もくじ
神の主権
第3章
統治における神の主権
「主はご自分の御座をもろもろの天に備えられら。その王国はすべてを統べ治める。」(詩103:19)
神が物質世界を支配しなければならない必要性についてまず一言述べよう。しばらくの間、正反対のことを想定していただきたい。たたき台として、神は世界を創造し、いくらかの原則(人々が「自然の法則」と呼ぶもの)を立案し、決定し、その後神は身を引き、世界をそれらの原則から生じる必然的な成行きと運命とにお任せになった、と述べさせていただく。もしこれが本当だとすれば、私たちの世界は実に、知性的な最高統治者のいないものとなり、非人格的な法則、つまり著しい唯物主義や空しい無神論的概念だけによって管理されるものとなる。しかし、しばらくそのように想定し、これらの想定に照らして次の問題を熟考していただきたい。それは、その世界が当分のあいだ滅ぼされることはないという保障がどこにあるだろうかということである。「自然の法則」について、単にうわべだけの観察でさえ、それらの働きが均一ではない、という事実を明らかにする。この証明は、二つの季節が同様でない事実に見ることができる。もし自然の法則が、その作用において不規則であるなら、この地球を襲う、非常に恐ろしい、突然の大災害に対し、私たちはどんな保障を持っているのだろうか。「風はその欲する(好む)ところに吹く」とは、人がそれを利用することも妨げることもできないということである。ときには、猛嵐が吹き荒れることもあり、それが突然、容量を増したり、風速が加わったりして、広範囲に移動する台風に変わるかもしれない。もし、風を調節するのが、自然の法則による以外ないとすれば、明日、激しい大竜巻が襲い、地の表面にあるものすべてを一掃してしまうかもしれない。私たちはどこにこれらの災難に対する確実な保証を持っているだろうか。また近年、ある地方が、突然の豪雨で全面浸水し、財産も人の命も破壊され、荒れ果てている、ということをよく聞き、また読む。科学は豪雨をもたらす雨雲を防ぐ方法を考え出せないため、人間はこれらの前に実に無力である。それでは、このような大洪水が不定に増し、豪雨が地球全土を襲うことなどないと、どうして言えようか。これはなにも新奇なことではない。なぜノアの時代の大洪水は繰返されないのだろうか。地震はどうだろうか。数年ごとに、ある地震によって全く一掃される島や大都市がある。これに対し、人は何ができようか。当分の間は、巨大な地震が全世界を滅ぼすことなどない、という保障がどこにあろうか。科学は、この地球の比較的薄い地表の下が、巨大な空洞であり、赤く熱している、と教える。この炎の固まりが、突然、大噴出し、地球全体を焼き尽くすことはないなどと、どうして分るだろうか。読者の方々は、ここで何を言おうとしているのか、もうお分りいただけたはずである。つまり、神が物事を支配しておられることの否定、また、神が「その力あるみことばによって万物を支えておられる」(ヘブ1:3)ことの否定、さらに、すべて安全性への感覚は吹き飛ばされてしまうのである。
同じような論証法で、人類について追究してみよう。神は、私たちのこの世界を統治しておられるのだろうか。神は、あらゆる国民の運命を進め、あらゆる帝国の方針を統制し、あらゆる王朝の限界を決定しておられるのだろうか。神は悪人の限界を規定し、「ここまではしてもよい。しかし、それ以上はいけない」、と言っておられるのだろうか。しばらく、逆のことを考えてみよう。神が舵(主導権)を被造物の側に任せたとして、この想定が私たちをどこへ導いて行くか見てみよう。議論のため、こう言うことにする。全ての人は、全く自由な意志を持ちあわせ、この世にやって来た、そして、彼らの自由を破壊しないかぎり、強制も威圧することさえも不可能であると。また、全ての人は善悪の知識とそれらを選択する能力を持ち、自らの選択によって、自らの道を行くことに全く自由に放置されていると。それではどういうことになるのか。これは、人が自ら思いのままに行動し、人が自分の宿命の設計者であるため、人が主権者である、ということにつながる。しかし、この確信は、全く持つことができない。というのは、全ての人が、やがて善を退け、悪を選ぶようになるからである。この場合、道徳的自殺を犯している全人類に対して、何の保障も持てない。神の抑制を一切取り払い、人を全く自由に放置してみるがよい。