もくじ |
神の主権
第4章
救いにおける神の主権
「おお、神の知恵と知識の富の深さよ! そのさばきは探求不可能、その道は人知を超ゆ。」(ローマ11:33)
「救いは主から出る。」(ヨナ2:9)。しかし、主はすべての人をお救いにならない。なぜか。神はある人々をお救いになる。もし神がある人々をお救いになるのであれば、なぜその他の人をお救いにならないのだろうか。彼らがあまりにも罪深く、堕落しているからだろうか。そうではない。使徒がこう書いているではないか。「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。』とは、真実であり、まさに受け入れるにふさわしいことばである。私はその罪人のかしらである。」(Iテモ1:15)と。したがって、神が罪人の「かしら」をお救いになったのであれば、一人として、その堕落を理由に除外される者はいない。では、なぜ神はすべての人をお救いにならないのだろうか。ある人たちは、あまりにも心がかたくななので、説き伏せることができないのだろうか。いや、もっとも心がかたくなだった人々について、こう書かれている。神は、いつの日か「彼らの肉から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼ11:19)と。では、ある人たちは、あまりにも頑固で、取り扱いにくく、挑戦的なため、彼らに愛を求めることが神にはできないのだろうか。この問に答えるまえに、キリスト者である読者の経験に問うことをさせていただき、他の質問をさせていただきたい。
友よ、あなたには、悪者のはかりごとに歩み、罪人らの道に立ち、あざける者たちの座にすわり、彼らとともに「この人が王になるのを私たちは望んでいない」(ルカ19:14)、と言った時期がなかっただろうか。あなたには、「いのちを得るためにキリストに来ようとしない」(ヨハネ5:40)時期がなかっただろうか。さらに、あなたには、神にむかって「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか」(ヨブ21:14,15)と言う者たちに、あなたの声を混じえていた時期がなかっただろうか。あなたは恥じ入って、実はそうであったと認めなければならない。しかし、それらすべてが、今、どのようにして変えられたのだろうか。あなたを、高慢なうぬぼれからへりくだった嘆願者へ、神に敵する者から神との平和を持つ者へ、律法に反する者から服従する者へ、憎む者から愛する者へと導いたものは何だったのだろうか。あなたは「御霊によって生れた者」として、「神の恵みによって、私は今の私になりました」(Iコリ15:10)、と躊躇なく答えるであろう。それなら、ほかの反逆者らが救われないのが、神の力不足のせいであるとか、神が人に強いることを拒んでいるため、とかいうのではないことが明らかにならないだろうか。もし神に、あなたの道徳的責任を干渉することなしに、あなたの意志を征服し、あなたの心を勝ち取ることが可能であったならば、同じように、ほかの者にもできないだろうか。確かに神には可能である。そうであるならば、今の悪人の道とその行き着くところを説明するため、彼らは神を差し止めているとか、神に彼らを救うのは不可能である、と議論するあなたは、なんと矛盾した、なんと非論理的な、なんと愚かであろうか。「しかし、私が自発的になった時があり、自らキリストを自分の救い主として受けいれた。」、とあなたは言うのか。まったくその通りである。しかし、その時、主があなたを自発的にされたのである(詩110:3,ピリ2:13)。それでは、なぜ神はすべての罪人を自発的にされないのだろうか。これが、神は主権者であり、彼の思いのままにされるという事実にほかならない! では、はじめの問にもどることにする。
なぜ、すべての人、特に、福音を聞くすべての人は救われないのだろうか。まだあなたは、大多数の者が信じることを拒んでいるから、と答えているのだろうか。なるほど、それは真理である。しかし、真理の一面でしかない。それは人間の側からの真理である。ほかに、神の側からの真理もある。そして、この側の真理は強調される必要があり、さもなくば神の栄光は奪われてしまう。救われていない人は滅びる者である。なぜなら、彼らが信じることを拒んだからである。ほかの者は救われた。なぜなら、彼らが信じたからである。しかし、なぜほかの者たちは信じるのだろうか。何が原因で彼らはキリストに信頼をおくのだろうか。彼らが仲間たちより聡明であり、自分の救いの必要を認識するのに敏感であったためだろうか。とんでもない。「あなたが他の人と異なるようにするのは誰だろうか。あなたの持っている物で、受けなかった物があるだろうか。もし受けたのなら、なぜ受けていないかのように誇るのか。」(Iコリ4:7) 神御自身が、選ばれた者と選ばれていない者の間に違いを付けられるのである。なぜなら、御自身のものについてこう書いてあるからである。「また、私たちは神の子がすでに来て、彼が真理であられることを私たちが知るように悟りをくださったことを知っている。」(Iヨハネ5:20)。
