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恵みの手段



ジョ−ジ・ウィットフィ−ルド





彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。エレミヤ6:14




 神が、ある一つの国や民に送ることのできる祝福の中で、忠実で偽りのない、正当な働き人を与えることより大きなものはない。同様に、この世のある一つの民の上に、神が送ることのできるより大きな呪いは、ことによると、盲目で、再生されていず、肉的で、なまぬるい、未熟な指導者に彼らを引き渡すことである。そして、私たちは、今までのあらゆる時代において、多くの羊のなりをした狼たちや、多くの練らないモルタルを塗り付けた者や、神が与えた事よりなめらかな事を預言する者たちが居つづけているのを見い出だすのである。昔がそうであったように今も同じである。神のことばを腐敗させ、それを欺いて取り扱う者が多くいる。預言者エレミヤの時代が特別な仕方においてその様であった。彼は、自分の主に対し、自分を召してくださった神に対し忠実であった。エレミヤはその都度、彼らに対し口を開くのを怠らなかった。また、彼はその都度、神の名において語り、その神の誉れのために尊い証しを支えるのを怠らなかった。もし、あなたが、彼の預言を読むならば、エレミヤほどそのような働き人たちを悪く言った人はいないのをあなたは見い出だすであろう。そして、取り上げられたテキストの、特にこの章で、エレミヤは彼らに向かって非常に激しく語るのである。エレミヤはいくらかの罪について彼らを責めている。彼は特にどん欲について彼らを責めているのである。「なぜなら」とエレミヤは言う、13節、「身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。」と。そして次に、テキストの中の言葉から、エレミヤは、彼らがいかに偽りを行なっているか、いかに哀れな魂に対して不誠実に振舞っているか、独特の方法で例をあげて証しするのである。彼は言う。「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、平安だ、平安だ。』と言っている。」と。預言者は、神の名において、民に対する戦争を宣言し続けていた。エレミヤは、彼らの家は荒れたまま残され、神は、戦争と共にその地を、確かに訪れるであろうことを、伝え続けていたのである。「だから」と彼は言う、11節、「私の身には主の憤りが満ち、これに耐えるのに、私は疲れ果てた。それを、道ばたにいる子どもの上にも、若い男の集りの上にも、ぶちまけよ。夫も妻も、ともどもに、年寄りも齢の満ちた者も共に捕えられ、彼らの家は、畑や妻もろともに、他人のものとなる。それは、わたしが、この国の住民に手を伸ばすからだ。主の御告げ。」と。預言者は、雷のようなメッセ−ジを語っている。それは、彼らが恐れ、いくらかの罪の自覚を持ち、そして、悔い改めに傾くためである。しかし、どうも見るところによると、偽預言者たちや、偽祭司たちが動き回り、人々の罪意識をもみ消していたようである。人々が心打たれたり、多少のおびえを感じたりしていた時、彼らは、その傷を塗り付けるために、「エレミヤは、ただ狂信的説教者であるだけだ。」とか、「だから、彼らの中に、そのような戦争などあるはずがない。」などと告げ、預言者が、『平安がない。』と彼らに告げていた時に、彼らは、人々に、『それでも、平安だ、平安だ。』と言っていたのである。だから、これらの言葉は、おもに対外的な事柄に言及されているのではあるが、私はさらに、たましいのことにも関連づけられていること、したがって、人々が罪の自覚の下にあった時、民らが天に目を向け始めていた時、その罪の自覚をもみ消し、あなたがたは十分善良であった、と告げていたあの偽教師たちについてもこれは言及されているとまことに信じている。そして、事実、ほとんどの民は、そう言ってもらうことを好んだのであった。私たちの心は、ひどく欺きに満ちていて、どうしようもなく悪い。それらが、いかに当てにならないか、永遠の神のほか、誰も知らない。私たちの内どれだけの者が、自分の魂に向かって、平安がない時に、平安だ、平安だ、と叫んだことであろう! どれだけの者が、今、イエス・キリストに関心があるということで、自らへつらい、自分のことを今クリスチャンだと思い、自分たちのかすの上に今、落着いていていることであろう。したがって、もし私たちが、彼らの経験を調べてみるならば、彼らの平安というものが、実は、人間の理解を越えた平安ではなく(それは神が与えた平安ではない。)、悪魔が作り出した平安であることを見い出だすのである。したがって、愛する聴衆者たちよ。それは、自分の心に平安を語っていいのかどうかを知る、きわめて重大な問題なのである。私たちは、みな平安を願う。平安は、言い表わすことのできない祝福なのである。私たちは、平安がなくて、どうして生きることができようか。そういうわけだから、人々は、その都度、自ら、その心に平安を語る前に、自分たちが、あとどれほど進まなければならないか、また、自らの内に何が働かなければならないか、教えてもらわなければならない。私は、神のみ旨の全体を余すところなく伝え、説教した人々の血の責任から自由になることができ、そのようにして、自分のたましいを救い出すこと、これこそが、今ここにおいて私の望むことなのである。私は、テキストの言葉から、あなたがたが、自分の心に平安を語る前に、何を経て、何がその内に働かなければならないか、熱心に示そうと思うのである。



