現代の福音伝道


A.W.ピンク




 今日、一般に福音伝道と呼ばれるほとんどのものは、まことのクリスチャンにとって悩みの種である。それが聖書的な根拠をまったく欠き、神の御名をはずかしめ、教会を空虚な信仰告白者で満たしつつあるのを感じているからである。あの神聖な主イエス・キリストの御名に、泡のような浅薄さや、肉的感情の高揚、世的に魅了するものなど非常に多くのことが結びつけられている事実に、彼らはあきれかえっている。また、自分たちにとって、言いようもなく神聖な福音が、世俗化し、商売のように扱われ、不注意な魂を誘い込もうと、安売りされているのを嘆いている。いく分かの霊的識別力を持ちあわせていなければ、前世紀の間にキリスト教の伝道活動が、次第に、しかも確実に悪化していったのに気づかないだろう。しかし、いくつかは、この悪の根源を突き止めることができそうである。そこで、これをあばくのが当面の課題である。目標が誤っていた。だから欠陥のある実を生じた。

 神の最高の目的は、ご自身の栄光をあらわすことであり、自らがどれほど無限に栄光ある存在であるかを、被造物の前に輝かすことである。それこそ、神が行い、お語りになるとき、第一にめざす目標、目的である。神はそこから、決してそれることがなかったし、これからも絶対にない。神は、罪が世に入るようお許しになったではないか。神は、ご自分の愛する御子が肉体をとり、神の律法への完全な服従をささげ、苦しんで死ぬように計画されたではないか。神は、今現在、永遠にご自身の誉れをあらわす一つの民を、ご自分のために、世から取り出しているではないか。世界のすべてのことは、神の摂理的取り扱いによって秩序づけられ、神の目的に向けて導かれ、現に影響を及ぼしているではないか。神のいかなる動きであれ、それを左右するものは、ご自身の目的以外にはないのである。『というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。ア−メン。』(ローマ 11:36)

 この最高で、基本的な真理は、聖書のいたるところに太陽の光のような明瞭さで記されている。それがわかる者は盲目ではない。すべてのことは、神によって、一つの目的のために定められている。罪人の救いはそれ自体目的ではない。なぜなら、たとえすべての者が永遠に滅んだとしても、神が敗者になるということは決してないからである。そうではない。神が罪人を救う業は、『神の恵みの栄光が、ほめたたえられるため』(エペソ1:6)という目的を果たすための手段にほかならない。そこで、この根本的な事実からして、神が私たちによって崇められるために、当然、私たちのねらい、目的をも同じにすべきだということになる。『何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』(Tコリント10:31) 同じく、これは説教者の目標でなければならないということにもなる。そして他のすべては、これに従属しなければならない。なぜなら、これ以外はすべて二次的な重要さと、価値しかないからである。しかし、実際はどうだろうか。宗教界の最近のスロ−ガン「若者をキリストに」を見るがよい。はて、どこが悪いというのだ。その強調点である! なぜ「キリストを若者に」ではないのか。

 もし、福音伝道者が、至上で不断の目標である神の栄光を表すことに失敗するなら、その人は確かに間違った方向に向かっている。そして、もしそうならば、彼のすべての努力は多かれ少なかれ空を打つ拳闘となる。彼が、それ以下のものを目的にすえるなら、どんなものであれ、その人は確実に誤りに落ち込むのである。なぜなら彼は、もはや神にふさわしい地位を帰していないからである。私たちは、いったん独自の目標を設定すれば、独自の手段を採用することにもなる。二、三世代前に福音主義が失敗したのは、まさにこの点であった。そして、この地点からしだいに遠く離れていった。福音主義は「魂の獲得」をゴ−ルとし、最高度の善とした。そして、これ以外はどんなものも、この目的に仕え、これに敬意を払うようにしむけられた。神の栄光が実際には否定されていなかったとしても、それは見落とされ、押しのけられ、二次的なものとされていた。さらに、次のことを心に明記しよう。すなわち、神は、説教者がみことばに固執し、ただ自分の気に入った部分だけでなく、『神のご計画の全体』を忠実に伝えることにまったく比例して崇められるのだということを。