信仰は神の賜物である。そして、「すべての人が信仰を持っているのではない」(Uテサ3:2)。したがって、神はすべての人にこの賜物を授けたのではない、ということが分る。では、いったい神は誰の上にこの救いの恵みを授けられたのだろうか。そこで、私たちは、神御自身の選びの民の上に、と答える。「永遠のいのちに定められていた者たち、その者たちが信じた。」(使徒13:48)。したがって、これがいわゆる「神の選民の信仰」(テトス1:1)である。そうすると、神の恵みの分配は不公平ということになるのだろうか。神にはそのような権利がないのだろうか。まだ「その家の善良な方に文句をつける」者たちがいるというのか。そこで、神御自身のみことばは十分な答えとなる。「わたしのものをわたしの望むようにするのは正しくないというのか。」(マタ20:15)。神は、自然界においても霊の世界においても、賜物を授けることについて主権者であられる。概括的所説はこれぐらいにしておき、これから詳細に述べていくことにする。
1.救いにおける父なる神の主権
被造物の運命の決定に関する神の絶対的主権を、聖書全体の中でもっとも力強く断言している聖句は、おそらくロ−マ書9章であろう。私たちはここで章全体を再確認するつもりはない。しかし、私たち自身を21節から23節の中に、すなわち、「陶器職人は、同じ粘土のかたまりを、一つは貴い器に、もう一つは粗末な器に作る権利をもっていないだろうか。もし神が、御怒りをあらわし、ご自身の力を示すことを望みつつも、滅びに備えられたその怒りの器を、多くの忍耐をもって忍ばれたとしたら、また同じく神が予め栄光に備えておいた憐れみの器に対して、その栄光の富を示そうとされたとしたらどうだろうか。」という聖句の中にとどめてみようと思う。これらの節は、堕落した人間を自ら動く力のない、無力な、命のない粘土の塊として表している。この聖句は、選ばれた者も選ばれていない者も、彼ら自身の中には何の違いもないことを証明している。彼らは、エペソ2章3節の、すべての人は生れながらに「怒りの子」であるとの提示に一致する「同じ粘土のかたまり」である。これは、すべての個人の最終的運命が神の意志によって決定されていることを教えている。そして、そうであることは真に幸いなことである。もし、私たちの意志に任せられたら、私たちすべての最終目的地は火の池になるからである。これは、神御自身が割り当てた被造物の、それぞれ行き着くところに違いをつけ、ある器は「貴い器に」、あるものは「粗末な器に」造られる。また、あるものは「滅びに備えられたその怒りの器」、あるものは「神が予め栄光に備えておいた憐れみの器」とされることを表している。
私たちが、神の御手の内にあるすべての人間を、陶器師の手にある粘土と見ることは、被造物の高慢な心に対し、その鼻をへし折ることになると認めなければならない。しかし、もろもろのみことばの真理は、事例をなんと貴重に描いていることだろう。人の傲慢、知的高ぶり、人間の神格化というこのような時代に、陶器師は器を自分のために形づくるのだということを主張する必要がある。たとえ人が彼の造り主に対し、好きなように奮闘したとしても、彼は結局のところ、天の陶器師の御手にある粘土にしかすぎない。神は被造物を公平に取り扱われ、全地をさばく方は、公義を行われることを私たちは知っている。しかし、それと同時に、神は御自分の器を御自身の目的のために、御自身のみこころに従って形づくられる。神は、御自身のものをみこころのままに取り扱う権利を主張される。
神は、御手の業による被造物に対し、ただみこころのままに行う権利を持っておられるだけではなく、神はこの権利を行使される。そして、それがよりはっきりと見られるのは、神の予定の恵みをほかにしてどこにもない。世界の基の置かれる前、神は特定の選択、選別、選出をされた。神の全知の目の前に、アダムの全子孫が置かれた。そして、そこから神は一つの民を選び出し、彼らを「ご自分の子に(養子に)しようと」予定された。また、神は彼らを「御子の似姿にかたどらせ」ようと予定し、永遠のいのちに「定め」られた。この祝福の真理を明らかにした聖句は数多くあるが、これら七つの箇所が私たちの注意を引くようである。
「永遠のいのちに定められていた者たちはみな信じた。」(使徒13:48) 人間の考え出した巧みな考えはみな、このみことばの鋭い刃を鈍くするため、あるいは、これらのことばの明白な意味をうまく釈明するために用いられてきた。実にむなしく用いられているものだ。もっとも、この聖句や似たような箇所は、生まれながらの人の思いには、何をもってしても決して調和させることができないのではあるが。「永遠のいのちに定められていた者たちはみな信じた。」 私たちはここに四つの事柄を学ぶ。第一に、信じることは結果であり、神の聖定の原因ではないということ。第二に、限られた人数だけが「永遠のいのちに定められていた」ということ。なぜなら仮にすべての人が例外なく、神によってこのように定められたとしたら、この「者たちはみな(as many as)」ということばは意味のない限定になるからである。第三に、この神の「定め」は、単に外形的な恩典のためではなく、「永遠のいのち」のためである。ただ仕えるためではなく、救いそのもののためである。第四に、神によってこのように永遠のいのちに定められていた者は、一人も欠けることなく、すべて(「その数の者」は)、確実に信じるのである。
