国で戦った退役軍人まで、あらゆるグループの人々がパレード通りを行進しました。私たちは傘をさしながらいくぶん肌寒さも感じていましたが、この居心地のいい催しからだれが離れ去ることができましょう。パレードの最後は、三才から五才の子供バトンガールの一行でした。私の目は列の最終尾付近の子にとまりました。その子は三才よりも下に見え、その小さなコスチュームは雨にさらされていました。その子は泣いていました。雨の中その一行が進むにつれ、その子は列から出て、母親を求めて駆けていきました。でも慰めは待っていませんでした。その子の母親は列の自分の場所にもどるようにその子を何度も押し返そうとしたのです。私は、その子がすすり泣きしながら私たちの前を行進していく時の、あの子の目にあらわれた、あのすてばちな、混乱した表情を決して忘れるこができません。


 この母親の行動は、ある子育ての目標を暗示していました。おそらくあの母親は、娘にきれいで人気者の一人になってほしかったのだろうと思います。親が子に抱く夢を実現させるために、あまり早いうちから準備し始めるのはよくないことを、あの母親も知っていたことでしょう。このことはお母さんにとって大切なことでした。


 私はこの母親を知りません。また、彼女の目指しているものを知りませんし、子どもにバトンをしっかり持って、列を守るように一生懸命駆り立てながら、辛くても急いで行列に加わるようにと、どのような思いで指示していたのか分かりません。でも、これだけは確かです。母親にはあの子のために目指しているものがあったということです。私たちは誰でも持っています。私たちが子育てをするとき、私たちの選択を導くものとなる目標があるのです。ある親は自分たちの目標をはっきり述べることができます。あるいは、親の選択がその目標を暗示している場合もあります。




非聖書的目標
 親は、子どもに成功してもらいたい、うまくやってもらいたい、しあわせに暮らしてもらいたい、快適な暮らしをしてもらいたいと思います。この成功への願いは十人十色です。しかし、すべての親が、成功した幸福な子どもを欲しています。私たちは子どもたちに機会に恵まれ、問題から解放された大人の生活をしてほしいと思います。どのような成功を願うにしろ、私たちは子どもの成功を願うのです。私たちは彼らの教育方法が将来の成功に深くかかわっていることを知っています。


 親がこのような成功をもたらそうとするいくつもの方法があります。親が成功する子どもをつくるように助成することが、今や成長産業となっています。成功の方法を売りにしている本は無数にあります。さまざまなプログラムが開発され、市場に出回っています。心理学や神学、教育、体育系、動機づけなどの専門家たちが、あれこれと意見を述べ、聴衆を疲れさせています。それでは、子どもを成功させるため、親にできる準備のやり方をいくつか見てみましょう。




特別な技能を伸ばすこと
 ある親は自分の子どもをいろいろな活動に参加させようとします。サッカー、野球、水泳、体操、ピアノ、ダンス、フットボール、ホッケーなどなど。そのような特技は悪いことではなく、将来何かの役に立つこともあるでしょう。しかし、子どものために用意されたそのさまざまな活動が親の良し悪しを決めるのでしょうか。上達した技能の数が子どもを量るはかりなのでしょうか。


 たとえこの活動の熱狂性が有益だとわかったとしても、あなたはクリスチャンである親として、このような活動のコーチや指導者によってほのめかされたり、教えられたりする価値観をまったく気にも留めないようなことがあるでしょうか。


 これらの活動へのかかわりは聖書的な内容をもつことになるでしょうか。子どもたちは正確な自己イメージ、スポーツマン精神、忠誠心、安定、忍耐、友情、権威に対する敬いなどにおいて聖書的な導きを受けるでしょうか。


 明らかにあなたは成功とは何かということを理解しなければなりません。本当の成功はこのような活動が教える技能にかかっているのでしょうか。成功について聖書はどう定義しているでしょうか。