 教会の会員数を満たすために人々を形式的な信仰告白へと急がせ、それ以上のことを目標としないような安売り伝道者についてはここで何も言うことがないが、滅びゆく人々への真実なあわれみと、深い憂慮によって心を動かされている人々や、来たるべき怒りから魂が救い出されるために真剣に求め、熱心に努力している人々のことを考えて見よ。しかし、彼らも自らよくよく注意していないと、必ず、誤ることになる。人の救いにおいて、神のなさる方法 --- 神が栄光を受けるという方法 --- をしっかり見すえていなければ、彼らも、自分たちが採用した手段をもって早々と妥協するようになっていくのである。現代の福音伝道の熱心な説得は、三位一体のエホバの栄光を高めるやり方ではなく、回心者を増やすやり方である。過去五十年間における福音的活動全体の風潮は、この傾向に準じたものである。教会は神の目的を見失い、独自の手段を案出した。

 肉の精力は、ある目的達成を決心すると、思いのままに突進した。そして、その目的が正しいと判断すると、伝道師たちは、目的達成の助けになるものは、決して誤りにはなり得ないと結論した。そして、彼らの労が見事に成功したかに見えると、残念ながら、多くの教会は「目的は手段を正当化する」と自ら言い聞かせて黙従したのである。彼らは、提案された計画や採用された手段を聖書の光によって検討することもなく、むしろ便宜上の理由で暗黙のうちに受け入れた。伝道師は、そのメッセ−ジの健全さのためにではなく、彼が獲得した目に見える「結果」によって尊重された。彼は、その説教がどれほど神を崇めたかによってではなく、その働きのもとでどれだけの魂が回心したと推定されるかによって尊ばれた。

 人が、一度、自分の主な意向であり、最終の目的とする罪人の回心をもたらすと、その人は間違った方針をきわめて取り入れやすくなる。彼は、真理をまっすぐ説くことに専念するのではなく、再生していない人が、なるべく聞きやすいように真理を弱めるのである。ただ一つの目的によってせきたてられ、ただ一つの方向にだけ行く。彼の目的は回心を容易にすることであり、したがって、好みの聖句(ヨハネ3の16など)が絶えず強調されており、一方、他の聖句は無視され、削りとられていく。自分の持っている神学には、必ず反応するが、みことばの中のさまざまな句が、反対を受けない限り避けられていく。はたして彼の思いの中には、次のような宣言に場所をゆずる余地があるのだろうか。『エチオピア人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。』(エレミヤ13:23) 『わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』(ヨハネ6:44) 『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ』(ヨハネ15:16)

 彼は、神の主権的選び、キリストの特定者の贖い、聖霊の超自然的働きなどの真理を制限するように、ひどい誘惑を受けるであろう。

 二十世紀の福音主義には、人間の全的堕落という重大な真理についてのはなはだしい無知が存在している。罪人の回復不可能な病状と状態がまったく軽視されている。すべての人は生まれながらにまったく腐敗していることや、しかも人は、自分が悲惨な状態にあり、盲目であり、自分の力ではどうすることもできず、罪過と罪との中に死んでいることをまったく気づかずにいるこのゾッとする事実を実際深刻にとらえている人は非常にわずかしかいない。人の状態がまさにこのようであるから、また、人の心は神に対する敵意で満ちているから、当然神の特別で直接的な介入がなければ誰も救われることができない。ここでの私たちの見解によると、それは他のところでもそうなのだが、人間の全的堕落の真理を加減し、弱めることは、必然的に、それと平行した真理をも弱めることになるのである。聖書は、はっきりと、神が、その驚くべき力を発動するのでなければ救いは不可能であると教えている。これが人の状態である。逸話を用いて感情をかき立てることや、音楽によって感性を喜ばすこと、あるいは、説教者の雄弁や説得力のある訴えかけなどは何の用もなさないのである。