愛するスポルジョンによる上記の箇所の注解は、私たちの着目点にふさわしい。彼はこう語る。「これまで、これらのことばが予定論を教えているのではないことを立証しようとされてきた。しかしこれらの攻撃は、明らかに言語を曲解しているため、私は、彼らへの返答に時間を浪費するつもりはない。私はこう読む。「永遠のいのちに定められていた者たちはみな信じた。」と。そして私は聖書を歪曲することをせず、むしろすべての人の信仰を恩恵に帰することで、神の恵みをほめたたえよう。信じるための意向をお与えになる方は、神ではないだろうか。もし、人々が永遠のいのちを持ちたい気持ちにされたのであれば、神が(すべての場合)、彼らをその気にされたのではなかろうか。神が恵みを与えるのは、いけないことなのだろうか。もし恵みを与えることが、神にとって正しいことであれば、与えようと意図されたことは、神にとっていけないことなのだろうか。あなたは神が、それを偶然にお与えになったと思っているのだろうか。もし、きょう恵みを与えようと意図されたことが、神にとって正しいことであれば、今日以前(神は以前から変わらない)の、永遠よりそれを意図されたことは、神にとって正しいことであったのだ。」
「それと同じように、今もなお恵みの選びに基づく残れる者がいる。もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでなければ恵みが恵みでなくなる。しかし、もし行いによるのであれば、それはもはや恵みではない。そうでなければ行いが行いではなくなる。」(ロ−マ11:5,6)。この引用句のあたまにある「それと同じように」ということばは、「わたしはバアルに膝を屈めなかった七千人をわたしのために残した。」と記されている前の節に私たちを注目させる。この「残した」ということばに特に目を留めよ。エリヤの時代に、神の力によって偶像崇拝から守られ、真の神知識に導かれた人々が七千人(少数派である)いた。この保持や照明は、彼ら自身の内にある何かからでは決してなく、ただ神の特別な誘導と摂理によっていた。彼ら一人一人は、このように「残れる者」となるため、神よってなんと高く恵まれたことだろう! そういうわけで使徒は、ちょうどエリヤの時代に「残れる者」がいたのと同じように、この今の時代にもいるといっているのである。
「恵みの選びに基づく残れる者」。ここに選びの原因を源までさかのぼっている。神がこの「残れる者」を選ばれた根拠は、彼らの内に予見された信仰ではない。なぜなら、善い行いを見越したうえでの選びというものは、これこそまぎれもない行いを根拠とした選びだからである。この場合、「恵みによる」ものではなくなる。使徒もこう言っているからだ。「もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでなければ恵みが恵みでなくなる。」と。これは恵みと行いが正反対であることを意味しており、それらには何の共通点もない。それは丁度、水と油が混じり合わないのと同じである。このように選ばれた者たちの内にある固有の善を予見したとか、賞賛に値する何かが彼らになされたという考えは、厳密にしめ出される。「恵みの選びに基づく残れる者」とは、神の主権的愛顧の結果なる無条件的選びを意味している。ひとことで言えば、完全な理由なき選びである。
「兄弟よ、あなたがたの召命に見るように、召されている者に肉による知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはない。しかし神は知者を混乱させるためにこの世の愚かな者を選び、強い者を混乱させるためにこの世の弱い者を選ばれたのである。また有るものを無きものとするために、この世の卑しいもの、軽んじられているもの、いや、無に等しいものを選ばれたのである。これは、神の御前で誰も誇ることのないためである。」(Iコリ1:26-29) この引用箇所では、神の選びが少なくとも三回引き合いに出されている。選びは必然的に、ある者を取り、その他の者を放置するある種の選出を連想させる。この選択者は神ご自身である。主イエスも使徒にこう言われた。「あなたがたは私を選ばなかった。むしろ私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と。ここに選ばれた者の数が厳密に限定されている。つまり、「肉による知者は多くはなく、力ある者も多くはなく」などである。これはマタイ20章16節と一致する。「そのように後の者は先に、先の者は後になる。これは大勢の者が呼ばれるが、少数の者が選ばれるからである」。神の選びの事実はこれくらいにするとして、次にその選びの対象に目を留めてみよう。