心理学的対処
 他の親たちは、心理学的な目標に比較的力を注ぎます。彼らの幼少時の生き生きとした想い出に動かされて、彼らはビリーとスージーの心理学的対処法で頭がいっぱいです。さまざまな本や雑誌が彼らの頼りとなっています。これらの本は不安定なお父さん、お母さんを手助けする最新の流行心理学を奨励します。これら精神的指導者は、あなたの子どもたちのうちに自尊心を構築する方法を教えると約束します。他の人を尊ぶ子どもとなるように助ける本が一つもないことにあなたは気づいておられましたか。


 あなたが自分の子どもに、人を自分に仕えさせる方法を教えているとするならば、どうやって仕える者が先の者になるという神の王国で役割を果たしていくことを教えるのですか。


 ある児童心理学者は、人に使われているというあなた自身の感覚に訴え、あなたの子孫が実力者になるための教えの戦術を差し出します(世渡り上手になるというわけです)。さらに別の専門家は、子供を甘やかしすぎているのではないかというあなたの心配につけ込んで、甘やかされていない子というものを描き出します。マンスクラブ・カタログのかなめは、そのどれもが流行の児童心理学を提供するものです。親たちは、自分の子どもがどのような訓練を必要としているかを教えてくれる専門家たちに頭を下げてそれらを買います。あなたが尋ねなければならない問いはこれです。「このような心理学的目標はクリスチャンにとってふさわしい目標だろうか。」と。どの聖句があなたをこのような目標に導きますか。




救われている子どもたち
 私は、子どもたちが救われることを最も重要なことと考える多くの親に出会ってきました。彼らは、子どもに「罪人の祈り」を祈らせることを強調します。彼らは、イエス様がその心に入ってくださるように子どもに祈ってほしいのです。彼らは子どもを子ども福音交友会やグッドニュース・クラブ、サマーキャンプなど、イエス様を信じる決心をうながすようなあらゆるところに連れていきます。


 彼らは、子どもが救われさえするならば、あらゆる問題は解決すると考えます。彼らが、しばしばこのように考えるのは、彼らの経験によると、救われることが彼らにとって霊的な分岐点だったからです。彼らは自分の子どもにもそのような経験をしてほしいと思うのです。


 これは次の二つの事実によって和らげられなければならない微妙な問題です。1)あなたは子どもが救われるかどうか確かなことは決してわからないということです。山上の説教の終わり部分(マタイ7:21-23)、「主よ、主よ」の節のような箇所の多くが、偽物の信仰は人々を間違った道に連れ行くということを示しています。心は自らをあざむくこともできます。このように聖書は自らあざむかれている危険について警告し、私たちが信仰にあるかどうかを省みるようにと勧めています。2)子どもの信仰告白は、子育ての根本的問題を少しも変えません。親の目指すところは同じです。子どもに求められていることも同じです。主は、以前要求していた訓練を引き続き要求されます。彼は柔らかい心の時もあれば、霊的に冷たくなる時もあります。親の務めは、子どもが決心をしたからといって変わりません。


 あなたの子どもを牧し、訓練し、指導し、躾る必要を教えるたくさんの聖句があります。そのどの聖句も、子どもに「罪人の祈り」を祈らせるように教えてはいません。




家族礼拝
 ある親は、家族というものは一緒にいて、一緒に祈るものだという考えにせき立てられて、家族で聖書を読む時間を定めます。家族全員はそこにいなければなりません。彼らは毎日のデボーションの必要性について非常に真面目です。ただ家族礼拝は有益であるとはいえ、真の霊性の代替えとはなりません。


 私は家族礼拝を決して欠かさない家族を知っています。彼らは毎日聖書を読み、祈ります。しかし、家庭生活や家族を尊重する意識に関して言えば、家族礼拝の日課とその生き方には何のつながりも見られませんでした。


