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第4章





あなたが指導権を持っているのです







 

 息子たちは外の納屋でゴーカートいじりをしていました。娘は彼らを夕食に呼びに行きました。
「あなたたち二人とも、もう中に入る時間よ。手を洗って食事の席に着きなさい。今すぐに!」と娘は命令口調で言いました。
「あの子たち帰ってきた?」と、娘が一人で家の中にもどってきたとき妻はそう尋ねました。
「私は呼んだわよ。」と娘はその気持ちをあらわにして言いました。
 男の子たちはなぜ家の中にもどってこなかったのでしょうか。それは自分たちを呼んだのがきょうだいであり、彼らは彼女の権威に従うつもりはなかったからです。
 彼女はもう一度納屋に行って同じメッセージを、しかし「お母さんが言っている。」との権威ある言葉を付け加えて言ったのでした。
 私の娘は彼らを家に入れさせるための権威をもっていませんでした。二度目に彼女が息子たちを呼んだとき、彼女は母親の代理として彼らを呼んだのでした。それで彼らはもう家にもどらないといけないと知ったのです。





権威に関する乱れ




 私たちの文化は権威を好みません。私たちがただ権威のもとにあることを好まないだけでなく、権威をもつこと自体好まないのです。これがもっともはっきりと見られる場所の一つに、家庭における権威を快く思わない私たちの心があります。
 私たちは権威についての聖書的理解が必要です。子どもに及ぶ親の権威とはどういうものか。それは絶対的か、相対的か。親に権威が授けられたのは、親と子という対応する違った立場であるからか。私たちに指導権があるのは、より賢く、経験豊富であるからか。私たちが彼らを治めるように召されているのは、私たちが罪人なのではなく、彼らが罪人だからか。私たちの望むことを何でもするように子どもたちに告げる権利があるか、など質問はたくさんあります。
 このような問いに答えないならば、神と子どもたちに対する務めを執り行うときに、あなたはためらいがちで不安定なはずです。あなたが自分の権威の性質と範囲についてあやふやならば、あなたの子どもたちは大いに苦しむでしょう。彼らはあなたに何を期待していいか決して知ることがないでしょう。なぜなら、土台となるルールがいつも変わるからです。唯一知恵を教えることのできる神のことばの絶対性とその原則を、彼らは決して学ぶことがないでしょう。
 私たちのこの社会に生きる親は、子どもを牧せよという聖書の委任を理解していないため、しばしば即興的です。子育てのゴールはたいていの場合、即座の満足や便宜以上に高貴なものとはなっていません。親がプレッシャーを感じるために子どもに従順を要求するとき、便宜のための子どもの従順は減じます。クリスチャンの親は、敬虔な子育てについてのはっきりとした理解をもたなければならず、子どもは、神がいつも従うようにと彼らを召しておられるので、その訓練を受けなければなりません。





指導する者として召されている



 親としてあなたは権威をもっています。それは神があなたを子どもの人生の権威者となるように召しておられるからです。あなたは神の代表としてふるまう権威をもっています。あなたは父として、母として、自分の支配権を行使するのではなく、神の支配権を行使するのです。あなたは神の命令によって行動します。あなたは神がお与えになった義務を履行します。あなたは自分を喜ばせるように子どもの生を形づくろうとするのではなく、神を喜ばせるように形づくろうとしなければなりません。

 親として、あなたがするすべての仕事は、この観点からなされなければなりません。あなたはあらゆる指導、気配り、養育、矯正、しつけを担わなければなりません。それは神があなたをそのように召しておられるからです。あなたは神の代理として行動するように責任が担わされているとの自覚を持って行動しなければなりません。創世記18:19でエホバはこのように言っておられます。「わたしは彼(アブラハム)を選んだ。それは彼の子どもたちと、彼の後の家族が正義と公正を行って主の道を守るように彼が導くためである。」(NIV)と。アブラハムは神のつかいばしりです。彼は神のおこころにあることをこなしているのです。神はこれらのことに彼を召しておられました。彼は無所属の人ではありませんでした。アブラハムは自分の仕事の作図を書いたのではありません。神がその仕事を定めたのです。アブラハムは神の代理として行動しました。