前の段落で語られている神に選ばれた者は「この世の弱い者、この世の卑しいもの、軽んじられているもの」である。しかしなぜだろうか。神の恵みを表し、誇張するためである。神の思いが人のそれとまったく矛盾しているのと同様に、神のなさり方もそうである。肉の思いは、キリスト教が壮観や面目をもって世から是認され、拍手喝采されるために、選びが、豊かさ、有力さ、温雅さ、教養などのある階級の中からなされると推測したであろう。ああ、しかし、「人の間で高く評される者は、神の目には忌むべきものである」(ルカ16:15)。神は「卑しいもの」を選ばれる。神は旧約時代において、そのようになされた。聖なる啓示の受託者として、また約束の子孫が来るための経路として、神が選び出された国民は、古代のエジプト人でも堂々たるバビロン人でも高度に教化された文明国ギリシャ人でもなかった。そうではなく、エホバがその愛を置き、「ご自分のひとみ」のように見守られた民は、軽んじられ、遊牧生活をおくるヘブル人であった。われらの主が人々のうちに宿られた時もそのようであった。ご自身と親密になるよう好意を示そうと思われた者、また彼の使いとして出て行くため任命された者は、その大部分が無学の漁師であった。ずっとそのようであった。今日でもそうである。すなわち、現在の増加の割合で言うと、まもなく主は、中国にいて見下されている真の神の民を、最も恵んでおられる米国より、また、アフリカの未開な黒人を、教化された(?)ドイツ人よりも多くされることが明らかになるだろう! 神の選びの目的、つまり神による選り分けがある理由は、「神の前に何者も誇ることのないため」である。神の選びの対象の中には、彼の特別な愛顧に値するものは何一つ存在しない。したがってすべての賞賛は、無条件で、すぐれて豊かな神の恩恵に帰されるのである。
「神、すなわち私たちの主イエス・キリストの父は誉むべき方。彼はキリストにおいて天のところですべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった。すなわち、世の始まる前から私たちをキリストのうちに選ばれたことにより、私たちが彼の御前に聖く傷のない者であるようにされた。神は、ご自身のみこころのよき喜びにしたがい、イエス・キリストにより、私たちをご自分に対して養子の子にしようと愛のうちに予定しておられた・・・彼のうちにあってまた、私たちは、ご自身のみこころの思いのままにすべてのことを働かせたもう御方の目的にしたがって予定されていた相続を受け継いだのである。」(エペソ1:3-5,11) ここに再び、神がイエス・キリストにより、ご自分の子となる者たちの選びをなされた時点(もし、それが時と呼べるとすればであるが。)について語られている。それはアダムが堕落し、自分の子孫を罪と悲惨に陥れた後ではなかった。アダムが光を見るよりはるか以前、さらに世界そのものの基礎がおかれるより前に、神は私たちをキリストのうちにお選びになったのである。私たちは、神がご自分で選んだ者に関する御自身の目的をもここに学ぶ。それは彼らが「御前に聖く傷のない者」であるためであり、「養子の子に」するためであり、彼らが「相続を受け継」ぐためであった。私たちはまた、神をそのように動かす動因をここに発見する。それは、「神は、イエス・キリストにより、私たちをご自分に対して養子の子にしようと愛のうちに予定しておられた」のであった----これは、しばしば、被造物の永遠の運命をそれらの生れる前から神が決めるのは専制君主的であり不公平であるとして論難され、悪人からの告発がなされる言明である。終わりに、私たちは、神がこの件に関してだれにも相談されることがなく、私たちは、ただ「ご自身のみこころのよき喜びにしたがい、予定され」たことをここに知らされる。
「しかし主に愛されている兄弟よ、私たちは常にあなたがたのために神に感謝しないわけにはいかない。なぜなら、神は御霊の聖化と真理の信仰を通して始めからあなたがたを救いに選ばれたからである。」(Uテサロニケ2:13) ここに三点の、特別に目を留めるべき事柄がある。第一に、神の選民の「救いに選」ばれている事実が、明白に告げられている。言語はこれ以上率直にできなかった。これらのことばは、選びを外的特典や働きの地位にだけ当てはめようとするあらゆるこじつけやごまかしを、なんと即座に片付けることか! 神が、私たちをお選びになったのは、「救い」そのものにであった。第二に、救いへの選びが、ふさわしい手段の使用を無視するものではないことを、ここに警告している。すなわち、救いは「御霊の聖化と真理の信仰」を通して到達される。神がある人を救いに選ばれたので、その人は信じようが信じまいが、いやが応でも救われる、というのは正しくない。聖書は、そのようなことをどこにも主張していない。終局を予定された同じ神は、その手段をも定められた。「救いに選」ばれた同じ神は、その目的が御霊の働きと真理の信仰を通し、必ず実現すると聖定された。第三に、神が私たちを救いにお選びになったことは、熱烈な讃美の深い原因である。使徒が、これをいかに強烈に言い表しているかに目を留めよ。「主に愛されている兄弟よ、私たちは常にあなたがたのために神に感謝しないわけにはいかない。なぜなら、神は・・・始めからあなたがたを救いに選ばれたからである。」うんぬん。みことばに明示されている祝福された真理であるこの予定の教理を見るとき、信仰者は、恐れてそれから後ずさりすることなく、むしろ二つとないこの提供に感激と感謝の土台を発見し、贖い主ご自身の、ことばにできない賜物を大切に守るのである。