すべての道徳的分別は即座に消え失せ、野蛮な霊があまねく勝誇り、世は悪霊の巣窟と化するであろう。違うだろうか。もし、ある国民が支配者を退け、その憲法を拒絶するとしたら、全ての国民が同じように行うのをどうやって防げるだろうか。ほんの1世紀前に暴徒達の血が、パリの通りに流された。もしそうだとすれば、この世代が終わるまえに、世界の隅々の全ての町で、同じような光景を目の当たりに見ることなどはない、という確実性がどこにあろうか。世界的放縦、全般的無秩序を食止めるものがどこにあろうか。以上のように、絶対的必要性を示そうと試みてきた。必要性とは、神が御座につき、政権を御自身の肩に荷い、御自身の被造物の動きや運命をコントロ−ルしてくださることである。
しかし、信仰の人が、神のこの世界における御支配を知覚するのは困難なのだろうか。油そそがれた目は、たとえ混乱と無秩序の状態の中にいても、至高者の御手が、人々の日常茶飯事の出来事においてさえも、コントロ−ルし、進めていることを識別しないだろうか。農業経営者と収穫物を例にあげて見るがよい。神が、彼らを放置したと仮定せよ。一人残らず耕地に草を蒔き、牧畜、酪農だけに従事するようになる。では、これらを何が防ぐようになるのだろうか。この場合、小麦ととうもろこしの世界的飢きんになるだろう。郵便局の仕事を見るがよい。みな手紙を書くのを月曜日だけに決めたと仮定せよ。局は火曜日に配達するように対処できるだろうか。また、どのように一週間の時間をバランスよく費やすだろうか。では、商店経営者はどうだろうか。もし主婦がみな水曜日に買物をし、週の残りは家からでないとすれば、一体どうなるだろうか。しかし、こうはならずにむしろ、違った国の農業者が、お互いに、人類のほとんど予想もつかないほどの必要を供給するのに十分に足る酪農を営み、また、いろいろな種類の穀物を栽培もしている。郵便は週の六日のうちにほぼ平均して分配される。そして、ある婦人は月曜日に、ある人は火曜日・・・というように買物をする。これらの事実は、神の御手による支配、操作を鮮明に証明していないだろうか!
以上、神が私たちの世界を統治される不可欠な必要性をしめしてきた。では、さらに神が御支配なさる事実、実際の御支配、神の統治が万物、全被造物に及び、執行されることを考察していこう。
1.神は無生物を支配する。
神が無生物を支配されること、つまり、無生物が神の命令を果たし、神の聖定を成就していることは、神の啓示の序幕から鮮明に示されている。神が「光があるように」と仰せられた。そして「光があった」と記されている。神が「天の下の水は一つところに集まり、乾いた地があらわれるように。」と仰せられると、「そのようになった。」とある。また「神は言われた。地は青草と種を生ずる草と、その種類に応じて実を結び、みずから種をもつ果樹を地に出すように、と。するとそのようになった。」とも記してある。詩篇記者も、こう宣言している。「主が語られるとそれは成り、命じられるとそれは固く立つ。」
創世記1章に述べられていることは、それに続く聖書全体を通して描かれている。アダムの創造の後、地に多量の雨が降るまでに16世紀が過ぎた。というのは、ノア以前に「霧が地から上がり地表全体を潤していた。」(創2:6)とあるからである。しかし、大洪水以前の人々の悪が満ちた時、神は「見よ、わたし、このわたしが、すべていのちの息のある肉なるものを天の下から滅ぼすために地の上に洪水をもたらす。こうして地にあるものはみな死ぬ。」と仰せられた。そしてこのことが成就するにあたり、こう記されている。「ノアの生涯の六百年の第二の月、その月の十七日目、その日非常に深い水の源がみな張り裂け、天のもろもろの窓が開いた。そして四十日四十夜、地の上に雨があった。」(創世6:17と7:11,12)と。