 申命記6章は、この親の責任という視点を明らかにしています。2節で、神の目指すところはイスラエルとその子どもたち、そしてその孫たちが神の定めを守り行うことによって主を畏れるようになることだといわれます。神の定めは誰によって言い渡されるのでしょうか。その親によってです。すなわち彼らが家で座っているときも、道を歩いているときも、横たわっているときも、起きるときもその子どもたちを訓練するように神が召しておられるその親たちによってなのです。神は目的を持っておられます。神はご自身の道に世代が次々と後に続くように欲しておられます。神はこの目的を親の指導という媒介を通して成し遂げられるのです。

 エペソ6:4は、あなたの子どもを主の訓練と指導の中で育てなさいと命じています。これは単なる訓練と指導の命令ではありません。これは主の訓練と指導を施せとの命令であり、すなわち神の代理としての機能を果たせということです。

 この単純な原則を理解することは、自分の任務についてあなたがはっきり考えることができるようにします。もしあなたが欠くことのできない主にある訓練と指導を施すこの任務において神の代理であるならば、あなた自身も権威の下にある者なわけです。あなたの子どもとあなたは同じ船に乗っています。あなたがたは共に神の権威の下にあるのです。あなたがたはそれぞれ役割が違いますが、主は同じです。

 もし聖くない怒りが矯正の務めを濁すのを許しているならば、それは間違っています。あなたはゆるしを求めなければなりません。子どもを躾るあなたの権利は神が召しておられることに結びついているのであって、あなた自身の思いではないのです。





   あなたも従順に召されている



 あなたは子どもがあなたに降参し、従うという自分の目的のために子どもの事にあたるのではありません。とんでもない! あなたはいのちに至る道である躾の矯正をもって事にあたるのです(箴言6:23)。あなたは神の代理として自分の子どもと関係しています。神がまずあなたと関係をもたれたからです。
 私は何度も次のような会話をしたことを思い出します。

 「あなたはお父さんの言うことを聞かなかったね。」
 「聞かなかった。」
 「あなたが従わなかったら、お父さんはどうしなければいけないと神が言っておられるか覚えていますか。」
 「スパンクしないといけないと。」
 「そうだね。お父さんは、おまえをスパンクしなければいけない。もし、しなかったら 私は神様に従わないことになる。おまえも私もどちらも悪いことになる。それはおまえにとっても、私にとってもいいことではないでしょう。」
 「はい(しぶしぶと答える)」

 この対話は子どもに何を伝えているでしょうか。気むずかしいからスパンクをするのではないということです。彼の横柄さがいやだからというだけで、無理矢理にでも従わせようとしているのではないということです。彼に対して腹を立てているのではないということです。あなたは彼と同じように神の支配と権威のもとにあります。神はあなたを回避することのできない働きに召しておられます。あなたは神の支配のもとでふるまうのです。神がしなければならないと言っておられるから、あなたは従順を要求するのです。



行うための確信

 ここに両親のための大きな自由があります。あなたが指導し、矯正し、訓練するとき、自分の意志でそれを行っているのではなく、神に代わって行っているのです。あなたは指導権をとっていいのかなどと迷う必要はありません。あなたは子どもの許可など当然必要としないのです。神があなたに成し遂げるべき義務を与えておられるのであり、したがって子どもの承認は不必要です。



行うための命令

 あなたは親として神の代理であるとの理解は、ただ導く権利のことだけを扱っているのではありません。それはまた行うための命令を与えます。あなたに選択の余地はありません。あなたは子どもに深くかかわらなければなりません。あなたは神への従順によって行動します。それはあなたの義務なのです。

 私の住むペンシルベニア州は、学校に対し児童虐待の疑いのあるものはどんな例でも報告するように要求しています。この法律はただ虐待を報告する権利を規定しているのではありません。虐待は報告されなければならないと義務づけているのです。学校の教職員は児童虐待を報告するか否かを決めるいかなる権利もありません。法律がそれを義務づけているのです。これと同じように、あなたが自分の子どもの訓練において権威者となるように神によって召されている事実は、ただ訓練する権利を与えているのではなく、その責任をも与えているのです。