「神は私たちを救い、聖なる召しをもって召してくださった。これは私たちの行いによってではなく、世界が始まる前からイエス・キリストにおいて私たちに与えられていた御自身の御計画と恵みによるのである。」(Uテモ1:9) 聖書の言語の何という明白さ、鋭さ! 他ならぬ人間が、自らのことばで摂理を暗くするのである。ここに述べられているより、さらに鮮明に、さらに強烈に、この事を述べるのは不可能である。私たちの救いは「私たちの行いによる」のではない。これは、救いが私たちの中の何かに原因があるのでも、私たちから出た何かに対する報いなのでもなく、むしろ救いは神の「御計画」と「恵み」の結果なのである。そしてこの恵みは、キリスト・イエスにおいて私たちに、世界の始まる前に与えられたということである。私たちが救われたのは恵みによる。そして神のご計画の中で、この恵みはただ私たちが光を見る以前というだけではなく、またアダムが堕落する以前というだけでもなく、実に創世記1章1節の「初め」より以前、というほど遠い昔に私たちに授けられたのであった。ここに神の民にとって難攻不落の慰めが横たわっている。もし神の選択が永遠からのものであったのならば、それは永遠につづくのである。「永遠に残るものは何もない。ただ、永遠から来たものだけが残る。そして永遠から来たのであれば、必ず残る」(G.S.ビショップ)
「従順のため、またイエス・キリストの血の注ぎを受けるために、父なる神の予知にしたがい、御霊の聖化を通して選ばれた者」(Tペテ1:2) ここにまた、御父による選びが、救われる者たちへの聖霊の働きと、彼らの側の信仰の従順に先立っている。このようにして被造物の土台をまったく取り去り、全能者の主権的みこころの中に置くのである。「父なる神の予知」は、万物に関する予知という意味ではここに用いられていない。それはすべての聖徒が、キリストにあって、神の思いの前に永遠に存在しているということを意味している。神は、ある者を永遠のいのちに「定めた」という事実を離れて、ある特定の者が福音を聞き、やがて信じるので予知されたというのではない。神の予知がすべての人の内に見たものは、罪への愛、ご自分への憎悪であった。「神の定めたみ旨と予知によって渡されていたお方を、あなたがたは捕らえ、邪悪な手で十字架につけて殺した」と使徒2:23に明らかにあるように、神の「予知」は神御自身の聖定に基づいているのである。ここににある順序に目を留めよ。まず、神の「神の定めたみ旨」(神の聖定)、次に、神の「予知」である。ロ−マ書8:28,29もまた同様である。「なぜなら、神は、予め知った者を御子の似姿にかたどらせようと予定された」のである。しかし、最初の「なぜなら」ということばは、前の節の中ほどの「ご自身の計画に従って召された人々のため」というところに目を向けさせる。彼らは神が「予知、予定」した者である。終わりに、私たちは聖書のなかに、神がある人を「知っておられる」ということについて読むが、このことばは是認と愛とをもって知っているという感覚で用いられていることを指摘しておく必要がある。「しかしもし人が神を愛するなら、その人は神に知られている」(Tコリ8:3)。偽善者に対してキリストもまた言われるであろう。「わたしは一度もあなたがたを知ったことはない」と。彼は一度もその者たちを愛されたことがなかった。「父なる神の予知にしたがい、・・・・選ばれた者」とは、神の是認と愛の特別な対象として、神に選ばれたことを示している。
これら七つの箇所の教えを要約すると、こういうことを学んできた。つまり、神はある者を「永遠のいのちに定め」られたということ。神の制定の結果として、彼らは、時が来ると「信じる」ということ。神が、ご自分の選民を救いに定められるのは、彼らの内に何か善いものがあるからでも、何か功績があるからでもなく、それはただ神の「恵み」によるということ。神は計画的に、もっとも意外に思える者を、ご自分の特別な愛顧の受け取り人に選び出されたのであり、これは「神の御前でだれをも誇らせないため」であったということ。神は世界の基礎を置く前から、ご自分の民をキリストのうちに選んでおられた。それは彼らが「御前で聖く、傷のない者となるため」であり、彼らがそのような者であったからではないということ。神はある者を救いにお選びになっているが、ご自身の永遠の計画が有効となるべく、神はその手段をもまた聖定されたということ。私たちがこれによって救われたというその「恵み」は、神のご計画の中で「世界が始まる前に、キリスト・イエスにおいて私たちに与えられた」ということ。神の選びの民は、その者たちが実際に創造されるはるか以前から神の思いの面前に立ち、神に「予め知られ」ていたのであり、すなわち限定された神の永遠の愛の対象であったということである。
