狭 い 道
A・W・ピンク
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいっていく者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13〜14)
マタイ7章の後半は、「山上の説教」で知られる主のもっとも重要な講話の、適用の部分となっている。この説教のおもな目的は、キリストの王国の、まことの民のしるしとなる従順、その従順の霊的な性質と範囲の広さを示し、さらに彼らのために神の恵みが備えた最終的な祝福の状態を楽しむために、従順は絶対不可欠であることを示すにある。神の預言者として、キリストは、御国で通用する義は「律法学者やパリサイ人の義」に断然優るものなのだとお教えになった。
一方、ユダヤ人たちは、自分たちすべてがメシヤの王国の民であり、アブラハムの子孫なので王国の正式な相続者だと考えた。また「律法学者やパリサイ人の義(すなわち、彼らが教える宗教的、道徳的な規定の制度)」は、神の律法の要求をすべて満たすと考えた。しかし、主イエスはここで、彼らの妄想を暴露されたのである。肉によるアブラハムの子孫が、霊的な王国の肩書きを得ることはできない。ただの生まれながらの人が、超自然の領域の資格を持つことはないのである。真のアブラハムの子孫とみなされるのは、信仰を持ち(ローマ4:16)、その業を行い(ヨハネ8:39)、キリストと一体となった(ガラテヤ3:29)者のみである。
主は、山上の説教の中で、ご自身の霊的王国に属する者の内側の状態を表わし(5:4-11)、彼らを証明する外側の品行を示し(5:13-16)、神の正義が要求している個人的な義を説き明かされた(5:17-28)。そして、徹底して罪を放棄することを、神はご自分の民に求めておられるのだとはっきりお示しになった(5:29-30)。三位一体の聖なるお方の要求は非常に高く、その神聖なるご性質の要求するところはまったく妥協の余地のないものである。したがって主の清い御目が忌み嫌うものはすべて嫌悪し、抵抗し、それから離れようとしない者はだれも主ともに永遠に住むことはできない。主は御自身と交わりを持つ者に、完全な自己否定と、もっとも恋慕っている偶像を取り除くこと、大事にしている罪の傾向を捨て去ること―それは「右の手を切る」、「右の目を捨てる」など、比喩的に描かれている―を要求されるのである。
このようにはっきりとした鋭い主の宣言は、聴衆にとって「ひどい言葉」として写ったに違いない。その突き刺すような、身をひるませるような要求は、おそらく多くのユダヤ人の心に、「それでは、いったい誰が救われようか。これはまさに狭き門、狭き道だ。」との問いを起こしたことだろう。そういう密かな反対を見越して、主は救いに通じる門は「狭く」、命に至らせる道は「狭い」、と明言された。しかしさらに続けて、その「門」から入り、その「道」を歩むことは、あなたの知恵、利益、義務なのだと指摘された。また、主は、彼らを引き寄せる「大きい門」と、そこを歩くようにと誘う「広い道」があるが、それは破滅に至る門、地獄に行き着く道であることを知らせ、忠実に警告してくださったのである。
「狭い門」だけが「いのち」に続くのであり、「狭い道」のみが天国に続くのである。実際、少数の人しかそれを見いだすことがなく、小数の人しかその上を歩こうという気にならない。しかし、そのような現実も、私にとっては、狭い門から入ろうとする意欲を一段とかきたてるだけである。今見ている聖句で、キリストは救いの道とはどんなものかを説明し、描いておられる。ところが、現代の伝道者(?)は、私たちは(嘆きをもって)認めるのであるが、これをまれにしか説明しない。今ここに示そうとしているのは、多くの人々が受ける教えとは大きく異なるものである。しかし、もしあなたがこの教えを拒否するなら、危険を冒すことになる。繰り返して申し上げよう。これから見ようとしている箇所で、受肉された真理なるお方が教えておられるのは、破滅から逃れ、天国を保証する唯一の道は、「狭い門」から入り、「狭い道」を行くことによる、ということである。
狭い門
「狭い」と訳されているギリシャ原語は、厳重なとか、制限されたという意味も持っている。ちなみに「門」の目的は二つある。それは、入らせることと、締め出すことである。この狭い門から入る者はすべて「いのちに至る道」を歩くことが許される。しかし、この狭い門から入らない者はみな、神の御前から永遠に締め出されるのである。この門の第二の用は、十人の娘たちのたとえ話しの中に厳粛に描かれている。そのたとえ話しで、主は、愚かな娘たちを必要不可欠な「油」(心の中における御霊の働き)を持ち合わせていない者として描いておられる。そして、彼女たちがそれを買いに出て行っている間に花婿がやってきて、「戸が閉められた」(マタイ25:10)という。そこで、彼女たちは開けてくれるよう懸命に戸をたたくが、花婿は「私はあなたがたを知らない。」と答えた、というのである。
1.この「狭い門」という言葉は何を表わしているか。それは主(真理が肉体となったお方)の心をさぐる厳粛な教えのことを言っているのだと、われわれは信じる。神に通じる唯一の道に入ることができるのは、ただ御子が明らかにされた神の主張と要求に心から屈服した者だけである。心が主に反抗している間は主に近づくことはない。なぜなら、「二人の者は、仲が良くないのに、一緒に歩くだろうか。」 キリストご自身が「扉」であるというのは、真実、祝福すべき栄光に輝いた真実である(ヨハネ10:9)。主イエス・キリストが持っておられる仲保者としての職務にはおもに三つの機能あるが、それによれば、三つの意味で主は「扉」であられる。主は、神の御前で、預言者、祭司、そして王として「扉」なのである。