エジプトに下だった災いにおける、神の無生物への絶対的(そして主権的)支配を見よ。神の命令で、光は闇に変えられ、川は血になり、ひょうが降り、神を認めないナイルの地に死がくだった。そして、それは横柄な君主が、命乞いをするよう追込まれるまで続いた。次にあげる霊感された記録が、神の自然力に対する絶対的支配をどのように強調しているか特に注意せよ。「モ−セは天に向けて杖を伸べた。すると主は雷とひょうを送り、地の上を火が走った。すなわち主がエジプトの地にひょうを降らされた。それでひょうとひょうに混じった火があり、非常にひどかった。エジプト全土には建国以来このかた、未だこのようなことはあったことがなかった。ひょうはエジプト全土を、人も獣も野にあるものをみな打った。ひょうはまた野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた。ただイスラエルの子たちのいたゴシェンの地には、ひょうはなかった。」(出エジ9:23-26) 同じような区別が第九の災いの中に見られる。「主はまたモ−セに仰せられた。天に向けてあなたの手を伸べ、エジプトの地の上に闇が、さわれるほどの闇があるようにせよ。それでモ−セが天に向けて手を伸べると、濃い闇が、三日間、エジプト全土にあった。彼らは三日間、お互いを見ることなく、自分の所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの子たちはみな、その住いに光を持っていた。」(出エジ10:21-23)
上述した例は、隔離の状態によるのではない。神の聖定により、火と硫黄が天から降り、低地の町々は滅ぼされ、肥えた谷間は忌わしい死海へと変えられた。神の命令により、紅海の水は右と左に分けられ、イスラエルの人々は乾いた地を渡った。また、神のことばにより、水は再び巻返し、あとを追っていたエジプト人たちを滅ぼした。神からの一言により、地は口を開き、コラと彼に属する反抗的な集団はのみこまれてしまった。ネブカデネザルの炉は、普段の七倍の温度に上げられ、三人の神の子たちがその中に投げ込まれた。しかし、その火炎は彼らの服を焦がすことすらせず、むしろ三人を投げ込んだ男たちを殺してしまった。
ああ、創造主が自然界を治め、支配しておられる事実は、神が肉となって人々のうちに宿られたことで、いかに与えられ、実証されたことだろう! 舟の中で眠っておられる主を見よ。暴風が起った。風はとどろき、波は激しく荒れ狂う。主と共にいた弟子たちは、小舟が沈みはしないかとあわてふためき、主を起こし、こう叫んだ「私たちが滅びそうなのを何とも思わないのですか。」と。そして、次にこう書いてある。「そこで彼は起き上がり、風をいましめ、海に向って言われた。『やすらげ、しずまれ。』 すると風は止み、大いなるなぎとなった。」(マルコ4:39) さらに、海が、その造り主の意志により、主を波の上に保ったことに注目していただきたい。主からの一言により、いちじくの木が枯れたこともあった。主が触れたことで病気が即座に去ったこともあった。
もろもろの天体もまた、その造り主によって支配され、神の主権的みこころを成し遂げる。二つの描写を見ていただきたい。神の命令により、ヒゼキヤの弱い信仰を助けるため、アハズの日時計の上の太陽が十度もどった。新約時代、神は、星(東方の博士たちに現れた星)にご自分の子の受肉を布告させた。この星について、こう記してある。「彼らの前を行き、幼子のいるところまで来て、その上に止まった。」(マタ2:9)
これは、なんという宣言 --- 「主は、その命令を地の上に下される。主のことばは、極めてにすみやかに走る。主は羊毛のように雪をもたらし、灰のように霜をまかれる。主は、氷を片鱗ように投げ放たれる。誰がその寒の前に立つことを得よう。主はみことばを発し、これをとかしたもう。主は風が吹くようにし、水が溢れるようにされる。」(詩篇147:15-18) 四大の変化は、神の主権的支配の下にある。
雨を降らなくするのは神である。雨を降らせるのも神であって、意図される時に、意図される所に、意図されるままに、そして意図される者の上に降らせたもう。気象庁は、気象予報を提供しようと試みる。しかし、神は、なんとしばしば彼らの予測をあざ笑われることだろう! 太陽の黒点、変転する惑星のさまざまな動き、すい星の出没(異常気象が時々このためとされる)、大気の乱れ、などは第二原因にすぎない。これらすべてのものの背後には、神御自身がおられるのである。今一度みことばに語っていただこう。「またわたしは、収獲までにはまだ三月あった時、雨を差し止めてあなたがたに下さなかった。ある町には雨を降らせ、別の町には雨を降らせなかった。ある区域には雨が降り、雨が降らなかった区域は枯れた。それで二つ三つの町が水を飲むために一つの町にさまよい歩いたが、彼らは満たされなかった。しかしあなたがたはわたしに帰ってこなかった、と主は言われる。わたしは立ち枯れ病とうどんこ病であなたがたを打った。すなわち、あなたがたの畑、あなたがたのぶどう園、あなたがたのいちぢくの樹、あなたがたのオリーブの樹が増えた時、虫(ぎじばり palmerworm)がそれらを食い尽くした。しかしあなたがたはわたしに帰ってこなかった、と主は言われる。わたしはあなたがたのうちに、エジプトでしたように疫病を送った。あなたがたの若者をわたしは剣で殺し、あなたがたの馬を奪いさり、宿営から出る悪臭が、あなたがたの鼻にのぼるようにした。しかしあなたがたはわたしに帰ってこなかった、と主は言われる。」(アモス4:7-10)