 古い創造の御業についていえば、神は、誰の助けもかりずにすべてを行われた。ところが、今日のアルミニウス主義の福音伝道によって、はるかにすばらしい新しい創造の御業において神は、罪人の協力を必要としておられるかのようにほのめかされている。現にこのように言われる。「神は、人が自分自身を救うのを助ける方として示されている。すなわち、罪人が、前向きになって事を始めなければならない。そうすれば、神はことを完成される。」と。ところが実際は、他のなにものでもない御霊こそが、その力の日に、彼らを積極的にすることができる(詩 110:3)。その方のみが、神のみこころに沿った罪への悲しみと、福音を信じる救いに至る信仰をつくり出すことができる。その方のみが、私たちを自己愛から離れさせ、キリストとの主従関係に服させることができるのである。外部の福音伝道者の助けを求めるよりも、教会をしてその顔を神に向け、罪を告白し、神の栄光を求めさせるがよい。そうして、神の力ある奇跡の御業を求めて泣き叫ぶようにさせるがよい。『「(説教者の)権力によらず、(罪人の意志の)能力によらず、わたしの霊によって。」と万軍の主はおおせられる。』

 キリスト教界の霊的質が低下しているのは一般的に認められている。また、健全な教理が急速に衰えているのを悟っている人は少なくない。しかし、主の民の多くは、それでも福音が広く宣べ伝えられ、大勢の人がそれによって救われていると思い込んで慰めを得ている。悲しいかな、彼らの楽天的な思い込みは確固とした根拠のないものであり、あたかも砂地のようなものである。もしも、宣教団体本部から現在出ている「メッセ−ジ」が吟味されるならば。もしも、教会に通っていない人々に配られた「トラクト」がくわしく調べられるならば。もしも、「野外」伝道者が注意深く聞かれるならば。もしも、「救霊運動」の「説教」や「演説」が分析されるならば。要するに、もしも、現代の「福音伝道」が聖書のはかりにかけられるならば、それらは、本当の回心のためには極めて重要な点を欠き、罪人が救い主の必要性を示されるべきときの主要なものを欠き、キリストにある新しい創造物の一変した生活を生み出すものを欠いているなどの不十分な点が必ず見出だされるであろう。

 私たちは何も、あらさがしの心で言葉じりをとらえ、人を違反者に仕立てようなどと願っているわけではない。また、私たちは完全を求め、それを見つけることができないために、不平をいっているのでもない。ましてや私たちが、こうあるべきだと考えているとおりのことを他の人々がしないからといって、批判しているのでもない。いや、そうではない。事はそれよりはるかに深刻である。今日の「福音伝道」は、ただ極度に浅いというだけでない。むしろ根本的に欠陥のあるものなのだ。それは、キリストに来るようにとの罪人に対する呼びかけを確立する土台をまったく欠いている。ただ単に、(神の聖さより神のあわれみを、神の怒りより神の愛をことさらに強調するような)悲しむべきつりありの欠如があるだけでなく、神が罪の知識を伝える目的で与えたものの、まさに致命的な削除がある。ただ単に、「陽気な賛美」やユ−モアあふれる洒落やおもしろい小話などの非難にあたいする紹介がなされているだけでなく、福音が唯一有効に輝き出るべき暗い背景が故意に削除されているのである。

 ここまで非難してきたことは、欠けているという、事の半分 --- ネガティヴな面 --- にすぎないとはいえ、それでも実に重大である。さらにいっそう悪いのは、福音が、今日の安売り伝道者によって小売りされているということである。彼らのメッセ−ジのポジティヴな内容は、罪人の目に砂ぼこりを投げつけている以外の何ものでもない。彼のたましいは、ほとんど疑われないようにあてがわれた悪魔の麻酔で眠らされている。ほとんどの「正統派」の説教台や講壇から、今日伝えられている「メッセ−ジ」を実際に受け入れた人々は致命的に欺かれているのである。それは、人にとって正しいと思える道である。しかし、それに従うすべての人は、神が恵みの奇跡によって主権的に介入してくださらない限り、その終りが死の道であることを必ず知るであろう。自分は間違いなく天国に向かっていると、自信たっぷりに想像しているいく万もの人々は、ひどい幻滅感を味わうことになる。彼らが地獄で目が覚めたときに!

