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子どもたち---
喜びですか、いらだちですか?
アル&パット・ファブリズィオ


「わたしが彼(アブラハム)を知るのは、彼がその子らと後の家族とに命じ、公正とさばきを行うために、彼らが主の道を守るようになるため、すなわち主がアブラハムについて語ったことを彼の上にもたらすためである。」 創世記18:19


しばらく前のことですが、三歳半になる息子がこう祈りました。「かみさま。ぼくがかみさまの目をみるように、そしてかみさまのいうことをきくようにたすけてください。」と。私は、この子は詩篇32:8,9のことばをなんと美しく表わしたことだろうと思いました。「わたしはあなたがたに行くべき道を示し、教えよう。わたしはこの目であなたがたを導こう。理解力のない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければならない。」 これこそ神に対する生活の中で自ら求める応答のしたかです。つまり手綱で操作しなければならない理性のないラバのようではなく、従うことを
すでに決めていて、神の目で導かれることをただ待っているような服従の心です。私たちはこのような服従の質を自分たちと子どもたちのために祈ります
 私たちの経験の中に神がお与えになった勝利はどれも、失敗と敗北の中で、自分たちの限界に至らされた時にやって来ました。その時、神が荷ってくださり、私たちのうちに御業を行なってくださったのでした。私たちの生活で子どもたちのことほど、より完全に主にゆだねたものは他にありません。

訓練とは教え以上のこと
 箴言22:6で神はこう約束しておられます。「子をその行くべき道に訓練せよ。彼が年老いた時にそれから離れない。」 訓練教えることの間には違いがあります。私たちの多くは、子どもたちに彼らの行くべき道を教えていますが、彼らの行くべき道に訓練することを怠っています。子どもは親に対して積極的な従順と信頼をもって反応するように訓練されなければいけません。
 訓練という言葉の意味は、「秩序に対して従順にするため、正しい道に導いたり、それに注意を向けさせるため、試練の時に備えるために、実践と手ほどきによってその性質を形づくること」です。これは私たちが自分の子どもたちに実施するように神が求めておられることです。


どの親も子どもを訓練している
 私たちはみな、意識するしないにかかわらず、自分の子どもを何らかのしかたで訓練しています。私たちが子どもに何かを求めるとき、私たちが二回言うまで従わないでおくように訓練しているとか、声を張り上げるまで従わないでおくように訓練しているとか、あるいは子を威嚇するまで従わないでおくように訓練しているというふうにです。私たちは普通の声で一回言って直ちに従うように訓練することができるのです。そのカギは訓練にあります。
 「行くべき道」をただ教えられただけの子どもは、他の教えを聞いて離れる可能性があります。しかし、子どもを訓練する親への約束は「彼が年老いた時にそれから離れない」ということです。
 聖書の中に二つの実例があります。一つは行くべき道に訓練された子の例であり、もう一つは行くべき道を教えられたが訓練されなかった二人の兄弟の例です。
 Iサムエル1:11で、ハンナは子どものために主に願っています。ハンナは「子をください。主よ、そうしたらその子をあなたにお返しします。」と祈りました。ハンナは「主よ、もし子をくださるなら、その子があなたにお仕えするように最善を尽くして教え、もしその子がそのことに前向きで反対しなければ、その子を宮に連れのぼってあなたに仕えるようにさせます。」とは祈りませんでした。いや、彼女はサムエルのために自分が選んだとおりに彼がするとまったく疑っていませんでした。Tサムエル127「この子のために、私は祈ったのです。そして主は、この子のことを求めた私の嘆願をかなえてくださいました。ですから私はこの子を主に貸しました。この子は、生きる限り主に貸したものです。こうして彼はそこで主を礼拝した。」と言っています。サムエルは宮に行き、祭司エリに喜んで仕える者となりました。サムエルがよく従うように訓練されていたことは、Tサムエル3章の、年少のぼうやであるのに自分の床から起きて三度もエリのところに走っていき、何のご用でしょうかと尋ねたところなどから明らかです。そして彼は一生涯、神に仕えたのでした。
 それとは対照的に、祭司エリの二人の息子のことがTサムエル212に出ています。「さてエリの息子たちはべリアルの子であった。彼らは主を知らなかった。」 聖書は続けてエリの息子たちがいかに不従順で不道徳であったかを告げています。エリは息子たちのしていたことを知っていて、疑いなく正しいことを教えていたでありましょう。Tサムエル223,24でエリは息子たちをとがめています。「そして彼(エリ)は彼らに言った。お前たちはなぜこのようなことをするのか。私はこの民全部からお前たちの悪い所業を聞くではないか。いけない、息子たち、私の耳にするうわさはよいものではない。お前たちは主の民が背くようにしている。」と。しかし、とがめだては訓練ではありません。
 エリは息子たちの訓練を怠りました。「しかし彼らは父の声に聞き従わなかった」 それで主はエリの家を祭司の務めから断ち切られました。Iサムエル3:13は言っています。「わたしは彼の知っているその悪のために彼の家を永遠にさばくと彼に告げたからだ。なぜなら彼の息子たちは、みずからを下劣なものとしたのに、彼は息子たちを止めなかったからだ。」彼は「主以上に自分の息子たちを尊重した」のです。Iサム2:29
 エリは主を愛していました。彼は誠実で祭司の務めを果たしました。しかし彼は息子たちを、従うようには訓練しなかったのです。