まさに、神が無生物を支配しておられる。地と空中、火と水、ひょうと雪、暴風とおおしけの海など、すべては神の力あるみことばを成し遂げ、神の主権的御意志を成就している。したがって、私たちが天気のことで不平を言うとき、実は、神にむかってつぶやいているのである。
2.神は理性のない被造物を支配する。
創世記2:19に見出だされる、神の動物界への統治の描写は、なんと印象的であろうか。「主なる神は、地から、野のすべての獣と空のすべての鳥を形造り、アダムがそれらを何と名づけるかを見るために、それらを彼のところに連れて来られた。そしてアダムが生き物につけた名はすべて、そのものの名となった。」 もし誰かが、これはアダムの堕落の結果、全被造物に呪いが下される以前の、エデンの園において起こった出来事である、と言うとすれば、次の引用は、この異論に十分に答える。つまり、神の獣に関する御支配は、大洪水の時、再び、公に表わされた。神がどのようにして、そのお造りになった全種類の被造物が、ノアのところに「来るように」されたか注意していただきたい。「肉のすべての生き物を、全種類を二匹づつ、それらがあなたとともに生き残るために、あなたは箱舟の中にたずさえ入れなければならない。それらは雄と雌でなければならない。その種類ごとの鳥、その種類ごとのすべての這うもの、全種類のものが二匹づつ、あなたのところにやって来る。」(創6:19,20) --- これらは、すべて神の主権的支配のもとにあったのである。ジャングルに生きるライオン、森林地帯のぞう、北極地方の熊、凶猛なひょう、野生の狼、どう猛なトラ、高く舞い上がる鷲や地を這うワニ、みな生れつき狂暴なものばかりであるにもかかわらず、自分の造り主の意志に静かに服従し、二匹づつ箱舟の中へ入って来たのだ!
私たちは、神の無生物に対する御支配の描写として、エジプトに下された災いを引用した。では、もう一度そこを開き、理性のない被造物の上に、神の完全な、統治者としての位がどのように表わされているかを見てみよう。神のことばによって、川はおびただしいかえるを出し、かえるはパロの宮殿や家臣たちの家々に入っていき、自然の本能に反して、寝台に、かまどに、こね鉢に入ってきた(出エジ8:13)。エジプトの地にはハエの大群が押し寄せてきたが、ゴシェンの地には一匹もいなかった(出エジ8:22)。次に家畜が打たれた。つまり、こう記してある。「見よ、主の手が野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上にある。すなわち、非常にひどい病気が起こる。そして主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜を分けられる。イスラエルの子らに属する者はどれ一つ死なない。』と。また主は時を定めて仰せられる。『明日、主はこの地にこの事をされる』と。そして主は翌日、この事をされたので、エジプトの家畜は全部死んだ。しかし、イスラエルの子らの家畜は一つも死ななかった。」(出エジ9:3-6) 同じように、神は、パロとその地方に対し、いなごの大群による災いを送り、来襲の時を定め、通り道を決定し、浸蝕の限度を指定された。