 しかし、直接ここに至る前に、二つほど注意を前置きさせていただきたい。第一に、私は、あなたがたが、宗教とは内面の事柄であることを信じ、またそれを心における働きであり、神の御霊の力によってたましいの内側に働く御業であることを信じていると仮定して、このことを進めていく。あなたがたが、もし、このことを信じていなければ、あなたがたは聖書を信じていない。あなたがたが、もし、このことを信じていなければ、たとえ自分の手に聖書を持っているとはいえ、あなたがたは、心の内で、主イエス・キリストを憎んでいるのである。なぜなら、宗教とは心の内の神の御業であると、聖書のいたる所に主張されているからである。『神の国は、あなたがたのただ中にある』と私たちの主が言われた。そして、「表面的な人は、キリスト者ではなく、内面的な人こそキリスト者である」。もし、あなたがたの中に、宗教を外面的なことと考えている人がいるなら、今朝おそらく、私が、あなたを喜ばせることはないであろう。私が、哀れな罪人の心への神の御業を語るとき、あなたは、それを、私が未知のことばで語るのよりも、理解できないであろう。私は、さらに一つの注意を前置きしようと思う。それは、私が、決して神の働き方を一つに制限しようとしているのではない、ということである。私は、心に安定した平安を持つに至る前に、すべての人が同じ程度の罪の自覚を経るよう強いられなければならない、などと言うつもりはまったくない。否、神は、ご自分の子たちを家に連れ戻すのに、さまざまな方法を持っておられる。彼の神聖な御霊は、好きな時に、好きな所に、好きなように吹くのである。が、しかし、私は、あえてこのことを断言するつもりである。それは、あなたが、自分の心に平安を語れるようになる前に、あなたの罪の自覚が長く続こうが、短かかろうが、あるいは、それが、非常に辛かろうが、比較的穏やかであろうが、あなたは、後に続く説教で、私が、これから語っていくことを経なければならないのである。



 では、まず初めに、あなたがたが、自分の心に平安を語ることができる前に、あなたがたは、神の律法に対する自分の実際の反逆を、見えるようにされ、感じるようにされ、泣くようにされ、嘆くようにされなければならない。行いの契約によると、『罪を犯したたましいは死ななければならない。』のであり、律法の書に書かれているすべてのことを行い続けない者は呪われよ、であった。私たちは、ただ、いくらかを行うことになっているのではなく、すべてを行うことになっている。それも、行い続けるのである。したがって、道徳律法からの最も小さい逸脱は、行いの契約によれば、それが、思いにしろ、言葉にしろ、行為にしろ、神の御手の内に、永遠の死をもたらすのである。それでは、もし、一つの邪悪な思い、あるいは、一つの邪悪な言葉、あるいは、一つの邪悪な行動が、永遠の刑罰をもたらすとするならば、私の友よ、私たちひとりひとりの生活全体が、神に対する反逆の連続であり続けるのだから、私たちは一体どれほどの地獄を、もたらしていることであろう! したがって、あなたがたが、自分の心に平安を語ることができるようになる前に、あなたがたは、生ける神から離れることが、どれほど恐ろしいことであるのかが、見えるようにされ、信じるようにされなければならない。さあ、わが愛する友よ、あなたの心を吟味せよ。私はあなたが、自分のたましいをよりよい状態にするために、こちらの方へ来ることを願っている。私に、神の御前で、あなたに質問させていただきたい。あなたは時を心得ているだろうか。もし時というものを正しく心得ていないのであれば、あなたは、神があなたに対して厳しいことを書かれた時、全能者の矢があなたの内にあった時をご存知だろうか。あなたの罪の思い出は、あなたにとって悲しみだろうか。あなたの罪の重荷は、あなたの思いに耐えないだろうか。神に対するあなたの実際の罪のために、神の怒りが正しくもあなたの上に落ちかかっているのを見たことがないのだろうか。あなたは生まれてこのかた、罪のために悲しんだことがないのだろうか。私の罪は、私が耐えることもできない重荷となって、私の頭にふりかかる、とあなたは言ったことがないのだろうか。あなたは、このようなことを何ら経験したことがないのだろうか。神とあなたのたましいとの間を、このような思いが横切ったことはないのだろうか。もしないなら、イエス・キリストのために、自分をクリスチャンだと呼んではならない。あなたは自分の心に平安を語ることもできるだろう。しかし、そこには何の平安もない。あなたが家に帰る前に、みこころであるならば、主があなたを目覚めさせてくださるように。主があなたを回心させてくださるように。主があなたに平安をお与えくださるように!


 しかし、さらに言うと、あなたは自分の実際の罪を自覚し、震え上がるかもしれない。しかし、それでもあなたはイエス・キリストにとって、あかの他人かもしれず、あなたの心に本当の恵みの働きを持たないかもしれないのである。さらに、あなたが、自分の心に平安を語ることができるようになる前に、自覚はもっと深まらなければならない。あなたは、ただ単に、神の律法に対するあなたの実際の反逆を自覚するだけではなく、あなたのあらゆる反逆のもとを自覚しなければならない。それは何か。原罪のことである。私たちを、神の怒りと地獄の刑罰を免れ得ないものとする、私たちが世に生まれると同時にもって来た、もともとの腐敗のことである。原罪などというものはない、とあつかましく言いながら、自分たちは健全な理性の持ち主だと考えるたくさんの愚かなたましいがいる。彼らは、アダムの罪をわれわれに負わせるのは不当だと言って神を非難する。自分たちが獣と悪魔のしるしを身におびていようと、罪の中で生まれた者ではないと彼らは主張するのである。彼らにはこの世を見渡してもらい、その混乱を見ていただこう。そして、可能なら、ここが、神がかつて人を置かれたあのパラダイスかどうか考えていただこうではないか。いや、違う! この世のあらゆるものが秩序を失っている。私は外出している時、よく考えることだが、たとえ原罪を証明する論証が何もなくとも、狼やトラが人を襲ったり、犬が私たちに吠えかかってきたりするのは、原罪を立証するものだと。アダムの最初の罪がなければ、トラやライオンが私たちに襲いかかることはない。というのは、自然界のものが私たちに向かっていきり立つ時、それはあたかも、お前たちは神に対して罪を犯した、われわれはご主人さまの憤りを肩代わりするのだ、と言っているかのようである。