 家族礼拝は重要なことではありますが、その家族の家族礼拝は欠陥のある霊性を反映していたのです。




お行儀のいい子ども
 ある親は行儀のいい子を育てるというプレッシャーに屈します。私たちは子どもが落ち着きを増すように手助けします。子どもが会話をするように教えます。子どもが社会的たしなみを持つことを欲します。子どもが訪問客をくつろがせることができるように願います。子どもがプレッシャーのもとでも、優美に応答できるようであってほしいと思います。私たちは、この世でうまくやるためには、このような術が不可欠であることを知っています。自分の子どものうちにこのような社会的な優美さを見るのは、親にとって喜ばしいことです。


 私は三人の子どもを育てた経験のある牧師です。私は決して行儀のいい子どもにいやな思いを抱くことはありません。しかし、行儀のいい子どもを育てることが目標ではありません。それは聖書的な子育てから来る副次的な恩恵ではありますが、目標となるべきものではありません。
 他の人を喜ばせるために子どもに応答するのはよくないことです。そのようにさせる誘惑は非常に多くあります。他の人がそれをよいことだと思うからという理由で自分の子を矯正しようとするプレッシャーに、どの親も直面するものです。たとえば、あなたがある集まりの中にいて、そこで子どもが、あなたにとっては何でもない、よくあることを何かしたり、言ったりしたとします。しかし、周りの人たちに明らかに誤解されてしまいました。あなたは彼らのひんしゅくの剣でぐっさり刺されたので、彼らのために子どもを矯正する必要を感じました。ここであなたが同調するなら、あなたの子育ての焦点は行状に移るのです。これは、子どもの心を聖書的に取り扱うことを難しくします。そこでは物事の焦点が、神がどう思うかではなく、他の人がどう思うかになります。忍耐強い、敬虔な矯正は、行状を変えなければならないとの迫りくるプレッシャーによって妨げられます。あなたの目標が行儀の良い子どもであるなら、ご都合主義への百もの誘惑に門戸を開いていることになります。


 何でもきちんきちんと適切にするようにしつけられた子どもはどうなるでしょうか。よいマナーも、しもべという身分に関する聖書的基盤から離れると、それは洒落たごまかしの道具となります。あなたの子どもは、巧妙に、根深い利己主義のしかたで他の人に向かう術を身につけていきます。ある子どもは、他人をごまかす者、人を蔑視する者となります。また別の子どもは、厚かましく、愚かな者となり、社会の慣習をはね退けるようになります。1960年代後半と1970年代前半には、見せかけのない実直さを求めてたくさんの若者たちが礼儀作法をはね退けました。この反動もまた、しもべの身分でいるという聖書の停止位置から離れた風習の犠牲者なのです。




よい教育
 私がある学校の理事であった時、子育ての目標をよい教育としているたくさんの親に会いました。彼らの目標は、自分の子どもに学位が授けられ、学問で認められるのを見ることです。彼らは、教育が成功をもたらすと信じ込まされています。不幸にも、幻滅し、悲嘆に暮れている多くの人々は、かなり教育を受けた人々です。十分教育を受けていながら、人の生を理解しないということがあり得ます。




制御
 ある親は高貴な目標をまったくもっていません。彼らは単に子どもを手の内におさめたいのです。彼らはその子どもたちがよい子で、おりこうであることを気にして、そのように振る舞う者であってほしいのです。彼らはその子が小さかった頃はどうであったかを思い出させます。彼らは扱いやすい子を喜びます。彼らは、どういうことであれ、今その時、子どもたちに正しいことをしてほしいと思います。要するに自分たちの子どもを制御するのが目当てなのです。


 しかし、その制御は、成長する個々の子どもの人格に向けてなされるものではありません。彼らが気にしていることは、個人的な都合と人前での見栄えです。




文化の影響に対する聖書の警告
 旧約聖書を学ぶ者ならだれしも、イスラエルがカナン人から影響を受けやすいのを神が案じておられたことを知っています。神はイスラエルに、その民を追い出し、あわれまないように命じておられました。もしカナン人がイスラエルの近くに住んでいれば、イスラエルは道をそれて行くことを神はご存知でした。