どのように?
 (神のみこころに従って行おうとの私自身のもがき)
 しかし、どのように訓練したらよいのでしょうか。子どもたちが私たちに従うようにどのように訓練したらよいのでしょうか。神はみことばの中にその答えを与えておられます。
 箴言22:15は言っています。「愚かさは子どもの心につながれている。しかし矯正の杖がそれを彼から遠く引き離す。」
 ああ、でも主よ、それは私が子どもにむちや小杖を用いるという意味ではないはずです。(私はまずこう思いました。「人を警棒で制御する警察官みたいになるってこと?」 私はあの子を愛している。とても彼を痛めることはできない。) 「むちを控える者はその息子を憎む者である。しかし彼を愛する者は熱心にこれを訓練する。」箴言13:24
 それで私は心の中で議論しました。(でも、他の訓練のしかたもあるはず。ことばもむちとなり得る。しかったり、とがめたり・・・・)「子どもの矯正を差し控えてはならない。彼をむちで打ったら彼は死ぬことはない。彼をむちで打って、そのたましいを地獄から救い出さなければならない。」箴言23:23,24
 (でも私は彼に自由にのびのびと育ってほしい。いろいろ規制しないで・・・・。)「むちと叱責とは知恵を与える。しかしわがままにさせた子は、母に恥を来たらす。」箴言29:15
 しかし私はこのような誘惑を受けました。(確かにこんな小さな不従順はまだそんなに深刻じゃない。この子はまだ小さいし。この子がもう少し大きくなるまでまとう。そしたら私も彼に言ってさとすことができるし、彼ももっと聞き分けることができるようになる。)「望みのあるうちにあなたの息子を懲らしめよ。その泣き声に情けをかけてやってはならない。」箴言19:18
(しかし、もし彼を訓練したら彼はもっと言うことを利かなくなるだけじゃないだろうか。)「あなたの息子を矯正せよ。そうすれば、彼はあなたに安息を与えるようになる。しかり、あなたのたましいに喜びを与えるようになる。」箴言29:17
 私はこのような問いを自分にしなければなりませんでした。私はこれらの聖句で主が語っておられるとおり、すなわちもし自分の子どもたちを愛し、彼らの取扱い方で神に従いたいならば、彼らが不従順なとき、私は小杖(聖書の「むち」ということばはヘブル語で「小杖」「小枝」を意味する)をとり、肉体的にスパンクしなければならない、との意味で信じているだろうか。私は神が確かにその意味で言っておられると信じます。私はまた、もし私が信仰によってみことばに従うならば、主は子どもの訓練に関してお与えになった一つ一つの約束を成就してくださるとも信じます。
 わが子を訓練することで神に従うというなら、それは私が子に何かをするように求めるときは、それが何であれ、いつも子が従っているのを見なければならないということです。普通の声で一回言って、もし子が直ちに従わないならば、私は小杖を取って、もう二度とやりたいと思わないように十分な痛みを与えて彼を矯正しなければなりません(愛はこのことを要求します)。