人が、救いをもたらす祭司としてキリストをお迎えするように導かれるのは、ただキリストを神の権威ある預言者として真に受け入れる時、キリストの聖なるみ教えを深い悔い改めの心で本当に受け入れる時だけである。キリストは、「義の王であり、次に、平和の王」(ヘブル7:2)である。同様に、キリストは、「いのち」であるまえに、「道」であり、「真理」(ヨハネ14:6)である。言い換えれば、きよめの血は神に敵対する戦いの武器を進んで投げ棄て、神の聖い支配に身をまかせる者たちのみに備えられているということである。悪者は、神のゆるしを得るためには、おのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去らなければならない(イザヤ55:7)。これは、「キリストを祭司として心に抱く前に、預言者として受け入れなければならない。」と言うことを、言い換えたにすぎない。
2.どうしてこの門は狭いのか。三つの理由からである。第一に、罪のためである。「悪者どもは、よみに帰っていく。神を忘れたあらゆる国々も。」(詩篇9:17) 天国の門は、そのような者たちにはあまりにも狭すぎる。新約聖書も同じ事実をはっきり断言している。「あなたがたが良く見て知っている通り、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です。―こういう人は誰も、キリストと神との御国を相続することができません。むなしい言葉にだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。」(エペソ5:5-7) 第二に、律法のためである。律法について二つの重大な間違いがあり、実を言うと、どちらがより危険で壊滅的なのか分からない。ひとつは、律法に従うことによって天国に入ることもできるという考え、もうひとつは、律法が要求するひとりひとりの、実際の敬虔さがなくても天国に入ることができるという考えである。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。」(ヘブル12:14) このように、神の意志に対する個人的な服従のないところでは、強力な律法の手が天国の扉をバーンと閉めてしまうだろう。第三に、誰もこの世の物を自分と一緒に持っていくことはできないからである。この門は、あまりにも「狭い」ので、世を愛する者の入場を認めることはできない。
3.この狭い門に入るとはどういう意味か。第一に、キリストによって明らかにされた真理、義務、幸福に関する教えを受け入れること、すなわち、聖く鋭い、身をひるませる主の教えを、真心から実際に心に受け入れることである。そのような一個人としての信仰は、制限の厳しい入口を、非常な困難を経て、何がなんでもくぐりぬける。「非常な困難を経て」と言ったのは、キリストの教訓と戒めは、新しくされていない心には最も不快だからであり、断固として自己を否定することなしに、また罪深い遊興、追求、そういうものに対する心の傾きを放棄することなしに、進んで、喜んで受け入れることは絶対にできないからである。キリストは、二人の主人に仕えることは不可能であるとはっきり警告された。自己が捨て去られ、キリストが「主」(コロサイ2:6)として受け入れられなければならない。そうでなければキリストがわれわれを救ってくださることはない。
この狭い門に「入る」とはどういう意味か。第二に、広い道、すなわち肉の思いを満足させるような生き方を着実に放棄することである。このことがなされるまでは、いかなる罪人の救いもあり得ない。キリストご自身、ルカ十五章でこの事をはっきりとお教えになった。父の家への帰途につく前に「放蕩息子」は「遠い国」を離れなければならなかった! 同じ様に鋭い真理をヤコブ4:8〜10は教えている。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」
ああ、わが友よ、この狭い門から、本当に、そして実際に入るのは容易なことではない。だから、主は、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠の命に至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハネ6:27)と人々に命じておられるのである。このような言葉は、救いというものを、単純で容易に獲得できるものとしては描いていない。またルカ13:24の「努力して狭い門から入りなさい。」というキリストの、強い調子の奨励を考えて見なさい。このような言葉を主が口にされたことによって、克服すべきさまざまな難問と障害が存在していることがほのめかされている。しかし、そればかりでなく、名ばかりの信仰告白者の特徴であるひどい怠惰と怠慢がそこに暗示されているのは明らかである。ルカ13:24に使われている「努力して」というギリシャ語(アゴニゾマイ)は、Tコリント9:25にある「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。」の「闘技」と同じだということを注意深く気に留めるべきである。またこの言葉は、コロサイ4:12では「励んでいます」、Tテモテ6:12では、「戦い」と表現されている!
