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第1章
心と行いの関係を知る
生き方をコントロールするものは心であると聖書は教えています。人の生き方は、その人の心を映し出す鏡です。箴言4:23はこのように言っています。「何にもまさってあなたの心を守れ。それが生の源泉だから。」と。
このことば図は絵を見ているようです。心は、あらゆる生の湧き水を外へあふれ出させる井戸です。これは聖書に繰り返し出てくるテーマです。人が外にあらわす行状は、心からあふれ出るものをあらわしているのです。
それはこのように描くことができましょう。心が行状を左右するのです。あなたの言動は、その心の向きをあらわします。マルコ7:21にあるとおりです。「内側から、すなわち人の心から、悪い考え、性的不道徳、盗み、殺人、姦淫、貪欲、恨み、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさが出て来る」 これらの行いと口の悪は、内側、すなわち心から出て来るのです。
子どもたちの言動は、彼らの心の中にあるものを反映しています。
ルカ6:45も確証しています。
「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、
悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。
なぜなら人の口は、心に満ちているものを
話すからです。」
これらの聖句は子育ての任に教訓を与えています。行状は基本的な問題ではないと教えています。基本的な問題はつねに、心で何が起こっているかというところにあるのです。心が生き方をコントロールすることを覚えていてください。
親はしばしば行状という横道にそれています。あなたの訓練の目的が行状を変えることであるなら、どうしてそうなるかが容易に理解できます。あなたは、子どもにとって必要な矯正をするのに、行状に絶えず気を配っています。行状は親をいらいらさせるものなので、そこに注意を向けてしまいます。行状があなたの注意の的になるのです。その容認できない行状を、親の満足するものに変えたときに矯正をしたと考えるのです。
「それのどこが間違いなのですか。」と言われるでしょうか。問題はここにあります。子どもの必要は、その踏み外した行状よりもずっと深いものです。忘れてはいけません。彼の行状は理由なしに生じたものではないのです。子どもの行状、すなわち彼の言動は、その心を反映したものだからです。もし、あなたが本当の意味で子どもを助けたいのなら、その行状を引き起こしている心の態度にかかわっていかなければなりません。
心の変化から生じていない行状の変化は、賞賛に値するものではなく、非難に値するものです。それはイエスが非難されたパリサイ人と同じ偽善者ではないでしょうか。マタイ15章で、イエスは唇では主をあがめるが、心は遠く離れているパリサイ人たちをとがめました。主は、そのような人を、内側は汚れたままなのに器の外側をきれいにする人だと非難されます。しかし、これは子育てで私たちがしばしばしてしまうことなのです。私たちは行状を変えるように子どもに要求しますが、それを産み出している心に注意を向けようとはしません。
それでは矯正と訓練で何をしなければならないのでしょうか。正しいふるまいは要求しなければなりません。神の律法がそれを命じています。その問題を放っておいて満足できるわけがありません。その脇へ逸れた心がいかに悪いふるまいをもたらしたのか、あなた自身理解し、子どもにもそれを分からせなければなりません。しかし、そのようなふるまいが出てくるように、彼の心はどのように道を踏み外したのでしょうか。彼の無能力、あるいは神を知り、信頼し、従うことを拒む心は、どのような特別なしかたで、間違った行いや言葉に導いていったのでしょうか。
よくある例を挙げてみましょう。子どもが二人かそれ以上の家庭における例です。小さい子どもが遊んでいて、一つのおもちゃを取り合っていたとします。典型的な反応は、「はじめは誰が持っていたの?」というものです。この反応は心の問題を無視することです。「はじめは誰が持っていたか?」というのは公正の問題です。公正は、おもちゃをす早く取り寄せた方の子どもを支持するように機能します。もし、私たちがこの状況を心の問題として取り扱うなら、事態は変わってきます。
さて、ここに二人の罪人がいます。どちらの子どもも相手に対するかたくなな心を表しています。どちらもわがままです。どちらの子どももこのように言っています。「君のことなんかどうでもいい。ぼくのことが大事なんだ。ぼくはこのおもちゃがほしいんだ。これがぼくのしあわせの条件なんだ。君にとってそれがどうであろうと、ぼくには関係ない。ぼくがこのおもちゃを取ってしあわせになるの。」
心の問題としてこれを見るとき、二人の罪を犯している子どもを見ます。二人の子どもが互いの要求をぶつけ合っています。二人の子どもが神の律法をやぶっています。たしかにお互いの立場は違います。一人の子がもう一人の子の持っているおもちゃを取ろうとしています。もう一人の子が自分のものを守ろうとしています。立場は違うのですが、「相手を犠牲にしてでも自分の幸せが大事」とする心の問題は同じなのです。