 学校の管理者として私はほとんどの親たちがその子の人生の指導者であることの固有性と必要を理解していないことに気づきました。むしろ親たちは相談役にまわっているのでした。たとえば次のようにすすんで言う人はまれです。「あなたの朝食にオートミールを作りましたよ。これは栄養があって体にいいから、あなたに食べてもらいたい。たぶん別の日にあなたの好きなものが食べられるでしょう。」と。多くの人は次のように言います。「朝食に何食べたい? 私が作ったオートミールは食べたくないでしょ。何か他のがいい?」と。これは耳ざわりよく聞こえますが、実際はどうでしょうか。子どもたちは自分が有効な決断者であるということを学んでいくのです。親はただ意見を示唆するだけです。

 このシナリオは服を選ぶこと、スケジュールを決めること、社会的な選択、自由時間の選択など、子どもの経験の中で繰り返されます。子どもが六歳、八歳、十歳になるころには彼は自分のボスになります。十三歳になる頃には制御が利かなくなくなります。親は子どもが小さいうちには丸め込んだり、お願いしたり、(不満や怒りをもって)追い立てたり、金切り声をあげたり、脅したりできますが、子どもみずからボスになってくるとそれは通じません。その親は子どもの人生の決定を下すという大権をずっと以前に放棄してしまっているのです。それはどのように生じてきたのでしょうか。それは子どもが選べるようにと、バイキング形式のさまざまな選択を親が用意したために、子どものほんの幼少期に入り込んできたのです。

 ある人はこのように反論することでしょう。「子どもはただ親が物事の決定を子どもに許すときに、物事の決定者となることを学ぶのです。私たちは子どもが健全な決定を下すことを学んでほしいと願っているのです。」と。これはもっとも重要なことを見落としています。子どもたちは自分のために賢い方向と選択の模範となり、導いてくれる忠実な親を知るに応じて物事のよい決定者となっていくという点です。

 物事の決定を下すようになるまでの準備段階は、権威の下にいるのは子どもにとって重要です。神があなたがたをことさらに愛し、あなたがたを教え導くためにやさしい権威者となる親を与えてくださったということを子どもたちに教えなさい。子どもたちはあなたから学ぶことによって、賢い決定者となることを学ぶのです。

 親は喜んで指導者とならなくてはなりません。あなたはこれを情け深く、あわれみ深いしかたで行うべきですが、同時にあなたは子どもたちの権威者でなければならないのです。





   子育てとは何か



 神があなたを神の代理としての職務に召しておられるということを認めるのは、親としてのあなたの任務を決定します。現代社会は子育てというものを子どもの世話をすることに弱めています。親はしばしばこのような狭い枠の中でこの務めを見ています。子どもは食べ物や服やベッドや何か内容のある時を持たなければなりません。このような弱い見解と著しく対照的に、神は世話をすることよりももっと深いつとめにあなたを召しておられます。あなたは自分の子どもを神のために牧すのです。神があなたにお与えになった務めは合理的にスケジュールを組んでもらえるようなものではありません。それはもっと広範囲の務めです。訓練や牧すことはあなたが自分の子どもと一緒にいるときはいつでもなされます。目覚めている時も、歩いている時も、話している時も、休んでいる時も、あなたは子どもが自分の人生や自分自身のことや彼の必要としているものを聖書的な物の見方で理解するように助けてあげなければなりません(申命記6:6〜7)

 子どもを牧すつもりならば、あなたは親密な関係をもっていなければなりません。あなたは子どもの心を動かすものは何かを理解していなければなりません。創世記18章があなたを召しているとおりに、主の道に子どもたちを導こうと思うならば、あなたは彼を知り、彼らの心の傾きを知らなければなりません。このつとめは単に十分な食物、服、住いを与える以上のことを要求しています。



明らかな目的

 子育てをしている人たちに、子どものためにどのような目的をもって実際的な躾を行っていますか、と尋ねることは有益です。ほとんどの親たちは子どもの長所と短所のリストを即座にあげることができません。また、彼らは子どもの短所を補うために、あるいはその長所を助長するために何をしているか明らかにすることができません。たくさんのお母さん方やお父さん方は、子どもたちのために短期、あるいは長期の目標をお互い座って話し合うことをしていないのです。彼らは子育ての戦術のことで成長していません。彼らは子どもたちについて神が何と言っておられるか、また彼らに何を求めておられるのか知りません。単なる行状ではなく、心の態度に矯正の照準を合わせるようなやり方とアプローチについて、ほんのわずかの思想しかもっていません。悲しいことにほとんどの場合、親たちは他人に対する恥ずかしさとかイライラとかいった気持ちにかられて子供を叱ることが多いのです。

