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第3章



子どもの成長:神に対する姿勢






 学生のころ私は初めてヨットのりを経験しました。私は船の方向を決めるのが風向きではなく、帆の調節によるのを知って非常に驚いたことを思い出します。ある意味で、神に対する姿勢は、子どもの人生における帆の向きのようなものです。日常生活で影響を与えるものがどのようなものであろうと、その影響を与えるものに子どもがどう応答するかは、子どもの神に対する姿勢にかかっているのです。



 箴言9:7〜10は、あざける者と知恵ある者が叱責や戒めに対してどのように反応するかをを対照的に描いています。「あざける者を正そうとする者は誰であれ侮辱を招き、悪者を責める者は誰であれ罵りに会う。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。知恵のある者を導け。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。主への畏れは知恵の初め、聖なる方の知識は悟りである。」と。10節は、子どもがあざける者として反応するか、知恵ある者として反応するかのいずれかを最終的に決めるものが何であるかを私たちが知るように助けています。主への畏れが人を知恵ある者とし、その知恵が、矯正に対して彼がどのように反応するかを決めるのです。







神に対する姿勢



 下の図は、契約的な存在として子どもを描いています。私がこのような描写を用いたのは、人はみな神に対する姿勢をもっているということを思い出させるためです。すべての人はもともと宗教的です。子どもたちは礼拝者です。彼らはエホバか偶像かを礼拝します。彼らは決して中間ではありません。あなたの子どもは宗教の鉄格子を通して人生を経験していくのです。



 ローマ1:18,19は、「神はご自身を明らかにされたので、神について知りうることは彼らに明らかである。それなのに彼らは、自らの邪悪な性質で真理を抑え込んでいる。したがって、そのあらゆる不敬虔と邪悪さに対して神の怒りが天から啓示されているのである。」と言っています。すべての人は神のはっきりとした真理の啓示をもっています。しかし、邪悪な人々は真理を押さえつけます。彼らは神が明らかにされたことを認め、服従するのを拒否します。パウロは続けて、彼らは神を知っているから神をあがめず、その思いはむなしくなり、結局は偶像を礼拝すると言っています。



 ローマ1章のことばによると、あなたの子どもは信仰によって神に応答するか、不義の中で真理を押さえつけるかのどちらかです。彼らが信仰によって神に応答するならば、神を知り、神に仕えることの成就を見ます。彼らが不義のうちに真理を押さえつけるならば、彼らは最終的に創造主ではなく、被造物を礼拝し、それに仕えることになります。私が、神に対する姿勢ということばを使ったときに、そういう意味で言っているのです。







二つの道のどちらか



 図の左上半分は、唯一の真の神を礼拝する人を示しています。神の方に向っている矢印は、その人の心の向きを暗示しています。すなわち神をよりよく知り、仕えたいと思うことです。神からの矢印は、神の子であるこの人に神が導きとお支えをくださることを示します。右下半分は、偶像礼拝にたずさわっている人を示します。彼は神ではないものにひれ伏し、しがたって満足を得ることはできません。



 なるほど小さな子どもは自分の宗教的な行為に気づいていないかもしれません。しかし彼は決して中間的ではないのです。彼は神の似姿に造られ、礼拝する者として造られているのです。小さな子どもとはいえ、彼は神か偶像かを礼拝し、仕えるのです。



 ダビデは私たちにこのことを思い起こさせて、詩篇58:3でこのように言います。「悪者は生まれたときから踏み迷い、母の胎にいるときから曲がっており、偽りを語る。」と。詩篇51:5のことばは、「確かに私は生まれたとき以来罪人であり、母が私をみごもったときから罪深かった。」とさらに詳細です。これらの聖句は非常に教訓的です。胎の中にいる子ども、さらには胎から出てきた子どもでさえも曲がっており、罪深いのです。私たちは、よく人は罪を犯すときに罪人になると教えます。聖書は、人は罪人だから罪を犯すと教えています。あなたの子どもは、胎の中にいるときからでさえ、道徳的に中間状態では決してないのです。