このように心の向きがいかに言動を導くかがお分かりでしょう。それはいつも真理なのです。あらゆる言動は、ある心の向きと結びついているのです。したがって、躾は心の向きに注意を注がなければなりません。
このような理解は、躾のためにおどろくべき結果をもたらします。それはただ言動を問題にするのではなく、心を問題にします。それは、言動を変えさせることよりも、もっと深いところの矯正に焦点をあてるのです。子どもに向かい合うときのポイントは、その子の心の中で何が起こっているかということです。大切な点は、子どもの罪を暴露して、そのことがいかに心のさまよいを表しているか子どもが理解するように助けることです。それがキリストの十字架に導きます。それは救い主の必要を強調します。それは罪の奴隷となっている人々の心を変え、自由にするためにご自分の御子を遣わされた神の栄光を示す絶好の機会を提供するのです。
この強調が、この本の根本的な主張です。すなわち心が生の泉だということです。したがって子育てとは、心を牧することなのです。あなたはその目にする言動から心へと源に戻ることを学ばなければなりません。あなたの子どものために心の問題をあらわにすることです。要するに子どもたちをただしかるだけでなく、引きつけることを学ばなければならないという事です。子どもたちがたましいの渇きをいやそうとして、満足を得られないものを求めていることを彼らが知るように助けてあげなさい。あなたは子どもたちがキリストの十字架をはっきりと見つめることができるように助けてあげなければならないのです。
お伝えしたいのはこのことです。外側の言動というのは心から出てくるものだから、子育てはすべて矯正にしろ、躾にしろ、訓練にしろ、その心に注意を注がなければならないということ。子育ての根本的な役目は、子どもの心を牧することだということです。
これはあなたが親としてするすべてを知らせます。それはあなたの目指すべきところを決定します。それは方法を教えます。それは子どもがどのように発育するべきかというあなたのモデルを形づくります。
この本は子育てのあらゆる面にふれることになります。ご一緒に親の義務を聖書の観点から見ていこうと思います。子どもの成長を吟味します。子育ての目指すべきところに焦点をあてます。躾のさまざまな方法をじっくり考えようと思います。これらすべてのトピックにおいて内容の中心は、心を牧することになるでしょう。
私は単純で、巧みな方法論を持ち出しているわけではありません。問題のない子どもを作るための新しい3ステップ・プランを奨励しているのでもありません。あなたの人生をうまくやっていくために、容易な道を提示しているわけでもありません。私はむしろ、神があなたにお与えになっておられる訓練の任を追及する、新鮮な道をあなたと共に探りたいと思うのです。私は、その任の初心者ではない者として、またひねくれた者に成長していない者として、これらのことを提示します。私は以前にも増してこの働きにエキサイトしているのです。私は希望と確信に満ちています。神は、教会のために私たちを導いて、聖い子孫を私たちの家庭から出すようにすることができるのだと。
私はこの本の原則を理解している家族を知っています。私は、自分自身とその人生に敏感な、幸いで、豊かな子どもを牧している親を知っています。私は最近そのような家庭を訪ねました。その家族は生き生きとしていて、活発でした。家庭はとても楽しい場所だから、ティーンエイジの子どもたちも家にいました。お父さんやお母さんは尊敬されていて、よくアドバイスを求められます。聖書の真理がすべての会話に飛び交います。しかも重苦しい圧力によってではなく、リフレッシュさせ、生き返らせるそよ風のように。この家では、五代にわたって信仰を保ち、六代目は神が人生の土台であり、私たちはその神の光の中に光を見るということを学んでいます。
これらは努力する価値のあるものです。これは犠牲を払う価値のあるビジョンです。
もし、あなたが子育てについての混乱を解決したいと思うなら、聖書に回答を求めなければなりません。聖書はこの働きのために必要なあらゆるカテゴリーと概念を私たちに供給する十分な強健さがあります。私はその事実にゆだねています。教会は長い間、子育ての問題に答えるために聖書的な考えと非聖書的な考えとを織り混ぜようとしてきました。そのできあがった合成品は、苦い実をもたらしました。私たちはこの仕事を聖書的に理解する必要があります。
子どもに影響を与える二つのことを考えながら、自分の子どもを理解する必要があります。
1)子どもと、その子を形づくる生活上の影響との関係。
2)子どもと神との関係。
次の2章では、子どもの発育上のこの二つの舞台を考えてみたいと思います。
この章からの適用問題
1.子どもの躾と矯正において、心を取り扱わなければならない重要性を説明してください。
2.言動が出てくることにおいて、心が中心であることを描きなさい。
3.何よりも心の問題が重要であるということは明らかなのに、どうして行状主義という脇道にそれていきやすいのでしょうか。
4.心を変えることをしないで、言動を変えることは何が間違っていますか。
5.心を導くことが躾のポイントであるならば、躾や矯正の考え方をどのように変えますか。
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