愛には代償が伴う
 自己中心的な愛は安易な道を求めます。私は自己中心的にわが子に対して情を感じ、子が痛みと落胆に耐えているのを自分が見ないですむようにすることができます。こうして、やがて襲ってくる人生の苦しみへの備えもないまま世に送り出すことになります。しかし、自己を与える愛は、服従に代償と痛みが伴うことを知っています。神は苦しみを通して訓練する、そのご自分の御子に対する特別な愛を表わされます。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加えられるからである。もしあなたがたが懲らしめを耐えるなら、神はあなたがたを子として扱ってくださる。」ヘブル12:6,7  神はこの箇所で、もし私たちを懲らしめておられないとしたら、私たちは「私生児であって子ではない」とこのことを一層強調しておられるのです。
 むちが肉体に与える痛みは、後の日にわがままな性格が原因で被る痛みから救い出します。「傷つける強打は悪を清める。打つことは奥深い部分を清める。」箴言20:30
 「私は、主よ、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」詩篇119:75
 「苦しみに会っていたこと、あなたのおきてを学ぶことができたことは、私にとってしあわせでした。」詩篇11971
 「苦しみに会う前には、私は道からそれて行きましたが、今はあなたのことばを守ります。」詩篇119:67
 自分の意志を他の人の意志に服従するように訓練されたことのまったくない子どもがキリストのうちに成熟していく場合、その子の年が進むにつれて必然的に懲らしめが必要になってきます。神は御恵みによって、そのような子どもを懲らしめることをされるのですが、長年のわがままと放縦の後に...どんなに大きな苦しみを通ることになることでしょう。「人が若い時にくびきを負うのはよい。」哀歌3:27
 わが子にむちを用いるのは愉快なことではありません。しかし、矯正の後、私は直ちに子をひざの上にのせて彼をなぐさめ、ほおずりして、私はお前を愛しているが、従わなければいけないからなんだと教えます。主は私たちに同じようにされるのではないでしょうか。神に厳しく懲らしめられたことがなく、したがって「私はあなたを愛しているからこのことを行うのだ。」との神の甘い慰めのことばを知らない人は誰でしょうか。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂かれたが、いやしてくださる。私たちを打たれたが、介抱してくださる。」ホセア6:1


愛のむちは憎しみから救い出す
 これはむちの祝福です。一度それが用いられると、一度懲らしめてしまうと、私たちは出来事をさらっと忘れることができ、親子の交わりは回復します。いつまでもがみがみと叱りつけているときには、子どもは矯正されていないために、子に対する憎しみを抱くことになります。
 ほんの些細な不従順に対してもむちが一貫して用いられるときには怒りや不快感や拒絶がともなうことはけっしてありません。なぜなら、親がそのような状態に導かれることはないからです。その違反の性質や状況がどうであれ、矯正はいつも同じです。悪事はいつもある種の不従順だからです。これは報復やさばきのむちではなく、希望をもたらす矯正のむちなのです。
 子どもたちはそのむちに、私たちの愛が十分満ちているのをすぐに理解します。そして彼らはそれを罰のむちとしてではなく、訓練のむちとして受けるようになります。このことを説明するのにとてもよい出来事がありました。ある朝、忙しく朝食をとっていた時のことです。私は娘に靴下と靴をはくように言いました。彼女は私に従うつもりだったと思いますが、遊びに熱中していてとうとう忘れてしまいました。それで私は彼女に、従わなかったので私はあなたを矯正しなければならない、部屋に行って足台のところで伏せていなさいと告げました。私はすぐに行くべきでしたがキッチンのところで忙しくて、すぐに行けませんでした。私が行ってみると、彼女は足台のところに伏して、足をぶらぶらさせて歌をうたいながら自分が正されるのを待っていたのです。彼女は避けられない不従順の結果としてむちを受けました。私たちの子どもはいじらしくも、みなむちを受け入れます。彼らは私たちが彼らを愛しており、むちは訓練するためのものだと心得ているからです。それが済めば、ああ私たちはいかにその愛情を自由にあらわすべきでしょうか!