 子どもへのスパンクを正当化できる理由の一つは、「愚かさは子どもの心につながれている。しかし、矯正の杖が彼からこれを遠ざける。」(箴言22:15)という聖句です。この箴言のポイントは、矯正を必要とする子どもの心の中に、何か間違ったものがあるということです。解決策は単に家庭のあり方を変えることではなく、心を取り扱うことです。







心は中間状態ではない



 子どもの中間状態という立場は実際ないわけで、子どもは神か偶像かを礼拝しています。偶像とは、小さな彫像のことではなく、心の中に知らず知らずのうちに据えられるものです。聖書は人への恐れ、悪い願望、貪欲、高慢などの用語を用いています。その偶像には、この世に適合すること、地上的な思いでいること、下にあるものを愛すること、などが含まれます。私たちが心にとめるべきものは、子どもの心を支配しているさまざまな動機、願望、欲求、目当て、望み、期待などです。これらのことは、目に見える形で表れるものではないということを心に留めてください。



 あなたの子どもたちが、その出くわす小さな出来事と作用し合うとき、彼らは一種の神に対する姿勢によって相互作用しています。彼らは、エホバを知り、愛し、仕える信仰の子どもとしていのちに応答するか、あるいはエホバを知りもせず、仕えもしない愚かな、不信仰の子どもとして応答するかのどちらかなのです。彼らは必ず応答するということ、これがポイントです。彼らは中間ではありません。彼らは単に、あなたや私が彼らの内に入れ込んだものの結集品ではありません。彼らは、信仰のまことの契約によってか、不信仰の誤った契約によってかで、いのちとかかわり合うのです。







子どもは何を礼拝するのか



 この問題を明らかにしておくのは絶対に必要です。子育てはよいものを施すだけではありません。また、建設的な家庭の雰囲気とか親子間の積極的な相互関係をただ創造することではありません。それとは別の次元があります。彼らは生ける神と関係をもっています。子どもは神を礼拝し、神に仕え、神はどのようなお方かという理解を深めていくか、もしくは神との関係なしの生活の筋を通そうとするかのどちらかなのです。



 彼が、心の中で神はいないと言うような愚か者として生きているとすれば、このような人は礼拝する存在であることをやめているのではなく、ただ神でないものを礼拝しているだけなのです。親の任務の一つは、礼拝するにふさわしい唯一のお方を指し示しながら、礼拝する被造物としての子どもを牧することです。質問するとすれば、「この子は礼拝するようになるだろうか」ではなく、「この子は何を礼拝するようになるだろうか」です。







子どもを躾ることの意味



 
あなたがこれまで躾について読まれたほとんどの本と違うことを、これから読むことになるでしょう。ほとんどの躾の本は、子どものためによい影響となるものを与えるのに最も効果的な働きがなされるよう、その助けのために書かれています。あらゆる助言や創造的な考えは、子どもが物事に応答し、結果はよくなっていくとの希望の中で、最善かつもっとも聖書的に一貫した影響をもたらすことに注意が注がれています。私はただ生活のための聖書の教えに関してある考えを述べようとしているだけではなく、それ以上に子どもの心のことに及んで、その子を牧することを扱っていきます。



 箴言4:24を思い出してください。人の生(ライフ)は心から湧き出てくるのです。子育ては、ただよい影響を与えるものとしてだけ考えられてはならず、心を牧さなければなりません。人の生(ライフ)は心から出てくるものだからです。



 私は、この世界の中のもっとも小さな戦場、すなわち子どもの心との肉薄戦に取り組んでいる親たちを助けたいと思う者です。あなたは自分の子どもを、神の似姿に造られた被造物として見る必要があります。彼らは生ける神を知り、仕える時にのみ充実と幸福を見出すことができるのです。