私たちの目を内側に向けると、そこにはあらゆる欲望を見る。神の気質に反する人間の気質を見る。私たちの心の中には、うぬぼれ、恨み、復讐心などがある。これらの気質が神から来ることはあり得ない。それは神のもとから悪魔のもとへと堕落した私たちの最初の先祖から、その堕落の後に来たものである。したがって、ある人々がいくらこのことを否定したところで、悟りがやって来ると、あらゆる肉の屁理屈はたちまち打ち壊され、あわれなたましいは、このすべての汚染が流れ出てくる源を感じ始め、見始めるのである。罪人が目覚め始める時、彼は、私はどうしてこのように悪くなったのだろう、と不審に思い始める。それから神の御霊が割り込んで来られ、彼のうちには生来何の善きものもないことを示される。こうして彼は、自分がまったく道を外しており、まったく忌むべきものになり果てており、そのあわれな被造物は神の御座の足もとに横たわるようにされており、たとえ自分が生まれてこのかた実際の罪を一度も犯したことがなくとも、神が自分を地獄に落すことは正しく、自分を切り捨てることは正しいと認めなければならないことを悟るのである。あなたは、たとえあなたが一生涯、実際に神を怒らせたことがなくとも、あなたは生まれながらに怒りの子であり、神があなたを切り捨てるのは正しいのだと、あなたが地獄に落ちるのは正しいことだと感じたり、このようなことを経験したことがあるだろうか。もしもあなたがまことに悟らされているなら、もしもあなたの心がまことに引き裂かれているなら、もしも自我があなたから取り去られているなら、あなたはこのことを見、また感ずるようにされるだろう。しかし、もしもあなたが原罪の重みを感じたことがないなら、自分をクリスチャンだと名乗ってはならない。私は、原罪が本当に回心した者にとって大きな重荷であることをまことに確信させられる。これは再生したたましい、聖化されたたましいを嘆かせている。心に宿る罪は回心した者の重荷である。彼はこのような叫び声を上げつづける。「ああ! だれが私をこの死のからだ、この心に宿る腐敗から救い出してくれるのだろう。」と。これは、あわれなたましいをもっともかき乱すものである。したがって、もしもあなたがこの内側の腐敗をまったく感じたことがないなら、その腐敗のゆえに神はあなたを正当に呪われることをまったく見てとれないなら、実に、わが友よ、あなたは自分の心に平安を語るかもしれないが、そこにはまことの平安などないのではないかと私は恐れる。いや、そこにはまことの平安はないことを私は知っている。


 さらに言おう。あなたが自分の心に平安を語れるようになる前に、単にあなたの生活の罪や、あなたの性質の罪のことで悩まなければならないばかりではなく、あなたの最高の行いやつとめの罪のためにも同じように悩まなければならない。あわれなたましいが主の恐ろしさによって、幾分目覚めさせられるとき、行いの契約のもとに生まれついているあわれな被造物は、再び行いの契約へと直行する。アダムとエバが、園の木々の間に身を隠し、自分たちの裸を覆うためにいちぢくの葉を縫い合わせたように、あわれな罪人は、目覚めさせられる時、神から隠れるために自分の行いや務めに飛んで行き、自分自身の義につぎ当てをしようとする。そしてこう言う。「私は改革され、今に大した善人になるから、できることは何でもするつもりだ。そうしたら、イエス・キリストは確かに私をあわれんでくださるだろう。」と。しかし、あなたが自分の心に平安を語ることのできる前に、今までささげた最高の祈りのためにも神はあなたを地獄に落とすことがおできになることを見るようにされなければならない。あなたは自分のすべてのつとめ --- 預言者が見事に言い表しているように --- あなたのすべての義は、それを全部掻き集めても、自分を神に推薦するどころか、神があわれなあなたのたましいをあわれむようにする何かのきっかけ、誘引となるどころか、神はそれらを、ご自身の忌み嫌う汚れたぼろ布、月もの用の布切れと見られる。だから、あなたが神の恵みのために自分を推薦しようとそれらを携えて来ても、それを無くすことはできない。私の親愛なる友よ、私たちの行いの中に自分を神に推薦する何があると言うのか。私たちの人格は生まれながらに不義の状態にあり、一万回以上も地獄に落とされるに値するというのに、その行いはいかなるものでなければならないだろうか。私たちは生まれつき何の善いことも行えない。つまり「肉にある者らは神を喜ばせることができない。」のである。あなたは形としては善を行うことができるかもしれない。しかし、正式に、正しく善を行うことはできない。なぜなら性質はそれ以上のことはできないからである。回心していない人が、神の栄光のために何かを行うことは不可能である。その人は、信仰をもって何かを行うことなど決してできない。そして「何であれ信仰から出ていないものは罪である。」 私たちは新しくされた後、新しくされてはいるが、それは完全にではない。内に宿る罪が私たちの内に残るのである。私たちの行いのどれをとっても、そこには腐敗が混じっている。したがって、回心後に、イエス・キリストはただ行いによってだけ私たちを受け入れたもうのであれば、私たちの行いは私たちを地獄に落とすことになるだろう。なぜなら、私たちは祈りの一つもささげることができず、私たちの行いは道徳律法の要求する完全さからはかけ離れているからである。あなたはどう思うか知らないが、私は、罪を犯さずに祈ることはできない、罪を犯さずにあなたや他の人に説教することはできない、私は罪を犯さずには何もできない、と言うことができる。ある人がそのことをこう表現しているとおりである。「私の悔い改めは、悔い改めさせてもらうことを欲している。私の涙は愛する贖い主の貴い血で洗われることを欲している。」と。私たちの最高の行いは、きわめて多くの、正真正銘の罪である。あなたが自分の心に平安を語ることができる前に、あなたはただ自分の原罪や実際の罪にうんざりさせられるだけではなく、あなたの義、あなたのあらゆる行いやつとめにうんざりさせられなければならない。