天使だけが、神の命令を遂行する唯一の存在、というのではない。獣類にしても、同様に神の欲するところを成し遂げている。神聖な箱、契約の箱はペリシテの村に置かれていたが、どのようにしてもとに戻されただろうか。神のしもべたちの判断と、それらがいかに見事に神の支配の下にあったかに注意せよ。「ペリシテ人は祭司と占い師を呼んで言った。『主の箱をいったいどうしたらいいか。どうやってこれをもとの所に返したらいいか教えてくれ。』そして彼らは言った。『……だから今、新しい荷車を一つ作り、まだくびきを負ったことのない乳牛二頭を取り、その牛を荷車に繋ぎ、その子牛を引き離して家に連れ帰りなさい。そして主の箱を取り、これをその荷車に載せ、罪過のささげ物のためにあなたがたが彼に返すところの金の装飾品を宝箱に入れてその脇に置き、牛の行くままに去らせなさい。そして、牛がその境の道を通ってべテシェメシュまで上り行くかどうかを見よ。もしそうするなら、かの者がわれわれにこの大いなる災いを下したのだ。しかし、もしそうしないなら、私たちを打ったのはその者の御手ではなかったということを知るだろう。私たちに起こったことは偶然によるのである。』」 そしてどうなっただろうか。続きは、なんと印象的だろう。「牛はベテシェメシュの道にまっすぐ進んで行き、鳴きながら大路に沿って行った。右にも左にも曲がらなかった。」(Iサム6:12) エリヤの場合も同じく印象的である。「そして主のことばが彼に来て言った。『ここを去ってヨルダンの前にあるケリテ川の近くに身を隠せ。そこでその川から飲むことができる。また、わたしは烏に命じてそこであなたを養うようにした。」(I列王17:2-4)。この鳥の、餌をついばむ自然の本能は服従のうちに抑制され、食べ物を食いつくすことはせず、人里離れた所に身を隠している、エホバの僕に運んで来たのだった。
これ以外にも証拠が求められているというのだろうか。よかろう。神は、物を言うことのないろばに、預言者の気違いざたをとがめさせた。神は、エリシャを悩ます四十二人を害するため、森の中から二頭の雌熊を送り出した。神は、御自分のことばの成就において、姦悪なイゼベルの血を犬になめさせた。神は、ダニエルがほら穴に投げ入れられた時、バビロンのライオンの口を堅く閉ざし、後にそれらを用いて、預言者を訴える者を滅ぼされた。神は、不従順なヨナを飲込むのに、大魚を備えられた。そして、神の定めの時にさしかかり、彼を乾いた地に吐出すようにしむけられた。神の命令によって、魚が納入金のための金貨まで運んできた。また、神は、ペテロの否定の後、御自分のことばが成就するために、鶏が二度鳴くようにされた。このように、私たちは神が理性のない被造物を統治されるのを見る。つまり、野の獣、空の鳥、海の魚、すべて神の主権的命令を果たすのである。
3.神は人の子たちを支配する。
私たちはこれが、今取扱っている主題において、もっとも難解な部分であることを十二分に承知している。またそれゆえに、より一層くどくどと、この後も取扱っていくのである。ただ、詳細な問題に着手するまえに、この段階ではまず、人々への一般的な神の統治の事実を考えてみることにする。
二つの選択肢が私たちの前に置かれていて、そのどちらかを選ぶように余儀無くされている。つまり、神が統治するのか、それとも、神は統治されるのか、神が支配するのか、神は支配されるのか、また、神が御自分の意向を持っておられるのか、それとも、人が自らの意向をもっているのか、である。これらは、私たちにとって、選びがたい選択であろうか。人を見るとき、これは神の支配を上回った、手に負えない被造物だ、というべきであろうか。あるいは、罪が、三つにいます聖なるお方から罪人を遠く切り離してしまったため、人は、神の支配権の柵の外側にいる、とでも言うべきであろうか。それとも、人には、道徳的責任が授けられているので、神は、人を少なくとも、その執行猶予の終りまでは、全く自由に放置されるはずだ、と言うべきなのだろうか。生まれながらの人間は、天に対して不法者であり、神の統治に対して反逆者である、という理由から、神には彼らによってご自分の目的を果たすことが不可能である、と必然的に続くだろうか。私たちは単に、神は悪人どもも行為の結果を支配されることもあるとか、やがて神は悪者を連れて来て、刑罰の宣告をするため、ご自分の裁きの座の前に彼らを立たせられるだけだ(キリスト者以外の大多数の者がこう信じている)とか、言っているのではない。私たちは、神の支配下にある人の、最も放縦な行為のすべてが、まったく神の操作の下にあり、実に当の本人でさえ、自らは気づかずに至高者の隠された聖定を成し遂げているということを言っているのである。ユダが丁度そうではなかっただろうか。これよりも極端な例を見つけ出すことができるだろうか。もし、反逆者のかしらが神の計画を成し遂げていたとすれば、すべての反逆者も同じである、と信じるために、私たちの信仰に何か重い負担がかかるのだろうか。