福音とは何か

 神に逆らう反逆者を、その悪の中で憩わせることが、天からの喜ばしいおとずれのメッセ−ジだろうか。それは、遊びほうけている若者に、ただ「信じ」さえすれば将来恐ろしいことなど何もない、と彼らを安心させる目的で与えられたのだろうか。ほとんどの「伝道者」の、福音を提示する、いや、歪めている方法からして、そうとしか思えない。さらに彼らの回心者の生活を見れば一層その感がつよい。ある程度の霊的識別力をもちあわせている人は、「神が彼らを愛し、神の御子は彼らのために死に、彼らの(過去、現在、未来の)すべての罪の完全な赦しは、ただ“キリストを個人的な救い主として受け入れること”によって得ることができる」などと断言するのは、まさしく豚に真珠をなげやることにほかならないと、確実に悟らなければならない。

 福音は切り離されるものではない。それは神の律法という、いにしえの啓示から独立しているものではない。それは、神が、ご自身の義をゆるめたとか、聖さの基準を下げたとかいう告知ではない。そういうのとはまったく違う。福音が聖書的に説かれるときには、なさけ容赦のない神の義と、罪に対する神の無限の憎悪についての最も鮮明な描写と、その最高潮の状態の証拠が語られるのである。しかし、福音の聖書的説き明かしのためには、いくら未熟な若者やビジネスマンなどが「福音伝道の労苦」に自分の時間をさいて捧げていても、彼らはまったく不適である。悲しいかな、肉の高慢は、より知恵のある人が通るのを恐れる場所に、非常にたくさんの不適当な人が向こう見ずに入っていくにまかせている。私たちの直面している恐ろしい現象の原因は、その多くが、そういう初心者の増加にある。そして、さまざまな「教会」や「集会」には、非常に多くの彼らの「回心者」が満ちているのであるが、これこそ、彼らがなぜそんなに霊的でなく、世的であるのかを説明しているのである。

 読者よ、そうではない。福音は、罪を軽くするのではない。そのようなことからは、はるか遠くかけ離れている。福音は、神が罪をいかに厳格に取り扱うかを示している。福音は、神の民の背きの罪を贖うために、ご自分の愛する御子を打つという、神の恐るべき義の剣を啓示している。福音が律法を廃止するなどということからは、はるかに隔たっており、それは、救い主が律法の呪いを耐え忍んだということを説明している。カルバリ−は、神が罪を憎悪するという最も神聖で、畏れをおこさせる提示を常に与えているのであり、永遠に、それ以外の何ものでもない。そうであるなら、世的な人々のところに行って、彼らは自分たちの偶像に執着し、その心は今だ罪を愛しているというのに「キリストを自分の個人的な救い主として、単純に受け入れることによって、その瞬間、救われることでしょう。」などと告げることで、あなたは福音は尊ばれ、神が崇められるとでも想像するのだろうか。もし、私がそのようなことをするなら、私は彼らに嘘を教えることになり、福音を歪め、キリストを侮辱し、神の恵みを好色に変えることになるのである。