あなたが自分の義から導き出され得る前に、深い自覚がなければならない。それは私たちの心から取り除かれる最後の偶像である。私たちの心のうぬぼれは、イエス・キリストの義に服するのをよしとしない。しかし、もしもあなたが自分自身は何の義も持ってはいないと感じたことがないのならば、もしも自分の義が不足していると感じたことがないのならば、あなたはイエス・キリストに来ることはできない。「はい、私たちはこれをみんな信じていますよ。」と、今は非常に多くの人が言うかもしれない。しかし、語ることと感じることには大きな違いがある。あなたは愛する贖い主の望みを感じたことがあるだろうか。あなたの義の不足のために、イエス・キリストの望みを感じたことがあるだろうか。あなたは今、心から「主よ、あなたは私が今まで行った最高のつとめのためにも、私を地獄に正当に落とすことができます。」と言うことができるだろうか。もしも、このように自分自身から救い出されていないならば、あなたは自分自身に平安を語るかもしれないが、そこには一つも平安はない。



  しかし、あなたが自分のたましいに平安を語ることができる前に、大いに悩まなければならない一つの特別な罪があなたにはある。しかし、それが何かを考えるのは、あなたがたの中で、ほんのわずかの人しかいないのではないかと私は恐れている。それはキリスト教世界を支配し、これを滅ぼしつつある罪であるのに、キリスト教世界ではそのことをほとんど、あるいは決して考えない。それは何か。それはあなたがたのうち、ほとんどの者が自分はそれについて有罪だとは思っていないものである。それは不信仰の罪である。あなたが自分の心に平安を語ることができるようになる前に、自分の心の不信仰に悩むようにされなければならない。しかし、あなたがたはみな、この教会の敷地内にいながら、このスコットランドに、改革された地に生まれながら、毎安息日ごとに教会に通いながら、不信者であると想像できるだろうか。年に一度、聖餐を受けるあなたがた、ああ、それはもっと頻繁に施行されていたのではないのか! 聖餐を受けるためのしるしをもっているあなたがた、家族の祈りの時を守るあなたがた、そのあなたがたのうちの誰かは主イエス・キリストを信じていないと想像できるだろうか。あなたがたが私のことを無慈悲な人間だと思いたくなければ、私があなたがたの中の誰かをキリストを信じているかどうか疑うなら、私はあなたがたの心に訴える。しかし、よくよく調べると、あなたがたのほとんどが悪魔ほどにも主イエス・キリストにある信仰を持っていないことが明らかになるのではないかと私は恐れている。悪魔は私たちのほとんどが信じる以上に聖書を信じている、と私は確信している。悪魔はイエス・キリストの神性を信じている。それは多くの自称クリスチャンのそれよりまさっている。いやむしろ、彼は信じて震えあがっている。これは私たちの中の何千人もの人々以上にそうである。わが友よ、私たちは史実に関する信仰を、神の御霊によって心の中に働いたまことの信仰と勘違いするようなものである。あなたは、私たちが聖書と呼んでいるような本があると信じるから、また教会に行くから自分は信じていると夢想している。あなたはまことのキリスト信仰を持たず、このようなことをみな行うかもしれないのだ。単にキリストなる人物がいたと信じることや、単に聖書という書物があると信じることなどは、カイザルやアレキサンダー大王などという人が存在したのを信じるという以上に益を与えることはない。聖書は神聖なことの宝庫である。このような生きた神託のために、私たちはどんなに神に感謝しなければならないことだろう! しかし、こういうものを持ちながら、私たちは主イエス・キリストを信じていないかもしれないのだ。わが愛する友よ、そこには生ける神の御霊によって心の中に働く原理がなければならない。私はあなたがイエス・キリストを信じてからどれくらい経ったか聞いただろうか。おそらくあなたがたのほとんどが物心ついた頃からイエス・キリストを信じていると言うだろう。あなたがたは決して異教徒の信仰を信じたことはなかった。それであなたがたは母の胎にあるころから、そのように早くから聖められていたのでない限り、イエス・キリストを確かに信じてきたことのはっきりとした証拠を示すことができない。というのは、キリストを違ったしかたで信じる者は、イエス・キリストを信じなかった時があったことを知っているからである。あなたがたは心を尽くし、力を尽くして神を愛しているという。いつ頃から神を愛しているのかと私が聞くと、おぼえていないとあなたは言うだろう。あなたは決して神を憎んだことはなかったし、心の中に神に対する敵意があったおぼえがない。だから非常に早くから聖められていたのでない限り、あなたは神を決して愛さなかっただろう。わが愛する友よ、これはもっとも欺きに満ちた惑わしであり、これによって非常にたくさんの人が自分はもうすでに信じていると思わされているので、私はこのことに特に入念になっているのである。こういうわけで、マーシャル氏の経験に関する報告がこのようになされている。「彼はいのちのために労してきた。そして彼は十戒に照らして彼のあらゆる罪を列挙し、それからある牧師のところに行き、自分がなぜ平安が得られないか尋ねた。その牧師は彼の目録を見て言った。『行きなさい。私はあなたの目録の中に不信仰の罪という一語を見ない。』と。」 私は信仰を持っていない、との不信仰の罪の自覚を与えるのは神の御霊の特別な働きである。イエス・キリストは言われる。「わたしは慰め主を遣わす。その方が来られると、(不信仰の)罪について、世にその誤りを認めさせる。」と。キリストは「罪についてとは」と言われる。「彼らが私を信じないからである」と。さて、わが愛する友よ、神はあなたが信仰をまったく持っていなかったことを今までに示されただろうか。あなたは不信仰という頑なな心を嘆き悲しむようにされているだろうか。「主よ、信仰をください。主よ、あなたを捉えさせてください。主よ、あなたをわが主、わが神と呼ばせてください。」というのが、あなたの心のことばとなっているだろうか。イエス・キリストはこのような自覚をあなたにお与えになっただろうか。彼はあなたがキリストと一つになるにはまったくの無能力であることを悟らせておられるだろうか。そして、信仰をくださいとあなたが神に叫ぶようにしてくださっているだろうか。もしもそうでないなら、自分の心に平安を語ってはならない。願わくば主が、あなたが死んでいなくなる前に、あなたを目覚めさせ、あなたにまことの、強固な平安をお与えになるように。