 なぜこうなるのでしょうか。私たちの子育てに関する考え方には牧するということが含まれていないのです。私たちの社会は、親を世話人として見ています。親子のふれあいの時とは、楽しいことを一緒にやることと考えられています。楽しみを共にもつことは悪いことではありません。しかし、それは子供を神の道に導くことから全く懸け離れているのです。

 これとは対照的に、創世記18章は、子どもたちが正しく公正なことを行って主の道を守るように導くことを父親に求めています。親であるということは、神のために子どもに導きを与える働きをすることを意味します。導く者は指導権をもっています。それは子どもの行状のための神の基準を理解するために子どもを知り、子どもを助けることを含みます。それは彼らが生まれながらに罪人であると教えることを意味します。それは罪人のためのキリストのご生涯と、死に示されている神のあわれみと恵みを彼らに指し示すことを含むのです。



あなたの務めにおけるへりくだり

 神の代理として機能する務めを理解することは、あなたが親として鋭く集中し、へりくだる助けとなります。あなたが自分の子どもを神の戒めによって矯正するということを知るのは分別のあることです。あなたは子どもにその罪を示すために、神の代理として子どもの前に立っているのです。ちょうど大使が祖国のために自らの職務を意識するのと同じであって、両親も子どもに対して神の代理である事実を意識しなければなりません。私はこれほど親を冷静にし、謙遜にさせるものを他に知りません。

 多くの場合、私の憤りや罪深い対応のため、私の子どもたちにゆるしを乞わなければなりませんでした。私はこのように言わなければなりませんでした。「息子よ、私はあなたに対して罪を犯した。私は聖くない怒りをもって語った。私は言うべきでないことを言った。私は間違っていた。神は私に聖なる務めをお与えになったのに、私はこの務めの中に自分の聖くない怒りを持ち込んだ。どうか私をゆるしてくれ。」と。

 訓練とは自分の考えに基づいてあなたを前面に出したり、そうやって子どもに対する怒りをあらわにしたりすることではなく、あなたは神の代理として事に当たり、息子や娘に対していのちの叱責をもたらすことなのだ、と認識することによりあなたのピントは合ってきます。訓練におけるぎりぎりの線が、神の定めた権威への反逆に対する神の不愉快ではなく、子どもの行状に対するあなたの不愉快であるなら、あなたはただ水を濁しているだけなのです。



怒るのではない

 私は、矯正や躾をする場合に怒るのは正統であると純粋に考えている何人もの親と話しました。彼らは怒りを示すことによってのみ子どもを不従順に対する思慮深い恐れに導くことができると考えるのです。それでお父さんか、お母さんが怒りをむき出しにしてじょうずに扱うときに躾は絶好の機会となるというわけです。しかし、子どもたちがここで学ぶのは神への恐れではなく、人への恐れです。

 ヤコブ1章には、親は個人的な怒りをもって矯正のはたらきを強めるべきだという考えの間違いを描いています。



 「私の愛する兄弟たち、このことを注意してほしい。だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神が望まれる義の生活をもたらすことはないからです。」ヤコブ1:19,20



 使徒ヤコブはこれ以上鮮明にはできませんでした。神が望んでおられる義の生活は、制御されていない怒りの産物では決してありません。人の怒りはおそらく子どもがあなたを恐れるように教えるでしょう。彼らはよりよく振る舞うかもしれませんが、それは聖書的な義をもたらすものではありません。

 そのような怒りによって産み出される行状の変化はどれもあなたの子どもを神に対して動かすものではありません。それは神から引き離すものです。それは彼らを、人を恐れるという偶像崇拝の方向に動かします。疑いもなくヤコブは、「愛する兄弟たち、このことを注意してほしい・・・・」と言うことによって強調しています。

 もしあなたが、神が命じておられるからということで子どもたちを懲らしめ、躾ているならば、あなたの怒りによってその働きを乱す必要はありません。懲らしめとは子どもたちの悪事に対して怒りを示すことではありません。それよりむしろ彼らの罪深い振る舞いが神を不愉快にさせるということを覚えさせることです。それは神の王国の人々に罪の非難をもたらすことです。神が王であり、彼らは従わなければならないのです。