子どもはひとりひとり違う?
 私たちはこのようなことをよく耳にします。「しかし、子どもはひとりひとり違うのだから、それぞれ違った取り扱い方が必要だ。」と。私たちもひとりひとりの子どもが違うことに同意します。私たちにも四人の子がいて、それぞれの個性と気質をもっています。しかし彼らにはみな一つの共通点があります。つまり彼らはみな自己中心的性質をもって生まれついているということです。そういうわけでひとりひとりに服従へと導くむちが必要となります。主が個々の性質に基づいて命令を加減されるなど、聖書のどこにも出てきません。
 ここで、このことに関する個人的な二つの実例をお話したいと思います。
 私たちの一番下の息子は気性の荒い子です。それは彼がおしゃべりをするようになるずっと前から表れていました。彼がよちよち歩きを始めた頃、私たちが「だめ」と言って彼の意志をさえぎると、彼は直接反抗するというわけではありませんでしたが、フロアーに寝転がって足をばたつかせ、金切り声をあげるのでした。最初の頃はその子の所まで行って彼を起こし、「だめだめ」と言いながら彼を静まらせようと私のひざの上にのせたりしていました。しかし、しばらく状況を和らげてはいても、彼が自分のやりたいことを乗り越えるようには訓練していませんでした。
 次に彼が「だめ」と妨げられ、フロアーに寝転がって金切り声をあげた時、私は彼の癇癪の真っ最中に、彼の足にむちを加えました。それから椅子のところに行って彼を私のひざの上にのせ、彼の心を静めて彼に愛を示し、慰めました。その後、彼の意志が妨げられる出来事があった時、彼は身を投げ出し、金切り声をあげようとしましたが、彼はまさにその時、ぐっとこらえたのでした。私が小杖を取りに行って戻ってきた時には、彼は起き上がって、何事もなかったかのようにまったく楽しそうにちょろちょろと動き回っているのでした。もちろん、それでも彼は直ちに私の意志を受け入れることを学ぶ必要がありましたので、むちを受けました。しかし、この癇癪を乗り越えることは彼が学んだことです。
 この訓練は彼の心を打ち壊すでしょうか? いいえ、ただ彼のうちでまったく中心となっている自分本位な意志を打ち壊すだけです。これは信仰の一部でもあります。私がこのことで主に従うとき、主は、私たちの息子が愛の権威に自分の意志を従わせ、なおかつ自分の個性を十分に伸ばすように、彼を教えてくださるのです。そう私は信じます。事実、十分な開花に向かうのは訓練された精神です。それは周囲の状況に負けることがないからです。それは繁栄し、実を結ぶ、刈り込まれたぶどうの木です。
これとは対照的に長男は異常なまでに繊細で、感情的な子です。彼は幼児のころからそうでした。些細な刺激にもわっと泣き出すのです。涙はうれしいことでも悲しいことでも新しい状況の度に出てくるのでした。彼がまだとても小さかった頃、彼のしたくないことを私たちが要求すると、彼はよく泣き出したものです。それで私たちは彼の繊細さを理由に矯正を控えていました。
 事態はよくなるどころか、かえって悪くなっていきました。それは彼が従いたくない時は泣くことに逃げ込むようになったからです。彼はいつも不安定を示すようになりました。彼が意識的にこのようにしていたとは思いませんが、私たちはある意味で彼が自分の感情に従うように訓練していたのです。私たちはもし彼にむちを用いれば問題を深くするだけだと話し合っていました。
 主は、私たちが主のみことばに従順ではなく、結果を主にお任せしていなかったという事実をだんだんと私たちに悟らせてくださいました。そしてついにある夜、家族礼拝の時、お父さんがあの子のしたくないある事をするように言いました。そして、いつものように....涙でした。私たちは彼を慰め、なだめすかそうとしましたが、そのようなことをしてもよけいに激しく泣くだけでした。とうとう彼はその夜、従順の位置に導かれることなくベッドに入りました。
 私たちはそこに座って、自分たちのうちで大きくなっている思いについて語り合っていました。それは私たちの方こそ従順ではなかったということ、そして私たちは子どもたちのために直ちに従うことを始めなければならないということをです。それからお父さんは彼のところに行って彼を起こし、ひざの上に彼をのせて、さっきの出来事についてお父さんたちには平和がないということを話しました。そして主は親たちに、子どもが従うことを当然のこととするように欲しておられるが、その主に自分たちはこれまで従順ではなかったことを息子に告白しました。お父さんは息子を矯正しないといけなかったと告げました。そして彼をスパンクしてから彼を腕に抱いて慰め、さっきのところに戻って、要求していたことを彼にさせてからベッドに戻しました。息子がその夜、お父さんの愛をより一層確信して眠りについたのを私たちは知っています。彼は私たちの従順を理解し始め、そのことは彼の心に安息をもたらしました。彼は私たちが、彼の不従順を矯正する責任を担って、神に「そうします」と言っているのを見る必要があったのです。私たちはまた、神が真実な方であり、私たちをきよめてくださるという同じ確信に安住することができます。Iヨハネ1:9「神は私たちを赦し、きよめるのに忠実で正しい」
 このことは、あの子にも私たちにも本当の分岐点となりました。その後、「彼の涙のために手控え」ることなく、従わなかった時にはむちを用いるように、主は恵みをくださいました。彼は以前にも増して安心と安定を示し、感情に左右されずに生きるようになりました。彼の気質に変わりはなく、以前と同じように敏感です。しかし彼は自分の感情より大切なものを学んでいます。以前、彼はすべてのものを感情で見ていました。よい判断を伴う感受性はよいものです。彼が自分の感情に左右されないことを学んだとき、彼は以前にも増して他の人に興味を抱くようになり、内にこもることが少なくなりました。あの子の、非常に感受性の強い傾向を見ていると、私たちがもし、あのように自分たちの信仰のなさとあの子の涙とに合わせるやり方を続けていたら、彼は今ごろどんなに不安定な子になっていたことだろうとよく思います。今では、あの子の感受性は積極的な創造性のための彼の賜物であって、私たちみなに益をもたらしています。
 その晩の出来事は、あの子にもう一つの分岐点をもたらしました。彼は新しいしかたで主に心を開き始めたのです。それはあたかも、ずっと抑えてきた心のある領域をゆだねるべきことに気づいた時、自由になったかのようでした。彼の祈りは以前にも増して真実味を帯びてきました。彼は家族礼拝の間、より注意深く関心を抱くようになり、それ以来、主に対してはあたたかい愛を感じていない彼の姿を見たことはありません。