 さらに言おう。あなたが自分の心に平安を語れるようになる前に、ただ実際の罪や、原罪や、自分の義という罪や、不信仰の罪を自覚するばかりでなく、主イエス・キリストの完全な義、十全なる義をしっかりつかむ者とされなければならない。信仰によってイエス・キリストの義をしっかりつかまなければならない。そうしてあなたは平安を持つようになる。「すべて疲れはてた者、重荷を負う者はわたしに来なさい。わたしがあなたに安息を与えよう。」とイエスは言われる。これは、すべて疲れはてた者、重荷を負うものに対する励ましのことばではあるが、安息の約束は主に来る人、主を信じる人、主を自分の神、自分のすべてとする人に対して結ばれている。私たちが神との平和を持つようになる前に、われらの主イエス・キリストをとおして、信仰によって義とされなければならず、キリストを自分の心に適用できるようにされなければならず、キリストの義が私たちの義となるように、彼の功績が私たちのたましいに転嫁されるように、キリストをたましいでしかと悟らなければならない。わが愛する友よ。あなたはキリストに結びついているだろうか。キリストは、ご自身をあなたに与えておられるだろうか。あなたは、自分の心でキリストを感ずることができるように、彼があなたのたましいに平安を語ってくださるのを聞くために、生き生きとした信仰によって、キリストの近くにいるだろうか。平安はあなたの心に川のように流れ込んでいるだろうか。キリストが弟子たちに語られたあの平安をあなたも感じているだろうか。キリストが来られて、あなたに平安を語ってくださるように私は神に祈ろう。あなたはこれらのことを経験しなければならない。私は今、目に見えない、別の世界の実体について、内なる宗教について、あわれな罪人の心に対する神の御業について語っているのである。私は今、非常に重要な問題について語っているのである。わが愛する聴衆者よ、あなたがたは皆、そのことに関係している。あなたがたのたましいはそのことに関係している。あなたがたの永遠の救いはそのことに関係しているのだ。あなたがたは皆、安んじているかもしれない。しかし、あなたがたが肉的眠気と安心感に気づかないように、恐らく悪魔があなたがたを安心させているのである。そして悪魔は、あなたが地獄に落ちるまで、あなたをそこにとどめて置くように手を尽くすだろう。あなたはそこで目覚めるだろう。しかし、そこに大いなる淵があり、自分の舌を冷やすために一滴の水を求めるが永久にそれを得られないのを見るとき、あなたはその目覚めは恐ろしいものであり、自分が恐ろしく間違ってしまったことを知るであろう。


 だから、ある部類の人々に対して語ることをお許しいただきたい。ああ、神がご自身の無限のあわれみにより、この適用を祝してくださるように! あなたがたの中には、神の恵みによって、あなたに従っていくことができると言える人がいるかもしれない。神がほめたたえられるように。私たちは自分の実際の罪を自覚させられており、原罪について自覚させられており、自己の義について自覚させられており、不信仰の苦々しさを感じている。そしてついに恵みを通してイエス・キリストに結びついた。私たちは今こそ自分の心に平安を語ることができる。神が私たちに平安を語ってくださるからである。あなたはこのように言えるだろうか。そうであるなら、私は、あの週の初めの日に御使いたちが女たちにしたように、あなたと祝福のあいさつを交わそう。わが愛する友よ、恐れるな。あなたは幸いなたましいである。あなたは横たわり、実際平安でいることができる。神があなたに平安を与えてくださったのだから。今では、あなたのたましいに対する神の愛の結果以外は何事も起こらないのであるから、あなたは摂理のあらゆる配分のもとで満足することができるだろう。内に平安があるのを見るのだから、外にいかなる争いがあろうと恐れる必要はない。あなたはキリストとすでに結びついているだろうか。神はあなたの友だろうか。キリストはあなたの友だろうか。そうであるならば、安心して顔を上げよ。すべてはあなたのものであり、あなたはキリストのもの、キリストは神のものである。すべてのことは合い働いてあなたの益となる。あなたの髪の毛すら数えられている。あなたに触れる方が神の瞳に触れられる。しかし、わが愛する友よ、あなたの最初の回心で安心してしまわないように気をつけなさい。キリストにある初信の者たちよ、あなたがたは主イエス・キリストのことで絶えず新鮮な発見があるように探し求めなければならない。過去の体験に寄り頼んではならない。あなたがたの心の中の動きに寄り頼んではならない。いつも自分の外に、あなたの外にある、イエス・キリストのあの義に出て来なければならない。あなたは救いの井戸の水を汲むために、いつもあわれな罪人として来なければならない。後ろのものを忘れ、絶えず前のものに向かって進まなければならない。わが愛する友よ、あなたは愛をもって、主イエス・キリストとともに近く歩みつづけなければならない。私たちの中の多くの者が、そのような歩みを欠いているために平安をなくしている。何かがキリストと私たちの間に入り込み、私たちは暗闇に落ち込むのだ。何かが私たちの心を神から奪い去るのだ。これは聖霊を悲しませ、聖霊は私たちを放っておかれるのだ。だから神との平和をすでに得たあなたに、この平和を失うことのないようにと勧告させていただきたい。