ここでの目標は、哲学的な研究でもなければ、形而上学的詭弁でもない。目標は、この奥深いテ−マに関する聖書の教えを確かめることである。私たちは律法と証しによってのみ、神の統治(その特性、意図、方法、範囲)を知ることができる。では、神が、ご自身の御手の業(特に、最初、神ご自身のかたちに似せて造られた者)を統治するその支配について、さいわいなるみことばのうちに示すことをよしとされるようにしたのは何なのか。
「神のうちに、私たちは生き、動き、存在している」(使17:28) なんという包括的な断言であろうか。注目していただきたいのは、これらの書き留められた言葉は、ある神の教会や高い霊的水準に達している聖徒たちの集まりに向かって語られたのではなかったということである。それは、異教の聴衆者、「知られない神」を拝んでいた者たち、死者の復活のことを聞いて、あざ笑った者たちに向かってであった。さらに、使徒パウロは、アテネの哲学者、エピクロス派、ストア派たちに対しても、彼らが神のうちに生き、動き、存在しているということ、つまり、彼らが自分の存在と保持とを、世界とその中にあるすべての物をお造りになった方に負っているというだけでなく、そこには彼らの行動そのものも含まれ、したがって、彼らが天地の主に支配されているのだということを証言するを躊躇しなかった。ダニエル5:23の後半部分と比較せよ!
「心のいろいろな考え、舌の答えは主から来る」(箴16:1) 上記の宣言は、一般的な適用であることに注意せよ。これは、単に信者のことを言っているのではなく、「人」のことを宣言しているのである。「人の心は自分の道を考えはかる。しかし主がその歩みを導く。」(箴16:9) もしも主が人の歩みを導くのであれば、これこそ人が神に支配され、統治されている証明にならないだろうか。さらに「人の心には多くの思いはかりがある。しかしただ主のみ旨のみが立つ。」(箴19:21) これは、たとえ人が願い、計画したどんなことでも、実施するのは彼の造り主の意志であるということ以外に何を意味することができようか。では、「愚かな金持ち」の例を一つ取り上げてみよう。彼の心の「思いはかり」のことが明かにされている。つまり、「彼は心の中で言った。『さてどうしよう。収穫物を蓄えておく所がない。』 そしてこう言った。『こうしよう。この倉庫を壊し、もっと大きいものを建てて、そこに私の収穫物と善き物を全部納めよう。そして私のたましいに言おう。たましいよ、おまえは何年分も蓄えられた多くの善き物を持っている。安心して食べ、飲み、楽しめ。』」 これが、彼の心の「思いはかり」であった。しかし、立ったのは「主のみ旨」であった。金持ちの「私は〜しよう」は無に帰した。「神は彼に言われた。『愚か者、今夜おまえのたましいは取られる。』」(ルカ12:17-20)
「王の心は主の御手のうちにあって、水の流れのようなものである。主はみこころのままにその向きを変える。」(箴21:1) これよりさらに明白になれるだろうか。人は「その心の中で思っているとおりの者である」(箴23:7)とあるから、心から出るものは「生から流れ出たもの」(箴4:23) なのである。もし、人の心が主の御手のうちにあるのなら、また、もし、「主はみこころのままにその向きを変える」のであれば、人、つまり統治者も支配者も、すべての人が完全に全能者の統治上の支配下にいる、ということが明らかにならないだろうか。
上記の宣言には、すこしの限度も置かれてはならない。すくなくとも幾人かが、神のみこころに逆らい、そのご計画をくつがえしている、と主張することは、他の同じように明白な聖書箇所も拒絶しているのである。次の聖句をよく考えてみるがよい。「しかし彼の思いは一つである。誰が彼を変えられよう。そのたましいが望むこと、これを彼は為したもう。」(ヨブ23:13) 「主のみ旨はとこしえに立ち、そのこころの思いは世々に至る。」(詩33:11) 「主に逆らう知恵、悟り、計画など一つもない。」(箴21:30) 「万軍の主が定めたというのに、誰がこれを取り消そう。その御手が伸べられたら、誰がこれを押し返そう。」(イザ14:22) 「古い昔からのことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない! わたしが神である。わたしのように初めから終わりのことを、まだなされていない事を昔から告げ、わたしの御旨は立ち、わたしは自分のよろこびをことごとく成す、と言うような者はだれもいない。」(イザ46:9-10) これらの箇所には少しのあいまいさもない。彼らは、エホバの目的が無に帰するなどあり得ない、ということを最も率直、かつ無条件的なことばによって証言しているのである。