子どもへの益

 親は神の名によって、神の代理として子どもに向かいます。子があなたから懲らしめを受けるのは神がお定めになった手段であるからと、あなたは親として子どもに教えることができます。子どもは、自分が懲らしめを受けるのは親がいつも正しいからではなく、懲らしめのむちは知恵を与え、これを注意する者はだれでも分別を示すのだ、と神が言っておられるからだと学びます(箴言15:5と箴言19:15)。

 これらの真理を受け入れる子どもは、懲らしめを受け入れることを学ぶでしょう。私の子どもが十代の後半、そして二十代前半のとき、私が最善のしかたで彼らを懲らしめていたからというのではなく、「訓練を無視する者は自らをさげすむ。しかし矯正を心にとめる者はだれでも悟りを得る。」(箴言15:32)ということを納得しているから私の懲らしめを受け入れているのを見て、私は謙遜にさせられ、驚かされてきました。彼らは自分のお父さんが神の代理であり、神の道に導く権威の任務にあって、神に用いられているということを理解しています。したがって彼らは私が神の働きの完璧な器ではないにもかかわらず懲らしめを受け入れることは、自分を悟りに導くということを知っているのです。





まとめ



  これらの点をはっきり認めることは、神があなたを召しておられる務めをなすときにあなたを力づけ、励ますことができます。あなたは導くようにと神が召しておられるので子どもたちの上に権威をもつ者なのです(創世記18:19)。あなたは神の権威のもとで導きを与えます。あなたの指導する権利は神の権威から出ているのです。あなたはためらったり横暴であったりする必要はありません。あなたは子どもたちに神の道を教えるための神の代理者なのです。あなたは、子どもたちが神の世界の中にあって、被造物としての自分自身を理解するのを助ける神の代理者なのです。あなたは神の恵みとゆるしの必要を示すための神の代理者なのです。あなたは自分の務めのために神が力と知恵をお与えになるように神に目を向けます。

 訓練の役割に関するはっきりとした考えは、神の代理者として、すなわち指導者として神に召された者としての自分を見ることの重要性を明らかにします。



刑罰的なしつけではなく、矯正を目指すしつけ

 もし懲らしめが感情を害された親を中心にまわっているのならば、目指すところは怒りのはけ口、ことによると腹いせです。その作用は刑罰的です。しかし、もし懲らしめがみこころを損ねた神を中心にまわっているならば、目指すところは回復です。その作用はいやしです。その目的は神に背いた子どもたちを従順の道へ引き戻すことにあります。それは矯正なのです。



愛の表現としてのしつけ

 牧師会のコーヒーブレイクの時のことです。私はある人の会話を耳にしました。それは父親たちが自分の子どもについて語っていて、どうしても聞き入ってしまいました。

「私は彼らに手をやいている。」と父親#1が言いました。「私は子どもたちをいつも躾ています。それは本当にしなければならない。家内は子どもたちをあまりにも愛しているのでしつけられないんですよ。」

「あなたと奥さんはある種のバランスをとる必要があると思いますよ。」と父親#2が言いました。

「そうですね。」と父親#1が反省したように続けました。「私たちには躾と愛とのバランスがいくらか必要だと思う。」と。

 私はあやうくドーナツをのどに詰まらせるところでした! 躾と愛のバランスだって? 私は箴言3:12を思い出しました。「父がその喜ぶ子にするように、主は愛する者を訓練する。」 たてつづけに箴言13:24が心の中に入って来ました。「むちを控える者はその子を憎む者である。しかし子を愛する者は訓練するよう気をつける。」 黙示録3:19「わたしは、愛する者を非難し、訓練する。」 躾と愛のバランスをどのようにとるというのでしょうか。躾は愛の表現ではありませんか。