あなたが一旦キリストのうちにあるものとなるなら、最終的に神から離れ落ちることはないというのは真理である。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることはない。」 しかし、最終的に離れ落ちることはないとしても、堕落して一生の間、骨が折れた状態で過ごすことがあり得る。イエス・キリストのために信仰後退に気をつけなさい。聖霊を悲しませないように。あなたは生きる間、決して自分の慰めを回復できないかもしれない。ああ、イエス・キリストに結びついた後、神から迷い出たり、ぶらついたりしないように気をつけなさい。わが愛する友よ、私は信仰後退者に心を注いできた。私たちの心には呪いに値する悪さがある。もしも注意を怠るなら、絶えず見張ることをしないなら、その邪悪な心はあなたを欺き、あなたを脇へ逸らさせるだろう。ヨブやダビデや聖書の中の他の聖徒たちの証しに見るように、矯正の父の懲罰の下にあるのは悲しいことである。だから、平安を受けたあなたがたに勧告させていただきたい。キリストに寄り添った歩みを大切にするように。私は、クリスチャンでありながら、イエス・キリストを見出した者でありながら、締まりのない歩み方をしているのを悲しむ者である。彼らと他の人々との間にはあまり違いは見られず、どちらがまことのクリスチャンか私にはほとんどわからない。クリスチャンたちは神のために語ることを恐れている。彼らはまわりに流されて行くのである。彼らは世の友のところに来ると、自分がまるで世のものであるかのように世のことを語る。あなたが、最初にキリストの愛を見出したときは、そのようなことをしようとは思わなかった。主のともし火があなたのたましいに輝いていたときは、キリストの愛について永久に語ることができると思えた。愛する主のために語ることをもっていた頃は、そのような時が続いた。しかし、今やあなたは友のところに入って行って、他の人がこの世の事を大胆に語るのを聞いていられる。そしてあなたはイエス・キリストのために語って笑われることを恐れている。もっとも悪い意味でだが、今や非常に多くの人が順応者を育てた。彼らは教会の儀式に対して反対の声を上げるだろう。彼らはそれを正しい思いで行うかもしれない。しかし、あなたは自分の行いの儀式は強く好んでいる。あなたは非常に悪いことに、世に順応するであろう。それはさらに悪いことである。多くの人は悪魔が新しい様式を育て上げるまでは、そのままでいるだろう。だから、この世にはめ込まれないように気をつけなさい。クリスチャンはこの世とどんな関係があるだろうか。クリスチャンはイエスとともにいることが周りの人にわかるほど、目立って善良であるべきで、主のために大胆であるべきである。私は神があなたの心に宿りつづけてくださるために、あなたがイエス・キリストのうちにしっかり宿るよう勧告したい。 私たちは、自分が神のものであることを知り、聖霊の慰めのうちに歩み、徳が建て上げられるために確信の伴う信仰へと成長すべきである。今やイエス・キリストは、その友の家でひどく傷つけられている。私がこのように厳しくあることを許していただきたい。それは、わが友よ、イエス・キリストがその敵によってより、ご自分の友によって傷つけられているのは、私にとって嘆きだからである。私たちは理神論者からは何も期待できない。しかし、キリストの力を味わった人が道を外し、召された召しにふさわしく歩まないとき、私たちはこのようなことで、異教徒の間で物笑いの種となり、主の宗教に不名誉を来たらすのである。キリストを知っているのなら、キリストのために彼に近くいつづけよ。神が平安を語られたのなら、ああ、絶えずイエス・キリストを見上げて平安を保つように。神との平和を得たならば、試練の中にあったとしても恐れるな。すべてはあなたの益となる。誘惑に遇っても恐れるな。彼があなたの心に平安を語られたなら、すべてはあなたの益となるのだ。


 しかし、神との平和を持たないあなたに、私は何と言ったらいいのだろう。もしかしたら、この会衆のほとんどがそうなのかもしれない。それを思うと泣かずにはいれない。あなたがたの大部分が、自分の心を探ってみるなら、神は決して平安を語っておられないことを告白しなければならない。キリストがあなたがたのうちにおられず、神があなたがたの心に平安を語っておられないなら、あなたがたは悪魔の子だ。あわれな魂よ! おまえは何という呪わるべき状態にいることか。私があなただったら、一万の世界をもらってもそのようにはしない。なぜか。それは、あなたが丁度、地獄の上につるされているからだ。神があなたの敵で、神の怒りがあなたのあわれな魂の上にとどまっている時に、どのような平安を持てるというのか。だから、目覚めよ。偽りの平安の中で眠っている者よ。目覚めよ。肉的信仰告白者たち。教会に通い、聖餐に与かり、聖書を読むが、自分の心に決して神の力を感じたことのない偽善者たち。形式的な信仰告白者。バプテスマを受けた異教徒よ。目覚めよ。目覚めよ。偽りの土台に安住するな。私が自分自身のことを述べたとて非難しないでいただきたいが、本当にこれはあなたがたのたましいに対する愛から出ているのである。私はあなたがたが自分のソドムの中でぐずぐずして、そこに留まることを望んでいるかに見える。しかし、私は御使いがトロにしたように、手をとってあなたを連れ出すために来ているのである。ためらわずに来なさい。愛する兄弟よ。飛んでゆけ、飛んでゆけ。自分のいのちのためにイエス・キリストに飛んでゆけ。血のしたたる神に飛んでゆけ。恵みの御座に飛んでゆけ。神があなたがたの心を砕いてくださるように請え。神があなたがたの実際の罪を自覚させてくださるように請え。神があなたがたの原罪を悟らせてくださるように請え。神があなたがたの独善を悟らせてくださるように請え。神があなたがたに信仰を与えてくださり、あなたがたがイエス・キリストに近づくことができるように請え。ああ。安心しきっている者よ。私は、あなたに対して雷の子でなければならない。ああ、神が、雷によってでもいいから、あなたがたを目覚めさせてくださるように。