この章の次の区分に移る前に、神の予定の恵みの動機に関してもう一言。私たちはこの土台をもう一度検討しよう。なぜなら、ある者を救いに予定するという神の主権の教理の、まさにこの点こそがもっとも頻繁に攻撃されるからである。この真理を曲解する者は、いつも、何か神が罪人に救いを授けるように動かす原因を、神御自身の御旨の外に見出だそうと努めている。造り主の御手から憐れみを受けるに値するものとする何かが被造物に帰されるのである。では、なぜ神はある者たちをお選びになったのだろうという質問にもどることにする。
選ばれた者自身の中に、神の思いを引き寄せる何があったというのだろう。彼らが、ある特定の美徳を所有していたからだろうか。彼らが寛大な心を持ち、心優しく、真実を語ったからだろうか。つまり、彼らが「善良」であったから神はお選びになったのだろうか。そうではない。われらの主は言われた。「ただおひと方以外に善なる者はいない。それは神である。」(マタ19:17)と。では、彼らが何か善い行ないを成し遂げたからだろうか。いや、こう書かれているではないか。「善を行なう者はいない。ひとりもいない。」(ロマ3:12)と。では、彼らが神を真剣に立証し、熱心に探ね求めたからだろうか。いや違う、こうも書かれている。「神を求める者はいない。」(ロ−マ3:11)と。では、彼らが信じるであろうことを神が予見したからだろうか。そうではないのだ。「もろもろの罪過と罪との中で死んでいた者」が、どうやってキリストを信じることができるだろうか。彼らの信じることが不可能であった時、神はどうやってある者を信者として予見できただろうか。私たちは「恵みによって信じ」(使徒18:27)ると聖書は宣言している。信仰は神の賜物である。この賜物から離れては、だれ一人として信じない。したがって、神の選びの原因は、神御自身の中に存するのであり、彼の選びの対象の中にあるのではない。神がある者を選ばれたのは、簡単に言えば、神が彼らを選ぶことをお選びになったからである。
われらは神の選びによる、
イエス・キリスト信ずる子なり。
とこしえからの定めによりて、
主権の恵み、今ここに受く。
主よ、汝があわれみ、これこそが、
恵みと誉れを与えしなり!
2.救いにおける子なる神の主権つづく
キリストは誰のために死なれたのか。御父が、キリストを死に至らせるためにお与えになったことに関して、明確な目的を持っておられたこと、また、子なる神が、自分のいのちを犠牲にするという確定した意図を神の前に持っておられたことについて議論する必要はまったくない。「神は世の始めから、そのすべてのわざを知っておられる」(使徒15:18) では、御父の目的と御子の意図とは何だったのだろうか。私たちは、キリストが「神の選民」のために死なれたと答える。
私たちは、キリストの死における限定的意図が、絶えず議論の的であったという事実について無頓着ではない。私たちは、私たちのほむべき主のご人格と御業に関して、それが何であれ最高の敬意をもって扱うように要求されていること、また、私たちがなすすべての断言を擁護するためには、「主はこう仰せられる。」が添えられなければならないことを忘れているのではない。われわれは律法と証しに問うべきである。
キリストは誰のために死なれたのか。キリストが、その血を流すことによってあがなおうとされたのは、誰のためだったのだろうか。主イエスが十字架に向かって行かれた時、彼の前に何か絶対的な決意があったのは確かである。もしそうであるならば、彼の計画の範囲が限定されていることが必然的になる。なぜなら絶対的な決意、計画は果たされなければならないからである。もしキリストの絶対的決意がすべての人間を含んでいたとしたら、すべての人間は一人残らず、確実に救われることになる。この避けられない結論を逃れるために、多くの人がこう断言している。つまり、そのような絶対的決意はキリストにはなかったのであり、その死において、ただ条件付き救いの規定がすべての人間のために設けられたのだと。この主張に対する論駁は、キリストが十字架に向かう前、正確には彼の受肉以前に、御父が御子に対して交わされた約束の中に見出だすことができる。旧約聖書は、御父が御子に、罪人たちの代表であるキリストの受難に対する特定の報酬を約束されたことを描写している。われわれは、あの有名なイザヤ書53章に記録された一、二の所説に目を留めてみようと思う。私たちは、そこに神が「あなたが彼のたましいを罪のための供え物とするとき、彼はその子孫を見る」とか、「彼は自分のたましいの激しい苦しみを見て満足する」とか、神の義のしもべは「多くの人を義と認める」(10,11節)と言っておられるのを見出す。しかし、私たちはここで立ち止まり、こう尋ねるてみる。つまり、人類のある一定数の救いが、神によって聖定されていて始めて救いは確実ということになるのに、そうでないとすれば、キリストが「その子孫を見」、「彼のたましいの苦しみを見て満足する」ということを、どのように確信できるというのだろうか。もしも、人は誰でもキリストを自分の救い主として受け入れなければならないという有効な提供が何もないならば、キリストが「多くの人を義と認める」ということが、どうして確かなことだと言えるのだろうか。