 子育てであなたが担う仕事は、図で表した二つの問題とつねに関係しています。あなたは、子どものためにできる限りよい影響を与えたいと思います。家庭は、子どもが必要とする安定と安心を与えるものでありたいと願います。神の恵み、神のご性質が示している落ちぶれた罪人へのあわれみを反映させるために、家庭におけるお互いの関係の質を求めます。聖なる神の罪の見方を反映させるために、割り当てられている適切な処罰をも求めます。自分の家庭には聖書的な価値観を求めます。さまざまな行事で家庭生活が乱雑にならず、よい秩序が保たれるようにそれらをコントロールすることを求めます。子どものために健康的で建設的な雰囲気を与えたいと願うのです。



 これらすべてを申し上げた上で、確かにこれは非常に大切なことですが、それがすべてではありません。あなたの子どもは、単にこれら影響を与えるものの生産物ではありません。彼はこれらすべてに応答するのです。彼は契約的選択の性質にしたがって応答します。彼は神のいつくしみとあわれみに信仰の中で応答するか、不信仰の中で応答するかのいずれかです。彼は生ける神への愛と信頼に成長するか、あるいはより一貫したさまざまな偶像崇拝や自己依存に向かっていくかのいずれかなのです。心に留めていただきたいのは、生活上影響を与えるさまざまなものの性質だけではなく、それら影響となるものの中で彼は神にどのように応答したかということです。



 いのちに対する子どもの応答のしかたを決めるのは、彼の心の神に対する姿勢です。したがって、問題は彼らが成熟していないだけだと結論してはいけません。わがままは脱皮するものではありません。権威に対する反抗は脱皮するものではないのです。なぜなら、それらは未熟をあらわしているものではありませんから。そうではなく、子の心にある偶像崇拝なのです。



 アルバートはうその多い少年でした。彼は父親の後ろでこそこそするのでした。彼は得するわけでもないうそもつくのでした。彼はしばしば親のお金を盗んでいました。父親はその行為を未熟と解釈することに固執していました。未熟ということに関して父親の見方は正しかったでしょう。確かにアルバートは未熟でした。しかし、それが彼の信頼できない理由ではありません。彼が信頼できない理由は、彼が罪人だったということです。アルバートは神抜きの生活で筋を通そうとしていたのです。神の権威に対する反逆という偶像崇拝において、また自らの決定を自分の権威とする偶像崇拝において、彼は信頼できない子どもになったのでした。アルバートのお父さんは、息子の行為が神から逸脱している心の反映だと分かるまで息子を助けることはできませんでした。







神に対する姿勢の重要性



 聖書の記事は、影響を与えるものがすべてではないことをよく物語っています。ヨセフを考えてごらんなさい。彼の子どものころの経験は理想とはかけ離れたものでした。母親は彼の若いうちに死にました。彼は父親のお気に入りでした。彼の夢は兄たちの恨みを買いました。父のくれた長服はヨセフをまるで兄弟たちの権威者であるかのように特別扱いしましたが、彼はそのためにのけ者にされました。兄たちは彼を売り渡しました。彼は穴の中に投げ込まれました。ご都合主義の奴隷売買人はヨセフを売ってもうけようと彼を買いました。ポティファルの家では、彼の忠実、貞潔にもかかわらずひどい取り扱いを受けました。牢屋に入れられました。自分が助けてあげた者からも忘れられてしまいました。このような目にあった人には、怒り、恨み、ひねくれ、苦々しい思いぐらいしか期待できないのではないでしょうか。人というのがただ、まわりの影響力の結集品であるならそれこそが結果だったでしょう。しかし、私たちは何を見るでしょうか。兄たちが地にひれ伏してヨセフにあわれみを乞うたとき、ヨセフが彼らにこう言ったのです。「『恐れてはいけません。私は神の立場に立っているのでしょうか。あなたは私に悪を計りましたが、神はそれを、今行なっておられるように多くの人のいのちを救うという、よいことの計らいとなさいました。だから恐れてはいけません。私はあなたと子どもたちを養いましょう。』 こうして彼は彼らを安心させ、優しく語りかけた。」(創世記50:19〜21)