 このような、私たちの「厳しい」、「皮肉な」意見に対して、おそらくある読者はもう反対しようとしているに違いない。そして、こう尋ねるであろう。「使徒の働き16の31で『救われるためには、何をしなければなりませんか』との質問が出たとき、霊感された使徒は、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます。』とはっきり言ったのではなかっただろうか。」と。それでは、今日、私たちが同じことを罪人たちに告げたからといって、間違いを犯すなどということがあるのだろうか。私たちは、そうするための神聖な証拠をもっていないだろうか。たしかに、それらの言葉は聖書の中に見られる。そして、多くの浅い訓練しか受けていない人々は、そういう言葉があるため、だれに対してでも、これを繰り返すことが正しいのだと結論している。しかし、次のことを指摘させていただきたい。すなわち、使徒16の31は、群衆に相手かまわず宣言されたのではなく、特定の個人に対して語られたのであって、同時にそれが暗示しているのは、このメッセージは区別もなく、へたに配られるべきメッセージではなく、かえってその語られた時の、あの看守と同じような霊的状態の人に語られるべき特別なことばだということである。

 聖書の章句は、その背景から切り離されるべきではなく、文脈に沿って吟味され、解釈され、適用されなければならない。そして、このことは祈り深い考察と注意深い瞑想と継続的な学びを要求している。この急ぐ時代の、見かけだおしで価値のない「メッセ−ジ」はこの点で失敗していることをものがたっている。使徒16の31の文脈を見ていただきたい。何を見出だすだろうか。使徒とその同行者は、どんな時に、誰に向って『主イエス・キリストを信じなさい。』と言ったのだろうか。ここには七つの答えが提供されている。そして、この真に福音的なことばを与えてよいという、その人々の特徴が著しく描き出されている。では、これら七つの細目を手短に指摘するので、読者は注意深く熟考していただきたい。

 (1)この言葉を告げられた人は、ちょうど神の力強い奇跡の御業を目撃したばかりだった。『ところが突然、大地震が起こり、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった』(使 16:26) (2)その結果、その人は非常に動揺し、絶望するに至るほどであった。『目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした』(27節) (3)彼は照明の必要を感じた。『看守はあかりを求め』(29節) (4)彼の自己満足はまったく打ち砕かれた。彼は『震え』たからである。(5)彼は --- ちりの中で --- 神の前にふさわしい立場をとった。彼は『パウロとシラスとの前にひれ伏した』(29節)からである。(6)彼は神のしもべたちへの敬意と心づかいを示した。彼は『ふたりを外に連れ出し』たからである。(7)そうして、彼は自分のたましいのことを非常に心配して『救われるためには、何をしなければなりませんか』と尋ねたのである。

 そういうわけで、ここに、(もし喜んで導かれようと思うならば)私たちを導く何か確かなものがある。「ただ」信じるようにとの勧告を受けた人は、上調子な人でも、不注意な人でも、無頓着な人でもない。そうではなく、むしろ、神の力強い働きがすでに自分の内に働いたことの、はっきりとした証拠を示した人だったのである。彼は、覚醒されたたましいであった(27節)。彼の場合、その滅ぶべき状態を強調される必要はなかった。なぜなら、彼はそのことをはっきりと感じていたからである。また、使徒は彼に対して悔い改めの義務を迫る必要もなかった。なぜなら、彼の態度はすべて自分の悔恨の念をうったえていたからである。しかし、彼に語られた言葉を、自分の堕落した状態にまったく盲目であり、神に対して完全に死んでいる人々に適用するなどということは、水中から引き上げられ、意識のない人の鼻に気付け薬を近づけること以上に愚かである。何なら、この小冊子を批判する者に使徒行伝を読み通してもらい、使徒が、群衆や偶像をおがむ異教徒に向かって無差別に、「ただ」キリストを信じるように告げている例を一つでも見付けることができるかどうか試してもらおうではないか。

『律法によって罪は知られる』

 ちょうど世が旧約を受け入れないうちは新約がふさわしくないように、あるいは、ちょうどバプテスマのヨハネが大声で悔い改めを呼びかけながら主の前を行くまで、ユダヤ人たちにはキリストの働きに対する備えができていなかったように、救われていない人は、律法がその心に適用されるまでは、福音に対して無感覚である。なぜなら、『律法によって罪は知られる』(ロマ 3:20)からである。まだ一度も耕され、掘り起こされていない土地に種を蒔くのは、時間の無駄である! 罪深い情欲に満ちている人々にキリストの身代わりの犠牲を説明するのは、聖なるものを犬に与えるのと同じである。回心していない人々が聞かなければならない事は、彼らが深くかかわっている神のご性質と、彼らに対する神の諸々の求め、義なる神の諸々の要求、神を無視することの無限の重罪性、そして彼らが自分勝手な道を歩んでいる事実である。