 旧約聖書のイスラエルのように、あなたも周りの文化の強力な影響を受ける対象なのです。イスラエルのように、あなたは周りの文化の中で自分の神エホバにとって忌み嫌うべきものがあるなら、それを拒絶しなければなりません。


 ここまでざっと概略を述べましたが、そのような非聖書的な目標があることを、私たちは知っていなければいけません。その他に、受け入れるべき聖書的な目標があります。子供が導きを要求する非常にたくさんの領域があります。子供のそれぞれの成長過程に適切であるためには、どの目標が、広さにおいても柔軟さにおいても十分なのでしょうか。
あなたの人生観を導き、それ意識させ、したがってあなたの子どもの訓練を導き、意識させてくれる共通の聖書的目標とはどのようなものでしょうか。価値のある聖書的目当てとはどのようなものでしょうか。あの有名な小教理問答書の最初の問答は、これらの問いに答えを提供しています。


問:人のおもな目的は何か。
答:人のおもな目的は、神に栄光を帰し、神を永遠に喜び楽しむことである。


 この他に何かふさわしい目標があるでしょうか。あなたは子供に関してここから始めたいと思いますか。あなたは、神の知識を捨て去った文化の中で、子供たちがその役目を果たしていくように彼らを整えていかなければなりません。あなたが、神との関係を抜きにして、ただ彼らの生活をよりよくするために、その能力、素質、才能、知性を用いることを彼らに教えるならば、あなたは彼らを神からそらすことになります。もしあなたの目標が、「人のおもな目的は、神に栄光を帰し、神を永遠に喜び楽しむこと」以外の何ものでもないなら、あなたは子どもたちに、この文化の中で、求められている通りに役目を果たすことを教えることになるのです。


 さて私たちはどのようにこれを行っているでしょうか? 私たちは彼らの願望の手助けをし、どこかに行ったり何かしたりする時、彼らが自分の心の喜びを見出だすように教え、彼らを鼓舞させるために、その欲望を満足させるように試み、神から気を紛らわすさまざまなもので彼らの若き日々を満たし、彼らにものを与え、彼らの喜ぶ姿を見てこちらも喜びます。それでいて彼らがいつかは全面的に、価値ある人生とは、神を知り、神に仕えることだけに見出されるという事実を見るようになることを望んでいるのです。


 神への向かい方という事の関連で言えば、私たちは物質主義という偶像崇拝の中で子どもたちを訓練しています。霊的真理を深く自覚することの重要性を退けながら何年もの期間を過ごしているなら、思春期から青年期初期の敬虔さを培うことはできません。


 私たちが子どもたちを失うのも驚くことではありません。私たちは、人生のおもな目的についてはっきりと考えないために彼らを失うのです。人のおもな目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜び楽しむことです。したがって、あらゆることにおけるあなたの目的は、子どもたちに聖書の世界観を提示してやることです。彼らのもっとも早い時期から、彼らは神のために、神の似姿に造られた被造物であることを教えられなければなりません。彼らは、神を知ることによってのみ、「自分を知る」ということを学ばなければなりません。あなたの子どもたちは、本当の生き方というのは、神の御前に立って、「私はあなたのほかに誰を天にもちましょう。地ではあなたとともにいることの他、何をも願いません。」(詩篇73:25)と言うときに経験するものだということが分かるほどに成長しなければなりません。あなたがこのようなことを子どもに欲しているのならば、日々の生活の中身は、この目的に確実に合致したものでなければなりません。