 ヨセフをどのように説明しますか。困難な状況のただ中で、彼は神に自らをゆだねたのでした。神は彼を、神との生ける関係に基づいて応答をする人につくり上げてくださったのでした。ヨセフは、彼の生活環境上影響を与えるものによってではなく、朽ちることのない神のあわれみの契約と愛の中で神を愛し、自分の行くべき道を見出したのでした。



 ナアマンの奥さんの召使いであった若い娘の場合はどうでしょうか。敵の兵士が彼女をイスラエルの彼女の家から捕らえてきて、アラムの兵士の女中としました。彼女は戦利品の一部だったのです。この娘の人生に影響を与える周りの状況は理想とはかけ離れていました。しかし、彼女はエホバに忠実でした。ご主人様にいやしが必要なときに、この少女は神の力を知っており、それ以上に、イスラエルのどこに預言者がいるのかを知っていました。イスラエルの王は、預言者を知らず、神の力に対する深い信仰を持っていませんでした。王は緊急の事態に直面したとき、恐れと不信仰をもって応答しました(II列王記5:6,7)。この娘はなぜ違うように応答したのでしょうか。明らかに人には、周囲の、影響となるもの以上の何かがあるのです。この娘は、困難な状況下で育ったにもかかわらずエホバへの信仰が与えられ、それが保たれたいい実例なのです。







まとめ



 ポイントはこれです。子どもがどのように成長するかということについては、1) 日常生活で影響を与えるもの、2) 彼らの神に対する姿勢、という二つの要因があるということです。したがって、あなたの子育ては、この二つのことに注意が向けられなければなりません。あなたは影響を与えるさまざまなものを、自分の支配のもと、いかに整理するかよく考えなければいけません(死とか、そういったどうしようもないものもたくさんありますが)。第二にあなたは、子どもの心の神に対する姿勢を積極的に牧していかなければなりません。そして、これらすべてのことにおいて、神が子どもたちに働いてくださって、子どもたちが神を知り、神を敬う人になるように祈らなければなりません。



 図2と3は、親としてのあなたの任務を理解しようと思うとき、導きと方向を与えてくれます。聖書的な影響を与えるものについて考える一方で、あなたは神を知り、仕えるという方向に自分の子どもの心を牧していかなければなりません。



 次の章において私たちは子育ての根本的な問題を吟味しようと思います。親が神の代理人として機能するとはどういうことなのか。あなたの働きはどのようなものか。躾と矯正の役割は何か。











この章からの適用問題



1.子どもを育てるときに、あなたは自分の考えに従って決定論者になりがちですか。子どもが、日常生活で影響を与えるさまざまなものに活発に応答しているのをあなたは見ることができますか。あなたは彼らの応答をどのように見ていますか。



2.自分の子どもの神に対する姿勢をどう考えていますか。彼らの生活や反応は、神を父として、羊飼いとして、主として、主権者として、王として整えられたものですか。それとも、彼らは何かの楽しみや賛同や受諾、あるいは他の偽りの神々のために生きているのがうかがわれますか。



3.子どもたちの心の中に偶像崇拝が見られる場合、相手を引きつけるようなどんなチャレンジの仕方をあなたは持っていますか。



4.子どもを正す時のあなたの考えの中心は何ですか。それを神に対する姿勢というより深い問題にすることができますか。満足のできない事柄に、いかに彼らが熱中しているかを子どもたちが悟るために、あなたはどのように助けることができますか。



5.あなたやあなたの配偶者は、神が子どもたちにご自身をあらわしてくださるように、最終的には神が子どもたちの心の中に何らかの御業を始めてくださるようにと祈りの時を費やしていますか。





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