一方で、主イエスは全人類の救いを明確に計画されたと主張することは、キリストが、その全知の力によって決して成らないことを知りつつなおも計画したなどという、知性ある者が誤ることのないような内容をもって、キリストを告発することになるである。したがって、キリストの死の、予め定めた目的に関する限り、キリストは選ばれた者のためにだけ死なれたという選択しか私たちには残っていないことになる。だれでも分ることだと思うが、あえて言わせていただくと、キリストは、単にすべての人に救いの可能性を開くために死なれたのではなく、実に、キリストは、父から与えられたすべての人の救いを確実なものとするために死なれたのである。キリストは、罪を容赦できるようにするために死なれたのではなく、「ご自分といういけにえによって罪を取り除くために」(ヘブ9:26)、死なれたのである。誰かの「罪」(すなわちIヨハネ1:7における「罪責」など)は、「取り除」かれている。聖書は少しの陰りも残さず、それは選ばれた者、神の民の「世」(ヨハネ1:29)であったというのである!
(1.)贖いにおける限定的計画は、御父がある特定の人々を永遠から救いにお選びになったことに続くものである。聖書は、主が受肉される以前に「見よ、神よ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」(ヘブ10:7)と言われたこと、そして受肉された後には、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」と宣言されたことを告げている。では、もし神が、初めからある特定の人々を救いにお選びになったのであれば、キリストのみこころは御父の御旨に完全に一致しているため、その選びを広げようとはなさらない。たったいま述べたことは、単に私たちのまことしやかな推論ではなく、みことばの明白な教えに厳密に調和したものなのである。私たちの主は、繰り返し繰り返し、御父が彼に「お与えになった」者たちに言及され、彼らのために特に働いておらたのである。彼は言われた。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。・・・わたしをお遣わしになった父が与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく終わりの日にもう一度よみがえらせること、これがその方のみこころです。」(ヨハネ6:37,39) また、「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。『父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたはすべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。・・・わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。・・・わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。・・・父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:1,2,6,9,24) 御父は世界の基の置かれるまえから特定の民を、御子のかたちと同じ姿に予定された。そして、主イエスの死と復活は、神のご計画を成就させるのが目的だったのである。
(2.)罪人への贖いの適用が、神のご計画の中で限定されていたことは、贖いの性質それ自体が証明する。キリストの贖いは、おそらく二つの主な見地から考察される。つまり、神に対してと人に対してである。神に対してとは、キリストの十字架の御業が、聖なる神の怒りを和らげるなだめであり、神の義と聖さを満足させたことである。人に対してとは、無罪の者が犯罪者の立場を引き受け、正しい者が正しくない者のために死ぬという身代わりであったということである。しかし、一人の人が多くの人に代わる完全な身代わりと、キリストが自ら負われた受難は、身代わりご本人と、彼がなだめたお方(キリストはその人々のために代わりに行い、罪を担い、律法上の負債を支払われたのである。)の明確な承認を含んでいる。その上、もし律法付与者が、身代わりによってなされた弁償をお受けになるのならば、身代わり人が身代わりとなってくださったその人々、キリスト引き受けられたその人々の身元は、当然、無罪とされなければならない。私が借金をしていて返済することができないとする。しかし誰かが来て、全額を貸し主に支払い、了承のうちに領収書を受け取ってくれたとするならば、法律の見地から貸し主は、もう私に何の要求もできないのである。主イエスは十字架の上で、ご自分を身の代金としてお与えになった。そして、それが神に受入れられたことの証明は、三日後に墓が開かれたことである。ここでわれわれは、この身の代金がいったい誰のために捧げられたのかという疑問を抱く。