もし、私たちが聖書を読むとき、人々の行動(善人だけでなく悪人のも)が主によって統御されていることを見落としているとすれば、その朗読は空しい。ニムロデと彼の部下たちはバベルの塔を建てる決心をしたが、事業が完成しないうちに、神はその計画をくじかれた。神は、アブラハム「ひとり」を呼び出された(イザ51:2) 。しかし、彼がカルデヤのウルを出た時、親類の者も同行した。はたして神のみこころが打破されたのだろうか。絶対にそんなことはない。続きに注意せよ。テラはカナンに到着する前に死に(創11:31)、ロトも約束の地に向けて、おじに同行したが、すぐ彼から離れ、ソドムに定住した。ヤコブこそが相続を約束された子であった。イサクはエホバの聖定に反し、エサウに祝福を授けたいと望んだが、彼の努力は無に帰した。エサウは、またヤコブへの復讐を誓った。しかし、彼らが再開したとき、憎み争うのではなく、喜びに涙した。ヨセフの兄弟たちは、彼の撲滅を決心したが、その陰険なたくらみはくつがえされた。パロは、イスラエルがエホバの命令を成し遂げようとするのを拒み、その骨折りのために公海において滅びた。バラクは、イスラエルの民を呪うためにバラムを雇った。しかし、神は強いてバラムに祝福させた。ハマンは、モルデカイのための絞殺台を立てたが、彼自身がそこに架けられた。ヨナは、啓示された神のみこころに反抗した。しかし、その骨折りはどうなっただろうか。
ああ、異教徒は「騒ぎたち」、人々は「むなしいこと」を思い謀るだろう。地の王たちは「立ち構え」、支配者たちは謀り合せ、主とキリストに逆らって言うだろう。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を捨て去ろう。」と(詩2:1-3) しかし、偉大な神が、ご自分のとるに足りない被造物の反逆のためにかき乱されたり、荒らされたりするだろうか。そんなことはありえない。「天に座しておられる方は笑う。主は彼らをあざけられる。」(4 節) 神は、すべてのものの上に無限に高められる。そして、神の目的をくつがえそうと、もっとも広範囲に、もっとも勢力的に構える、地のもっとも大きな連合隊の手先どもは、神にとっては、まったくの子供だましである。神は、その微弱な努力を座視しておられる。それも、ただ驚かずに見ておられる、というだけでなく、彼らの愚かさを、神は「笑って」おられるのである。また神は、彼らの無力を「あざけり」ながら扱われる。神は、ご自分の好きな時に、彼らをまるで、蚊のように推しつぶしたり、ご自身の御口の息によって、瞬く間に焼き尽くしたりし得ることを知っておられる。ああ、地の陶器の破片が、天の栄光ある至上権と戦うとは、「むなしいこと」以外の何ものでもない。これが私たちの神である。この方を拝せよ。
神が、人間の取扱いにおいて、あらわされた主権にも注目せよ! エジプトの国王に虐げられている神の民の解放を要求するために、神の代弁者に選ばれたのは、口の重くない兄のアロンではなく、口の重いモ−セであった。モ−セはまた、大いに愛された者であったが、一言軽率な言葉を発したため、カナンから除外されてしまった。ところが、激しくつぶやいたエリヤは、ゆるい非難を受け、後に死を見ることなく天に連れ去られた! ウザは、箱に触れただけであったが、即座に殺されてしまった。ところが、ペリシテ人が勝利し、侮辱的に神の箱を奪い去った時は、ただちに災いを受けることはなかった。滅亡に定められたソドムを、悔い改めさせたであろう恵みの連続は、より恵まれていたカペナウムを動かさなかった。ツロとシドンを従順にしたかもしれない力ある業は、責められていたガリラヤの町々を、彼らが福音に否定的であったために、呪いの下に捨て置いた。もし、それらが前者を征服したのであれば、なぜ、そこでなされなかったのだろうか。もし、それらが、後者を救い出すのに無力であると分かっていたのであれば、なぜ、それらをなさるのだろうか。これは、なんという絶対者の主権的みこころの表示だろう!