神は私たちを訓練しておられる
 私たちと子どもたちとの関係は、天の父と私たちとの関係を模写したものであってはいけないのでしょうか。御父は私たちの主であり、私たちはこの点で、子どもたちの生活における彼らの主なのです。このことは必然的に天の父が私たちにしておられるように、同じ愛の一貫性をもって、子に対して振舞う責任を私たちに課します。
私たちがちょうど自分の子どもを訓練するように、神は私たちをご自分の子として訓練しておられます。神の訓練は、何が真実に子どもにとって益なのかということにとても敏感になるように私たちを教えます。威圧するのではありません。私の父が私を懲らしめるとき、私に対するその行為は私の益のためであって、怒りの反動や拒絶ではありません。「ああ、望むらくは彼らのうちにそのような心があり、わたしを畏れ、わたしのすべての命令を常に守り、彼らにも、彼らの子どもたちにもとこしえまでもさいわいとなればよい。」申命記5:29「というのは、彼ら(地上の父親)は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを訓練するが、彼は私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練するからである。」へブル12:10
 このことを説明するために、私の子どもが私に(あるいは彼の兄弟に)荒々しく語ったとしましょう。私の自然の衝動は、感情を害し、ガミガミと叱りつけて、同じように荒々しい反応をすることでしょう。しかし、子どもへの愛と神への従順は、私がむちをとり、忍耐をもって懲らしめ、彼を私のひざの上にのせて、いつも親切な語り方をしないといけないよと愛情深く教えることを要求します。これは子どもの益のための愛の行為です。
 さらに私の子どもは彼にとってベストとは言い難いものを非常に欲しがります。彼の願望の方に譲ることは、私自身を気ままにさせることです。私は、彼が、自分にとっての最善を決めてくれた親の愛に信頼して、その挫折感に自ら対処できるよう、その子の益のために、時間をかけ、労して、訓練する必要があるのです。このことを通して彼は、自分にとっての最善として神のみこころに信頼することを学ぶでしょう。私は信じ(またよく目にし)ます。私たちが子どもを親の意志に服従させる訓練に忠実であるならば、子どもは成長したときにその服従をキリストに移行するものだということを。