それでは、どのように「努力して」狭い門から「入る」のだろう。一般的な答えは「規定にしたがって」(Uテモテ2:5)である。しかし、詳細に言うとどういうことか。私たちは、自分が入ろうとするのを妨げるものから解放されるように熱心に求めつつ、祈りと嘆願に励むべきである。私たちを征服しようとする敵から助けら出されるようにキリストに熱心に叫ぶべきである。神が嫌われるすべてのものから、嫌悪をもって遠のき、拒否するために恵みの助けが与えられるように絶えず恵みの御座に行くべきである。たとえそれが、右手を切ったり、右目をえぐりだすことを意味してもである。また、主が命じられたことを行うことができるように恵みの助けを懇願しなければならない。私たちは、「あらゆることについて自制しなければなりません。」 肉が慕い、世が愛するものについてはなおさらである。
しかし、なぜそのような「努力」が必要なのか。第一に、サタンは絶えずたましいを滅ぼそうと懸命だからである。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、食い尽くすべきものを探し求めながらながら、歩き回っています。」(Tペテロ5:8) だから「固く信仰に立って」、立ち向かわなければならない。第二に、生まれながらの欲は、あなたを滅ぼそうと懸命になっているからである。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい。」(Tペテロ2:11) 第三に、世のすべてがあなたに向かって勢ぞろいしているからである。そして、もしあなたを焼き払うことができなければ、魅力的な約束で、デリラもどきの欺きで、死に導く誘惑であなたの目をそらそうとしているからである。世に打ち勝たなければ、世があなたを征服しあなたのたましいを永遠の破滅に落とし入れてしまうだろう。
今まで述べてきたことから、私たちのまわりにいる大多数の者が、そして信仰を告白しているキリスト者でさえもが、なぜ天国にたどりつかずに失敗してしまうのかがお分かりであろう。なぜなら、そういう人々は聖さよりも罪を、聖書に従って生きるよりも肉の欲にふけることを、キリストよりも自分を、そして神よりも世を好むからである。主イエスが言われたとおりである。「人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。」(ヨハネ3:19)と。人は自己を否定し、偶像を捨て去り、キリストを主と認めて服従することを拒むのである。しかし、これなくしては誰も天国に向かって第一歩を踏み出すことはできない。
狭 い 道
「狭い門」から入るとは、キリストの聖い教えを真心から受け入れるのを意味するように、「狭い道」を歩くとは、心と生活が絶えずキリストの教えに統制されることを意味する。狭い道を歩くとは、主イエスを信じ、従いながら堅く持ちこたえることを意味する。つまり、あらゆる反対を克服し、そして主に対する忠誠の道を捨てさせようとする誘惑をすべて拒否するということである。自己満足や利己主義などが、全て締め出されるからこそ「狭い道」と呼ばれるのである。創世記18:19では「主の道」と呼ばれている。出エジプト記13:21,32:8では「道」、Iサムエル12:23では「よい正しい道」、詩篇25:9では「ご自身の道」、箴言8:20では「正義の道」、箴言10:17では「いのちの道」、イザヤ35:8では「聖なる道」、エレミヤ6:16では「幸いの道」、IIペテロ2:2では「真理の道」、IIペテロ2:15では「正しい道」、などと呼ばれている。
狭い道が、この世的にはいかに不利益をもたらそうとも、これを歩まなければならない。ここで人は試される。(生まれながらの人にとっては)肉を満足させて、世俗的な性癖に従うほうがはるかに容易である。肉の「自由」―「律法の下」でのそれではなく、クリスチャンたちの口実によるそれ ―が許されている広い道は、平坦で歩きやすく、魅力的だが、その終りは「破滅」である!