私があなたがたに語るのは、本当に愛によるのだ。私は偽りの平安をもって安眠するのがどんなことか悲しい経験によって知っている。私は、主イエス・キリストについて何も知らなかったときも、長い間、安心しきって眠っていた。長い間、私は自分をクリスチャンだと思っていた。私は、おそらくあなたがたの多くの人よりも光に進んでいたと思う。私はかつて週に二度断食し、時には一日に九度祈り、毎週決まってサクラメント(聖餐)にあずかった。しかし、私は心の中でイエス・キリストのことを何も知らなかった。私は新しく造られた者となる必要を知らなかった。たましいの中の、内なる宗教については何も知らなかった。そして、おそらく、あなたがたのうち多くの者が、ちょうど私があわれな被造物であったように、欺かれているかもしれない。そして、そういうわけだから、私は本当にあながたへの愛の心から語っているのである。ああ、あなたが気をつけないなら、宗教の形態はあなたのたましいを滅ぼすだろう。その中に安住しながら、まったくキリストに来ないということになろう。ところが実際これらのことは、宗教の手段にすぎず、目的ではない。キリストは信じるすべての者が義となるための、律法の終わりである。ああ、だから自分の陰に安住している者たちよ、目覚めよ。教会の教師たちよ、目覚めよ。生活のための称号をもち、富んでいて足りない物は何もないと思い、自分は貧しく、盲目で、裸だとは思わない者たちよ、目覚めよ。私はあなたに忠告する。イエス・キリストに来て、黄金を、白い衣を、目のための薬を買うように。しかし、いくらかなりとも傷つけられた人が何人かいるのではないかと私は期待している。神は私がむなしく説教するようにしてはおられないだろうと思っている。神はあなたがたの尊いたましいに御手をのばしてくださり、あなたがたの肉的な安心から幾人かを目覚めさせてくださるのではないかと期待している。あなたがたの中にはキリストのもとに来たいと心から望んでおり、自分が偽りの土台の上に建て上げていたことを考え始めている人がいるのではないか期待している。もしかするとサタンは割り込んで来て、あわれみに絶望するように誘うかもしれない。しかし、恐れてはならない。私が語ってきたことは、ただあなたに対する愛から出ているのであり、あなたをただ目覚めさせるためであり、あなたに危険を悟らせるためなのである。あなたがたの中の誰かが、神と和解したいと望んでいるなら、父なる神、御子、聖霊は、喜んであなたと和解してくださるのだ。ああ、だから、いまだ何の平安も持たなくとも、イエス・キリストに来なさい。彼こそ私たちの平和、彼こそ私たちの、平和をつくる者、神と罪を犯した者との間に平和をつくり出してくださったお方なのだ。あなたは神との平和をもちたいと望むだろうか。だからためらわず、平和を買い取ってくださったイエス・キリストを通して、神のもとに行くがよい。このために主イエスはご自分の血を流してくださった。このために死んでくださった。このためによみがえられた。彼はもっとも高い天に上げられ、神の右側で今とりなしておられる。もしかしたら、あなたは自分には何の平安もないと思っているかもしれない。なぜそうなのか。自分が罪人だからか。キリストを十字架につけたからか。キリストをさらしものとしたからか。神の子の血を足で踏みにじったからか。それが何だというのだ。それでもあなたのために平安がある。あの週の初めの日、イエス・キリストは弟子たちのところに来て何と言われただろうか。その最初のことばは「平安なんじらにあれ」であった。主は彼らに手と脇腹を見せて言われた。「平安なんじらにあれ。」と。あたかもこう言われたかのようである。「恐れるな。わたしの弟子たちよ。わたしの手と足を見なさい。いかにあなたがたのために刺し貫かれたことか。」と。だから恐れてはならない。キリストは弟子たちにどのように語られたか。「行って、わたしの兄弟たちに告げなさい。特に心くず折れたペテロに、キリストはよみがえられ、ご自分の父でありあなたがたの父のもとに、ご自分の神でありあなたがたの神のもとに上げられます、と告げなさい。」と。そしてキリストは死からよみがえられた後、ノアの鳩のように平和というオリーブの枝をもって来られ、平安を説かれた。「わたしの平安をあなたがたに残します。」と。彼らはどういう者だっただろうか。彼らは私たちと同じくキリストの敵であった。私たちと同じく一度はキリストを否定する者だった。おそらく、あなたがたのある者は信仰後退してしまって、平安を失い、自分はどんな平安にも値しないと考え、それ以上なにもしていないかもしれない。しかし、それでも神はあなたの信仰後退をいやし、あなたを自由に愛してくださるだろう。傷をうけたあなたがたに関して言うならば、もしあなたがたがキリストのもとに来たいという思いにさせられているなら、ためらわずに来なさい。もしかしたら、あなたがたのある人は、腐ったぼろぎれに過ぎない自分の行いで自らを装いたいと思っているかもしれない。そうではない。あなたは自分のぼろぎれを捨て去らなければならない。ありのまま、裸のままで来るべきである。「私たちはそうしたいのです。でも心がかたくなで・・・。」とある人たちは言うかもしれない。しかし、あなたがたはキリストに来るまで心がやわらかくされることは決してない。彼こそが石の心を取り除き、あなたがたに肉の心をお与えになるのである。彼こそが、あなたがたのたましいに平安を語ってくださるのである。あなたがたは彼を売り渡した者であろうと、それでも彼はあなたがたの平安となるべきお方なのである。この朝、私はあなたがたの誰かをキリストに来るよう説得できるだろうか。ここには非常におびただしい数のたましいが集っている。どうしてあなたがたみなが、あっけなく死んで裁きに至ってよかろうか! あなたがたの中のある人は、夜が来る前に、あるいは明日の夜が来る前に教会墓地に葬られるかもしれない。もし神との平和をもっていないとすれば、主イエス・キリストがあなたの心に平安を語っておられないとすれば、あなたはどうするつもりなのか。