一貫性のないむちの使用は、処罰であり、訓練ではない
 一貫しているということは非常に重要なことです。子どもにとって親から何も予測できないこと以上にやきもきさせることがあるでしょうか。私たちの、親としての一貫性のなさが子どもを怒らせ、気落ちさせるのです。私たちは、あることに対してある時は断固として「いけません」と言い、次の時には関心もなく、何かに気をとられ、自分に不都合だから迷惑がり、それが彼らの「ちょっとした」不従順を大目に見て、そのままやることを許したりします。私たちがこのようなしかたでむちを用いる時、それは処罰であって訓練ではありません。それは子どもたちを親のご機嫌とりに作り上げる暴力です。この手の脅しは、子どもが権威に対して抵抗するように促進します。彼らは怒るように誘発され、気落ちし、反抗に至るのです。「父たちよ、あなたの子どもたちをおこらせてはならない。彼らを気落ちさせないために。」コロサイ3:21 私たちは、処罰のためではなく矯正のために言ったことはあくまでもそれを行うよう、親として従順でなければなりません。
 しかし、それは熱心さを要します。ですからこれは自分の力はもちろんのこと、キリストへの従順という動機の力以外には、どんなものもこれを行うことはとてもできません。子どもをお行儀のいいお利口さんにしようとする動機は私たちを支えることができません。たとえば、ある時私は、他に妨げられるものもなくいろいろなことに優先権を持てるかもしれません。そのような時に子どもに「来なさい」と言って従わなかったとしましょう。その時、彼の訓練のために、必要なことをするために私のやっていることをやめるのは容易なことです。でも、その翌日は椅子にゆったりと落ち着いて、赤ちゃんのお世話をしながら子どもに、「お願い。来てちょうだい。」と言うかもしれません。もし彼が不従順であったら、このような時にはお行儀のいいお利口さんにしようとする動機は十分ではありません。このような時、もう少しきつめに同じことを言うのはたいへん簡単なことです。しかしそれでは最初の命令は実際あまり意味がないと、子どもが思うように訓練することになります。そうではありません。それは神の恵みを手に「主よ、あなたは子どもを訓練するように言われました。私がこの椅子に座っているなら、あなたに従っていないことです。どうか、子どもが従うように訓練することで、私があなたに従うように助けてください。」と言うことです。主はそれで私たちが椅子から立ち上がり、赤ちゃんを置いてからむちを取り、忍耐をもってそれを用い、彼を私のひざの上にのせ、彼を慰めるように恵みをくださるのです。「しかし彼を愛する者は熱心にこれを訓練する。」 ただキリストだけが、私たちに必要な不断の努力を与えることができます。肉が信仰の業をもたらすことは不可能です。