 キリストの救いの性質は、今日の「伝道者」によって悲惨なまでに歪め伝えられている。彼は、罪からの救い主ではなく、地獄からの救い主を告げる。これが、非常に多くの人が致命的に欺かれている理由である。これは、火の池から逃れようとはしても、肉的で世的な自分たちの性質から救い出されようとは願わない多くの人がいるためである。新約聖書の中でキリストについて一番初めに語られているのは『その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民を(「必ず来る御怒り」からではなく)そのもろもろの罪から救ってくださるから』(マタ 1:21)ということである。キリストは、とてつもない罪の極悪さを自覚している人々や、自分の良心に押しつぶされそうな重荷を感じる人々、そのために自分自身を嫌悪する人々、その厄介な支配から解放されたいと切に求める人々のための救い主なのであり、それ以外の誰の救い主なのでもない。キリストは、相変わらず罪を愛している人々を「地獄から救い」罪の仕え人となり、彼らの悪を大目に見、神に敵対して彼らの側につかれるのだろうか。こうして聖なる方を汚すとは、何と言いようのない恐ろしい、冒涜であることだろう!

 読者は、きっと「私は、キリストに救われた時、罪の極悪さを自覚したことなどなかったし、自分の罪意識でうなだれたこともなかった。」と叫ぶだろう。そうであるならば私たちは、あなたがまったく救われたことがないか、もしくはあなたが思っているほど以前にあなたが救われたのではないかのどちらかであると、ためらわずに答える。クリスチャンが恵みに成長するにつれて、罪とはどういうものであるか −神への反逆 −という、よりはっきりとした認識をもち、それをより深く憎み、悲しむようになるというのは真実である。しかし良心が御霊によって打ち砕かれてもいず、その心が神の前に悔いるようにされてもいないような人が、キリストによって救われ得るなどと考えるのは、実際にはありもしないものを夢想することである。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。』(マタ 9:12) 偉大な医者に癒されることを真に求める人々のみが、罪に嫌気がさしている人であり、この人々は神を侮辱する行いやたましいをだめにする汚染から救い出されることを切望している。

 したがって、キリストの救いは罪から --- それを愛することから、その支配から、その罪責と刑罰から --- の救いであるのだから、福音を告げる者の第一の大きな役割とその主な働きは、必然的に、について説教することだということになる。それは、罪(犯罪とは区別して)とは実際何であるのかを定義すること、その中には無限の極悪が含まれることを示すこと、心の中におけるその様々な作用を写し出すこと、その当然の報いは永遠の刑罰以外の何ものでもないことを指し示すことである。ああ、についての説教 --- 単にそれに関するいくつかのありきたりの言葉を述べるのではなく、罪が神の目にはどういうものであるのかを説明するために、毎回の説教を捧げること --- は、彼を有名にするのでもなく、群衆を引き付けもしない。違うだろうか。いや、そのとおりである。神の賞賛にもまして人の誉れを愛する者や、永遠の魂よりも自分の給料を大事にする人々は、それに応じて自分の帆をも切り落とすのである。「しかし、そのような説教は人々を離れさせることになる!」 私たちは答える。忠実な説教をして人々の離れていくほうが、肉にへつらうような不忠実なことをして聖霊が離れていくよりはるかにましである、と。