神が今ここで平安を語っておられないとすれば、あなたは永久に地獄に落ちるだろう。私はあなたにこびへつらうわけにはいかない。愛する友よ。私はあなたがたのたましいを真心をこめて取り扱おうと思う。あなたがたの中のある人は、私が事をあまりにもおおげさにしていると思っている。しかし、あなたがたが裁きに至るとき、永遠の刑罰に至ろうと、永遠の慰めに至ろうと、私の語っていることが真理であることをまことに知るだろう。あなたがたがキリストに来るよう、神がその心を動かしてくださるように! 私はあなたがたを説得するまでここを去りたくない。私にはできないが、神は、あなたがたのある人が主イエス・キリストに来るように説得する手段として私を用いることもおできになる。ああ、あなたがたは主イエス・キリストを愛する人々のもっている平安を確かに感じることができるのである! 「あなたの法を愛する者には」と詩篇作者は言う。「大いなる平安がある。何ものも彼らをそこなうことはない。」と。しかし、悪者にはどんな平安もない。私は罪の生活がどんなものか知っている。私は、罪の自覚をもみ消すために罪を犯すよう迫られることがあった。そして、これは、あなたがたの多くがたどっている道だということをよく知っている。あなたがたは人づき合いの中に入っていくとき罪の自覚を追い払う。しかし、あなたは一度行けるところまで行ってみるべきである。このことがなされなければならない。すなわち、あなたの傷がさがし出されるか、あるいは滅びなければならないからである。もしこれがどうでもよいことならば、私はそのことについて一言も言うまい。しかし、あなたがたはキリストなしでは滅びるのである。彼は道である。彼は真理であり、いのちである。あなたがたがキリストなしで地獄に行かなければならないなど、私には考えられない。あなたがたは永遠の炎の中で、どのように過ごそうというのか。あなたがたは、永遠に悪魔とともにいるという意識にどのようにとどまるというのか。将来イエス・キリストによって地獄に送られるより、ここで幾分たましいの苦悩を味わった方がよいではないか。地獄とは、キリストなしの者とされることでなくて何だろうか。もしも仮に地獄というものがないとしても、これこそ十分過ぎるくらいの地獄である。悪魔とともに永遠の苦しみを受けるところ、それが地獄である。だから神に親しみ平和でいなさい。私は、貧しく価値のない、イエス・キリストの使節としてあなたがたに懇願する。神と和解するように。この、週の初めの日である、今朝の私の仕事は、キリストが喜んであなたがたと和解してくださるということを告げることである。あなたがたのうち誰かイエス・キリストとの和解を願うものがいるだろうか。そうであるなら、キリストはあなたのすべての罪を赦し、あなたのすべてのそむきをぬぐい去ってくださる。しかし、もしもあなたがキリストに逆らい続け、日々彼を刺し貫き続け、侮辱し続けるならば、神の怒りが必ずあなたの上に下るのを待つのみである。神は侮られるような方ではない。人は蒔いたものを刈り取らなければならない。あなたが神と平和でいたいと思わないならば、神もあなたと平和でいたいと思わない。神が憤っておられる時に、誰が御前に立つことができよう。怒れる神の御手におちいることは恐ろしいことである。人々がキリストを捕らえようとやって来たとき、イエスが「わたしがその者である。」と言われると彼らは地に倒れた。死にゆく体というぼろぎれを身にまとっておられたキリストの視線に耐えられなかったのであれば、御父の御座についておられるキリストの視線をどうして耐えられよう。私には、哀れでみじめな者が悪魔によって墓から引きずり出されたのを見るかのようだ。私には彼らが震え上がり、丘々や岩々が自分たちを覆ってくれるように叫んでいるのを見るかのようだ。しかし、悪魔は「さあ来い。お前をかたづけてあげよう。」と言うだろう。それで彼らは震えながら、キリストのさばき座の前に立つことになろう。彼らはキリストにもう一度会うために御前に現れ、あの「のろわれた者どもよ、わたしから離れ去れ。」との取り消しのきかない宣告を聞くことになろう。私にはあわれな被造物が「主よ、もしも私たちが罪に定められなければならないのでしたら、どうか御使いの誰かがその宣告を下すようにしてください。」と言うのが聞こえてくるかのようである。そうではない。愛の神、イエス・キリストがそれを宣告されるのである。あなたはこのことを信じないのか。私がでたらめに語っていると考えないでいただきたい。私は真理の聖書と同じことを語っているのである。今朝、神の御力によって、キリストに結びつく固い決心をもってここを去らないなら、イエス・キリストのうちに休らうまで、あなたは自分のたましいの安息を得ることはできないだろう! 私は、まだまだ語りつづけることができた。キリストのことを語るのは心地よいことだからだ。あなたがたは、あの、新しいからだを持つようになるとき、すなわち不死を着、キリストの栄光のからだのようになる時を待ちこがれないだろうか。その時、人々はいつまでもいつまでもイエス・キリストのことを語るようになるのである。しかし、もうあなたがたがここを去り、自分たちそれぞれの礼拝に備える時であろう。私はあなたがたの誰をも妨げたくない。私の目的は、あわれな罪人をキリストに連れ来たることである。ああ、神があなたがたの幾人かでもご自身のもとに導かれるように! どうか今、主イエスが祝福とともにあなたがたを去らせてくださるよに。愛する贖い主が目覚めていないあなたに悟りを与えてくださるように。悪者をその悪しき道から引き戻してくださるように! どうかすべての理解を超えた神の愛が、あなたがたの心を満たしてくださるように。キリストのために、おお父よ、これを授けたまえ。あなたとほむべき御霊とともに、そのキリストに、すべての誉れと栄光が、今も永遠に至るまであるように。アーメン。


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