もしそれがすべての人のために捧げられたのだとすれば、すべての人が負うている借金は帳消しにされている。もしキリストが木の上で、例外なくすべての人の罪をその身に負われたのだとすれば、一人も滅び失せない。もしキリストがアダムの全子孫のために「呪われた者」とされたのであれば、今や、誰ひとり「罪に定め」られない。「神は二度も支払いを要求できぬ。一度はわが保証人の血まみれの手から。さらに再びわが手から。」 しかし、キリストは、例外なくすべての人のために借金を払われたのではない。なぜなら、いくらかの「牢に投げ込まれる」([比]Tペテロ3:19には、ギリシャ語の『牢』と同じ語が見出だされる。)人々がいて、彼らは「最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られない」(マタ5:26)からである。それは、当然ながら、決してならない。キリストはすべての人の罪を荷なわれなかった。なぜなら、いくらかの「自分の罪の中で死ぬ」(ヨハネ8:21)人々がいて、彼らの「罪は残る」(ヨハネ9:41)からである。キリストはアダムの全子孫のために「呪われた者」とされたのではなかった。なぜなら、キリストが「呪われた者ども、わたしを離れよ」(マタ25:41)と宣言するはずのいくらかの人々がいるからである。キリストがすべての人のため、等しく死なれたとか、彼が全人類の身代わり、保証人になられたとか、彼がすべての人間の代表、代理として苦しまれたとか言うことは、キリストが「現在、自ら呪いを招いている多くの人々のために呪いを荷なわれたとか、キリストは今地獄にいて苦しみながら上を見上げている多くの人々のために刑罰を受けられたとか、キリストは自らの永遠の苦痛の中で『罪から来る報酬』として『死』を支払う多くの人々のためにあがないの代価を支払われた」(G.S.ビショップ)と言うことと等しい。しかしこれに反して、聖書が言うように、キリストは神の民の反逆のために打たれたと言うこと、彼は羊のためにいのちを棄てたと言うこと、彼は多くの人の贖いの代価としてご自分のいのちをお与えになったと言うことは、キリストが完全に買い戻す贖いとなられたと言うことであり、実際に身の代となる代価を支払われたと言うことであり、実際になだめ得るなだめの供え物として示されたと言うことであり、彼こそが真に救い得る救い主であると言うことと等しいのである。
(3.)前述したことと密接に関連し、また確証的であるのは、主の祭司職に関する聖書の教えである。キリストが、今とりなしをなしたもう偉大な大祭司としての教えである。しかし、彼は誰のためにとりなしをされるのだろうか。全人類のためだろうか、それとも彼ご自身の民だけのためだろうか。この質問に対し、新約が与える答えは日光のように明白である。私たちの主は天そのものに入られ、「今、私たちのために神の御前に現れてくださる」(ヘブ9:24) そして、それは「天の召しにあずかっている」(ヘブ3:1)人々のためだったのである。また、こうも記されている。「したがって、キリストは彼らのためにとりなすため、いつも生きておられるので、彼によって神のもとに来る人々を完全に救うことができる。」(ヘブ7:25)。これは旧約の型と一致している。犠牲の動物を殺した後、アロンは神の民の代理人、代表者として至聖所へ入っていった。彼の胸当てにはイスラエルの各部族の名前が堀り刻まれていた。彼が神の前に現れたのは、民の幸いのためであった。これに一致するものとして、われらの主の、ヨハネ17:9のことばがある。「わたしは彼らのために祈ります。わたしは世のためにではなく、あなたがわたしにくださった者たちのために祈ります。彼らはあなたのものだからです。」 これに関連して、注意深い考察に値する他のみことばがロマ書8章にある。33節にこう質問されている。「神が選んだ者を訴えるのは誰か。」 そして、次に霊感された答えが続いている。「義とするのは神なのだ。罪に定めるのは誰か。死なれたのは、いや、再びよみがえられたのはキリストなのだ。この方は神の右におられ、そのうえ私たちのためにとりなしてくださるのだ。」 キリストの死ととりなしが一つの、同じ対象を持っていることに特に注意せよ! 型について言えることは、その本体についても言えるということである----償いととりなしはその範囲が同一なのである。もしキリストが「世のためにではなく」、選ばれた者のためにだけとりなしをされるとすれば、キリストはその者たちのためにだけ死なれたということになる。さらに注目していただきたいのは、主イエスの死、復活、高挙、執成しをもって、誰も神の選民を「訴え」ることのできない理由をここに掲げていることである。私たちが提出していることを、いまだに問題視する人々には、次に続く質問を注意深く考察させるがよい。すなわち、もしキリストの死がすべての人に平等に及ぶのであれば、すべて信じない者は「裁かれている」(ヨハネ3:18)という点から見ると、どうしてその死が訴え」に対する保証となることができるだろうか。
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