4.神は、よい天使も邪悪な天使も、ともに支配する。
天使たちは、神のしもべであり、神のメッセンジャ−であり、神の戦車である。彼らは、絶えず神の御口のことばに聞き従い、その命令を行っている。「また神は、エルサレムを滅ぼすために使いを遣わされた。彼が滅ぼしていたとき、主はご覧になり、その災いについて自らを思い直し、その滅ぼす使いに言われた。『それで十分だ。今あなたの手をとどめよ。』と。・・・そして主はその使いに命じられた。そこで彼は再びその剣をさやに納めた。」(T歴21:15,27) 他の聖書箇所も、天使たちが自分の造り主の意志に服従し、命令を果たしていることを示すために引用されたりする。「ペテロがわれに返ったとき、こう言った。『私は今、主がその使いを遣わしてヘロデの手から、私を救い出してくださったのだとはっきりとわかった。』」(使12:11) 「聖なる預言者たちの神であられる主は、必ず速やかに起こるべき事をご自分のしもべたちに示すために、その使いを遣わされた。」(黙22:6) 主の再臨の時はこのようであろう。「人の子はその使いたちを遣わし、彼らはその王国からすべて不快なものと不法をなす者とを集め・・・」(マタ13:41) またこう言われる。「彼は大いなるラッパの音とともに使いたちを遣わし、使いたちは、天の端から端まで四方から選びの民を集める」(マタ24:31)
悪霊についても同じことがいえる。彼らも、神の主権的聖定を成し遂げる。悪霊が、神によって遣わされ、アビメレクの宿営に反逆が引き起こされている。「神はアビメレクとシケムの民のあいだに悪霊を送り・・・それは兄弟を殺すのを助け」(士師9:23-24) 神は、アハブの預言者たちの口に、偽りを言う別の悪霊を送られた。「さあ、だから見よ。主は偽りを言う霊を、このあなたのすべての預言者の口に入れ、また主は、あなたにかかわる災いを語られた。」(I列王記22:23)。また別の悪霊が、サウルを悩ますために、主から送られた。「しかし主の霊はサウルを離れ、主からの悪霊が彼を悩ませた。」(Iサム16:14)。新約においても同じである。悪霊の全群団は、豚の群れに入ることを主が許されるまで、そのえじきを出ることはなかった。
聖書からこのことは明らかである。つまり、善い天使も悪い天使も神の支配の下にあり、自ら進んで、あるいはしぶしぶと、神の目的を成し遂げている。実に、サタンそのものも神の支配に左右されるのである。エデンの園での罪状認否を問うとき、彼は恐るべき宣告を聞いたが、一言も答えなかった。彼は、神の許可が下りるまで、ヨブにふれることができなかった。同じように、彼はペテロを「ふるいにかける」前に、主の承諾を得なければならなかった。キリストが悪魔に、離れるように「サタンよ、退け」と命令された時、「それで悪魔は彼を離れ」(マタイ4:11)たのである。こうして悪魔は、ついには彼とその使いたちのために用意された火の池に投げ込まれるのである。
神である主は全能の力をもって支配される。神の統治は、無生物に、理性のない獣に、人の子らに、善い天使たち、悪い天使たちに、そしてサタンそのものに対して行使される。どんな地球の回転も、星の輝きも、嵐も、被造物の動きも、人々の行動も、天使たちの任務も、悪魔の行為も、巨大な宇宙にあるどんなことも、神が永遠に意図されたこと以外、何一つとして起こらない。ここに信仰の土台がある。ここに知性の憩い場がある。ここに魂のための、安全で不動の錨がある。世界を司っているのは、無目的な宿命や、抑制のない悪、人間や悪魔ではない。それは、全能の主である。そして主は、ご自分のみ旨のよろこぶところに従い、御自身の永遠の栄光のために、世界を支配しておられるのである。
空の張らるるなお昔、
万年さきにあらかじめ、
現世も来世もことごとく、
主のみむねには今と見ゆ。
神の定めに見ぬ鳥も、
虫けら一つ世にはなし。
み旨のままに王を立て、
み旨のままに廃したもう。
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