一貫しない意思表示
 詩篇36篇は、私たちはただ神の光のうちにのみ光を見るということを断言しています。しかし、私たちは、子どもたちには違う世界を示したりします。神を知らない社会の中で彼らが生きて行けるように助けようとして、追求すべき目的と人生の問題の解決方法に関して非聖書的なものを提示したりするのです。事実上、私たちは、彼らが非聖書的に考えるように訓練しています。これら非聖書的な考え方や行動の習慣は、神の栄光のために生きる人生、その目的と交錯します。


 例えば、もしも子どもたちを、あなたや他の人々が是認することに従い、事を行うように教えるなら、あなたは非聖書的な目当てを示しているのです。神の目は私たちの上に注がれており、神は正しい者に報いてくださるお方なので、私たちはどういうことであれ神の栄光のために行うべきです。そう神は言っておられます。人は従順な子どもにはよい反応を示してくれるものですが、あなたは服従を要求するとき、それに伴う副産物を第一の理由としてはいけません。


 もう一つの例も助けになるかもしれません。あなたの娘がスクールバスに乗っていたとき、口の悪い子が彼女の目の前に立ちはだかったととしましょう。あなたは彼女にどんなアドバイスをしますか。多くの親は、火には火だ、悪には悪を返せの原則に則って立ち向かえ、と子どもたちをせき立てるかもしれません。ある親は、いじめっ子は無視しなさいと教えるでしょう。しかし、それらのアドバイスは聖書的でしょうか。まったく違います。「復讐はわたしのもの。わたしが報いをする。」(ローマ12:10)と言われる神の守りに私たち自身をまかせて、悪に対して善を返すようにと神は言っておられます。


 聖書的な助言は、あなたの子どもが神の養いと守りに自らをゆだねるように導きます。それは、自分に害を加える人の必要に敏感であるように教えます。「あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。」(ローマ12:20) また、私たちを呪う者を祝福しなさいと神が言っておられることを思い出させます。要するに、それは聖書の啓示という文脈で唯一機能することのできる助言なのです。この助言は、子どもを自らの知恵に導くようなことはなく、神に導きます。


 次の章で私たちは、これらの目当てを、人のおもな目的という光に照らして再考してみようと思います。






この章からの適用問題

1. あなたは成功をどのように定義しますか。あなたのお子さんだったらこの後何と言いますか。 「おかあさんとおとうさんがぼくのために探しているのは、....」"


2. あなたは、非聖書的な目標の下で、さまざまな事に突き動かされたり、引きつけられたりしています。では、どのような非聖書的な目標が、あなたの子育てにもっとも悪い影響を及ぼしていますか。


3. 思い出してください。 あなたは子供にとって、その人格形成の要因となる一つの影響なのです。あなたはどのような行動原理をもっていますか。あなたを日々動かしているものについてあなたはどう説明しますか。あなたは何を恐れ、何を愛し、何について心配しますか。あなたの家庭で教えられている価値観はどのようなものですか。


4.旧約時代のイスラエルのように、あなたは周囲の文化に影響されています。その文化は、あなたの子育て観に、また子どものために目指す目当てに、どのように悪影響を与えていますか。


5. あなたは神の栄光のために生きるという思想と調和していますか。その思想はあなたうちで脈打っていますか。それとも、それは味気のない宗教上の思想に過ぎませんか。


6. 子どもたちが社会の中で折り合って生きていくように教える巧妙な誘惑にはどのようなものがありますか。


7. あなたはどのような一貫しない合図を子どもに送っていますか。たとえば:
 1)ベストを尽くして一生懸命やることが大事なんだ・・・
   ・・・お前の通知表のCはもうたくさんだ。
 2)いのちは財産の豊かさにあるんじゃない・・・
   ・・・お前のために手に入れるまで待ってなさい。


8. 本当の霊的羊飼いは育成のことであり、ただあなたの子どもが救われるために費やした精力のことではありません。このことは、あなたが彼らを扱うとき、どのように影響しますか。


9. あなたの家庭生活のことばに出すルールと暗黙のルールは、神の栄光のために生きる真実な霊性と一致していますか。








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