 私が耳にしたこの手の会話はめずらしくはありません。多くの親たちは躾に関する聖書的見解を欠いています。彼らは躾を仕返し、すなわち彼らがやったことに応じて取り扱うものと考えがちです。ヘブル12章は躾というものが刑罰ではなく矯正であることを明らかにしています。ヘブル12章は躾のことを、息子たちに話しかける励ましの言葉だと呼んでいます。躾とは神が私たちの父として、私たちに対して親身になってくださるしるしだと言っています。神は私たちの益のために訓練されます。それは私たちが神の聖さの中で共有し得るものです。それは訓練を受けている間は喜ばしいものではなく、痛みを伴うものであるが、義と平和の収穫を刈り取ると言っています。愛とのバランスを保つための何かではなく、それは愛の深い表現なのです。

 神は訓練とはどういうものかについての理解をお与えになります。その機能はおもに刑罰的ではなく、矯正です。訓練のむちは鬱憤を晴らすためではなく、矯正するためのものです。子どもの訓練は、子どもの死の関係者となることを拒絶することです(箴言19:18 文語訳)。

 何がこの考えをそんなに受け入れづらくするのでしょうか。それが難しいのは先に論じたことのためなのです。私たちは自らを神の代理者として見ることをしません。私たちは、したがって、子どもらがいら立たせるときに彼らを正そうとするのです。彼らの振るまいが私たちをいら立たせなければ、彼らを正そうとはしません。このように私たちの矯正は子どもを危険な道から救うことではなく、むしろ鬱憤晴らしなのです。私たちはこのように言います。「もうお前にはうんざりだ。お前のせいで腹が立つ。お前をたたくか、どなりつけるか、お前のやった悪いことを悟るまで家族から閉め出して椅子に座らせるかしよう。」と。

 これは訓練ではありません。それは処罰です。不敬虔な虐待です。この手の取り扱いは義と平和の実を刈り取るよりも、子どもに不機嫌と怒りを残します。いら立つから子どもに向かうという人の意志に彼らが反抗するからといって、それが不思議なことでしょうか。

 消極的な処罰としての訓練よりも、積極的な指導としての訓練の方が、行状からその結果や結末を除外して考えることがありません。行状の結果や結末は確かに神がご自分の民を懲らしめるためにお用いになるプロセスの一部です。聖書は従順に対する祝福、罪と不従順に伴う滅びを示すために適した結末の力を明らかにしています。このことは後で見ることにしましょう。

 訓練された子どもは親たちにとって喜びであるのは確かです(箴言23:15,16,24)。神の代理者としてあなたは自分の利益や便宜のために訓練するわけにはいきません。あなたの矯正の務めは神のことばの原則と絶対性に結び付けられていなければなりません。訓練の結果は、人格の成長と神敬いです。それは交渉の余地などまったくない神の規範であって、これこそ矯正と訓練を突き動かすものです。

 訓練の目的は子どもに近づくことであって、子どもに敵対することではありません。いのちの叱責と懇願をもって子どもに近づくのです。訓練は正す目的をもっています。それは治癒的であって刑罰的ではありません。成長をもたらすのが目的であって痛みを与えるのが目的ではありません。

 その他、考慮すべき子育ての課題があります。あなたは神の代理者として役割を果たすとはどういうことかということだけではなく、それ以上の理解が必要です。訓練の本質のことだけではなく、それ以上の考慮が必要なのです。親はゴールに向けて導かれなければなりません。次の章では子育てのゴールについて探りたいと思います。子育ての聖書的なゴールは何でしょうか。評価し、取り組むべきものとして、私たちが現代の文化から採り入れているものは何でしょうか。





この章の適用問題

1.親の権威とはどのようなものだと考えますか。それは聖書の見方とどのように一致していますか。

2.子どもを正すあなたの務めはいかにしばしば、突き詰めれば、子どもに対する神の権威を強調するものではなく、対人関係の争いですか。

3.子どもをいのちの道に向けさせる訓練を保つため、あなたは何ができますか。

4.あなたの権威を子どもに対してどのように示していますか。このように言ってはいませんか。「私があなたの父親、母親だ。あなたがここで生活する限り、私たちの言うことを聞かないといけないのだ。」と。

5.訓練に関して、神の代理者としてのあなたの務めをどのように述べることができますか。自らを神の代理者と見ることで、あなたは訓練のしかたをどのように変更するでしょうか。

6.あなたは自分の子どものために自ら進んで次のことを静かに分析する気がありますか。訓練の目的、長所と短所のリスト、長期と短期の目標、子育てのための作戦、など。













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