それは一つの信仰の行為
 多くの人が「私はスパンクをやってみました。しかし事態は悪くなるばかりでした。それは役に立ちません。」と言っています。「やってみよう。」という前提に立って事を始めてもうまくいきません。むちを持ち、愛のうちに子を訓練するのは神の命令です。それは、私たちのうちに宿る神のいのちによってみこころを私たちのうちに成就するとの、神の約束を信じる信仰の行為です。信仰はあきらめません。なぜなら、その対象は、私たちの言葉や、何か「実行可能な」原理なのではなく、キリストであり、彼のみことばだからです。
 私たちの最初の子がまだとても小さく、わがままな意志を示し始めていたころ、彼女をむちで訓練し始めるのは大変なことでした。私たちにはどのような結果になるのか見当もつきませんでした。しかし神は、私たちが神に信頼し、従わなければならないことを明らかにしておられました。たくさんの善意のクリスチャン(そのうちのある人は指導者です)が、聖書の「むち」ということばを文字通りに適用すべきではないと言って、私たちがむちを使用するのを思いとどまらせようとしました。彼らは他の訓練のしかたがあると言って「言葉はむちであり得る。」と言いました。(言葉で子を打つことより残酷なことがあるでしょうか。) 彼らは推論と、意味の転換を主張しました。私たちは娘が大きくなるにつれて「さまざまな心理的問題」が出てくるだろうと言われました。
 しかし神は、みことばは真理であるとの信仰で行動する恵みを私たちにくださいました。娘はすぐにティーンエイジャーになりますが、私たちは「神、その道は完全。主のみことばは試されている(別訳では「真理を証明する」)。この方はすべて彼に身を避ける者の盾。」IIサムエル22:31と言うことができます。娘は忠実な働き手であり、あらゆることにおいて私たちの喜びです。彼女は外向的で他の人に関心があります。しかし何よりも彼女は、キリストとみことばを愛しており、その霊的成長は彼女のからだの成長と同じように明らかです。
 大きな事には小さな始まりがありますので、いわゆる「ティーンエイジ」の態度の問題の多くは十歳か十一歳の時に対処していました。それでもっとも大切な彼女の私たちとの基本的な結びつきは確立しています。私たちは今でも彼女を訓練します。このことに何の変りもありません。非常にまれになったとはいえ、むちは今でも彼女の訓練のための愛の手段であり、あの二歳のころと同じように快く受け入れます。
 もちろん、むちを脇に置き、ただ神だけがご自身の愛のむちをもって、引き続き彼女を訓練される時が来ます。.....しかし今はまだ来ていません。特に人生のうちでもっとも変化があり感情的でもあるティーンエイジの年齢の時に、この方法は私たちの彼女に対する敵意、あるいは彼女の私たちに対する敵意から救い出されるための祝福された訓練の手段なのです。彼女の心はとても敏感なので、即座の悔い改めとここちよい告白があります。その上、私たちの主は、彼女と両親である私たちの両方を、私たちが一緒にしなければならない選択について共通の理解と承諾に導いてくださいます。


成長する自由
 子どもを従うように訓練するとき私たちはあらゆるすばらしい生活の領域に進み、ともに成長することができます。私たちは今では彼を楽しむことができ、敵意によって妨げられることなく彼の理解を建て上げてやることができます。私たちは今では自己中心的でない遊びやユーモアで満ちた家庭を楽しむことができます。私たちは、彼が神にとって無限の価値があるのを見ることができ、神は彼の人生のために特別の計画をもっておられるという知識のうちに彼が成長するのを助けることができます。私たちの関係にはお互い霊的に成長するすばらしい自由があります。完全ではありませんが、キリストにより頼む模範として私たちは彼の前で正直に、オープンに生活することができます。「こうして私は自由な心で歩みましょう。それは私があなたの戒めを求めているからです。」11945


神の直接の導きを受けるように訓練すること
 みことばを通して神が語っておられるのを聞くよろこびは、ごく幼少の頃から味わい始めることができます。私たちの家族礼拝は、家族のみなが朝食のテーブルを囲んでお父さんが聖書を読み、それについて話し合うというふうに行ないますが、これはまさに私たちにとって成長と力の源です。しかし子どもたちが成長するにつれて、彼らが主から直接導きと助けを受けるようになることの重要性は次第に増していきます。したがって神のみことばで養われる特別な訓練の時が彼らには必要です。彼らは一人の静かな時にみことばを学ぶことを習得しています。
お父さんが週に二度、長男と二人だけで仕事と学校の前に、彼らが学んでいる聖書の箇所について語り合うとき、私たちは親としてなんとすばらしい祝福を受けていることでしょう。息子は、気を散らさず丁寧に接してくれるお父さんと、彼の心の中にあることを何でも話します。彼は自分の疑問を告げることができ、お父さんとともに聖書の光の中でその疑問に向かい合うことができます。
 長女と私は朝のひとときを一緒に過ごし、聖書から学んだことや、ひとりの女性に成長するときに経験するさまざまなこと、学校のことなどを語り合いますが、そこでも私たちは同じ祝福を受けます。
 これらは私たち親にとって子どもたちとのすばらしい、わくわくする時です。訓練の過程はしばしば痛みあり、不愉快ありで、不断の献身を要します。しかし報いは栄光に満ちたものです!「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって痛々しく思われるからである! 後になると、これによって訓練されてきた人々に義という平和の実を結ばせるのである。」ヘブル12:11