「狭い道」はいのちに導くが、ほんのわずかしかそこを歩かない。大多数の人は信仰を告白し、救いを受けたと公言するが、その人生には、この地上では「旅人であり寄留者」であって、「宝」は他の場所にあるのだという証しがない。そういう人々は、狭い、偏屈、厳しい、固いなどと思われることを恐れるのだ。サタンが彼らを欺いたのである。そういう人は、自分を否定して、毎日重荷を背負い、キリストに従うことより、もっとたやすい道を選ぶことで天国にいけると思い込んでいる!
神の国と世の両方をできるだけ利用して二人の主人に仕え、二つの道を両立させようとする宗教家は多い。そういう人たちは、この世では自分の満足を願い、次の世では天国を楽しもうと望む。多くの名ばかりのキリスト者は自らを欺き、そのような二股の生活ができると信じ込んでいる。しかし、彼らはひどく惑わされているのである。聖霊の力により肉体の行いを殺すことによって実証されていない信仰告白はまったくむなしい(ローマ8:13)。キリストへのまったき服従をもって証明されない信仰は、悪霊の信仰でしかない。キリストの命令を守らない愛はペテンにすぎない(ヨハネ 14:23)。神の意志に屈することなしにキリスト者だと宣言することは、大胆不敵な思い込みである。永遠の命に入る人がほとんどいないのは、神がお定めになった方法でそれを求めないからである。いのちを正当に求めることができるのは、ただ狭い門から入る者である。また、何度も気を落としたり、転倒したりするかもしれないが、それでも狭い道を続けて突き進む人なのである。
さて、マタイ7章に出て来る二つの道のすぐ後で、主が何を語っておられるかに注目しなさい。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ7:15) なぜこのような言葉が次に出て来るのだろう。真剣な心が警戒すべき「にせ預言者」とは誰のことなのだろう。それは狭い道を通らなくても天国にいけると教える人々のことを指しているのである!
永遠のいのちはごく簡単な条件で獲得できるのだと大声で主張する人々のことなのである。そういう人々は「羊のなりをして」やって来る。そういう人々は、(分別のない者にとっては)キリストを高め、主の尊い血潮を強調し、神の恵みのすばらしさを高めるかのように見える。しかし、悔い改めを主張しない。罪を嫌悪する砕かれた心のみが真にキリストを信じることができるとは聴衆に伝えない。救いに至る信仰は、生き生きとしていて心を清め(使徒 15:9)、世に勝つのだ(第Tヨハネ5:4)と明言しない。
このような「にせ預言者」たちは、その「実」によって知ることができる。通常これは、彼らの肉的努力の実、つまり彼らの「回心者」に言及される。そういう「回心者」たちは広い道を歩いている。その道はおおっぴらな邪悪と非行の道ではないが、肉を喜ばせる宗教である。それは、「人の目にはまっすぐ見える道がある。その道の終りは死の道である。」(箴言14:12)「この道はまっすぐなのだ」と思って広い道を歩いている人々は、真理を頭では理解しているが、そのうちを歩まない。「狭い道」の境界は聖書の命令と戒律によって決められている。広い道は、聖書の境界から外れた道である。テトス2章11節から12節を読むと自分がどの「道」にいるか吟味できる。「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活(するように)・・…教えさとしたからです。」
これを終わる前に、出てくる反論を予測し、取り除いておこう。多分多くの人々は、「キリストが、父なる神に至る道(ヨハネ 14:6)だと思っていた。」というだろう。その通りである。しかし、どういう意味でだろうか。第一に、主が法律上の妨げをすべて取り除いたこと、そして、ご自身の民のために天国への道を開かれたことによってである。第二に、主が「その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残され」たことによってである。ただ扉が開いたからといって、私が家に入ったとは言えない。家につづく道をたどり、一段一段のぼらなくてはならない。キリストは、どこまでも神に従う生きざまを通して、天国に至る道をお示しになった。「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立っていきます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼についていきます。」(ヨハネ 10:4) 第三に、その道に歩むことができるように、主は恵みと力を喜んで授けてくださることによってである。
キリストは、私が神を喜ばせ、神に従う必要がなくなるために、来られたのではない。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んででよみがえった方のために生きるためなのです。」(Uコリント5:15) 「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のために御自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」(ガラテヤ1:4) 「キリストが私たちのために御自身をささげられたのは、私たちを全ての不法から贖い出し、良いわざに熱心な御自分の民を、御自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14) キリストは「ご自分の民をその罪から救ってくださる」(マタイ1:21)ために、やって来られたのである。もしあなたが、今、罪の力から、サタンの惑わしから、この世に対する愛から、自分を喜ばせることから解放されていないなら、あなたは救われていない。どうか、すべての恵みの神が喜んで祝福を加えてくださるように。