励ましのことば
 私は一時期、子どものことで挫折し、もう少しも希望がない、もう遅過ぎる、回復の余地はもうないほど基礎を失ってしまったと思うほどに完全に落胆していた時がありました。
 一番下の娘が三歳のころ、私たちは彼女のことでたましいが暗礁に乗り上げたような経験をしました。私たちはあの子の訓練で主に従順ではありませんでした。それは、ほんとうに辛い経験でした。 私たちは自分の悟りに頼っていたという以外にどう説明していいかわかりません。多くの場合、娘をスパンクする必要はないと思っていました。いろんなことで私たちは、彼女について恐れていました。私たちはただ、秩序を保つのに必要なだけの訓練を娘にしましたが、本当に従うようには訓練していませんでした。私たちは娘が不服従の心の態度のまま狡猾さ持ちつづけるように許していたのです。私たちはこのことでなぜ主に従っていないのか、その言い訳のリストをたくさん持っていました。しかし、主は恵みによって私たちに平安をお与えになりませんでした。主は私たちがみじめになるまで、このことについての確信に段々と導かれました。
 私は主に言い続けました。「わたしにはできない。私にはそのようにできないのです。」と。すると主はこのようにお答えになるのでした。「わたしにはあなたのできないことが分かっている。それは当然のことだ。それは絶対できないことなのだ。」と。私は「できません。」と言っていましたが、もがき続け、何とかしようとしつづけました。そしてついに、文字通り夜どおし涙を流して、私はもう限界であって、もしこの子どもたちが訓練されていることを主が欲するのならば、主がそれを行ってくださらなければなりませんと訴えました。
 一睡もしなかったその翌朝、最初の場面がやってきたとき私はむちを手に取り言いました。「わかりました、主よ。あなたがなさるのですね。」と。そして主はなしてくださいました。というのは、私は娘が私の声に感覚であるように訓練していたわけで、彼女が聞くようにもう一度はじめから訓練し直さなければならなかったからです。私は一回言って(あくまで)むちを用いました。彼女を私のひざの上に座らせ、彼女を愛し、なぐさめるときはいつも「私の声を聞いて従いなさい。」ということばを繰り返しました。
 その日の昼食の時、幾多の矯正の出来事の後、彼女は食卓に着き、その小さな頭をたれて食事の感謝の祈りをささげました。以前はよく、彼女は「主よ、従うことを教えてください。」と祈っていました。でも、その日彼女は「愛する主よ、私は従う心でいることを感謝します。」と祈りました。彼女は、あたかも「主よ、お母さんが私を従わせることでついにあなたに従っていることを感謝します。私にまかせられなくてよかったです。」と言っているかのように、「〜する心でいる」を強調していました。
 それに続いて、見事な変革がやって来ました。彼女は新しい輝きを見せるようになりました。他の人に関心を抱くようになり、自分に固執せず生きるようになりました。彼女はママや、お父さんや、兄や姉たちにとって、どれほど言い尽くせない喜びとなっていることでしょう。
 私たちの主イエス・キリストは、私のうちにある彼の生命がご自分の命令を実行することを約束されました。私にはそれはできません。しかし、私のうちにおられるキリストにはできます。主は私の子どもたちに関して私に何をしてほしいかお告げになりました。主はそれがどのように為されてほしいかお告げになりました。そして彼の無限の恵みによって、主は私の生のうちに入ってこられ、こう言われました。「わたしがあなたのうちでそれをしよう。」と。
 神は私たちがいるまさにそのところで、私たちに会ってくださいます。もし、この原理があなたにとって真新しいものなら、そして訓練されていない子どもをすでにお持ちなら、神は回復のためにとても恵み深いお方であると知ってください。遅すぎることはありません。あなたは主の力によって、主があなたに示されたことに今から従い始めることができるのです。あなたの子どもたちはすぐに従順を学ぶようになるでしょう。なぜなら、あなたは彼らを愛しているからです。あなたが彼らを従うように訓練するからです。あなたが信仰をもって歩みはじめるときに、きっとあなたは見ることでしょう。あなたのうちで、そして子どもたちのうちで神がご自分の御業を行っておられることを。
19689月記す

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