 キリストの救いに関する条件は、今日の説教者よって誤って述べられている。非常にまれな例外として、彼はその聴衆にこう告げる。すなわち「救いは恵みによるのであり、自由な賜物として受けとられる。それは、キリストが罪人のためにすべてを成し遂げたからである。したがって、彼にとって『信じること』 --- キリストの血の無限の功績に信頼すること --- 以外、何も残っていない。」と。この概念は今や「正統派」陣営内で非常に広く行き渡っており、彼らの耳に頻繁に鳴り響いており、彼らの思いの中に深々と根づいている。そのため、それに対して、これはうそ偽りと言えるほど不十分で偏っているなどの異議を申し立てる者があろうものなら、その者は即座に異端者の烙印を張られ、行いによる救いを説いてキリストの完成された御業を侮辱しているとの非難を受けることになる。しかし、それにもかかわらず著者には、そのような危険を冒す覚悟が十分できている。

 救いは恵みによるのであり、恵みのみによる。なぜなら、堕落してしまった被造物は、自らの功績によって神に認めてもらうとか、神の恵みを勝ちとることなど絶対にできないからである。ましてや、神の聖さは罪と妥協することなどありえない。したがって神聖なる恵みが、聖さを傷つけてまで施されることはないのである。また、救いは自由な賜物だということも真実である。そして、それを受けとる手は、何も持たないむなし手なのであって、いまだに世をしっかりと握り締めている手ではない! しかし、「キリストが罪人のためにすべてを成し遂げた」というのは真実ではない。キリストが豚の食べるさやで腹を満たされたわけでも、それでは満たされないことに気づかれたわけでもない。キリストがあの遠い国を捨て去られたのでも、自分の罪をお認めになり、立って父のところへ帰られたのでもない。これらは罪人自身が果たさなければならない行為なのである。確かに彼はこういうことを果たすから救われるわけではない。それ以上に、放蕩息子は、自分の罪のために父に対してまだ距離を感じていた時に、父の口づけと指輪を受けることができたのである!

 「信じること」以外の何かが救いに不可欠である。神への反逆でかたくなになった心は、救済的に信じることなどできない。それは、まず砕かれなければならない。聖書はこう言っている。『あなたがたが悔い改めなければ、あなたがたは皆、同じように滅びるのだ。』(ルカ 13:3)と。悔い改めは信仰と同じく本質的なものである。いや、前者なしに後者はありえない。『あなたがたは信じるようにと、後に悔い改めることもなかった。』(マタ 21:32) キリストの置く順序は十分明瞭である。『あなたがたは悔い改めよ。そして福音を信ぜよ。』(マル 1:15) 悔い改めとは罪を悲しむことである。悔い改めとは、心からの罪の拒絶である。悔い改めとは、罪を捨て去る心の決意である。真の悔い改めがあるところでは、恵みが自由に活動する。なぜなら、罪が放棄されるときには、聖い要求が保たれるからである。したがって『悪者には彼の道を、不義なる者には彼の考えを捨てさせよ。そして、彼を主に立ち帰らせよ。彼はその者の上に必ずあわれみを施す。』(イザ 55:7)と叫ぶのは福音伝道者の義務である。彼の役目は、聴衆者が神に対する戦いの武器を置き、キリストを通してあわれみを請うようにと叫びかけることである。

 救いの方法は誤って示されている。たいていの場合、現代の「福音の説教者」は、どんな罪人であっても、地獄からのがれ、天国を確かなものとするために、しなければならないことは「キリストを自分の個人的な救い主として受け入れる」ことだけである、などと言って自分の会衆を安心させている。しかし、このような教えはまったく誤解をまねく。主としてのキリストを拒絶しているうちは、誰ひとり、彼を自分の救い主として受け入れることはできない! キリストを受け入れる者は、同時にキリストを主と認め、従うべきだと説教者が付け加えるのは正しいことである。しかし、そのすぐ後で、たとえその回心者が主に対する忠誠を欠いていても天国行きは確実だ、などと言うなら、彼の語った説教は一遍でだいなしになる。これこそ悪魔の嘘である。ただ霊的に盲目な者だけが、「キリストは誰であっても(たとえキリストの権威を軽んじる者や、キリストのくびきを拒否する者でも)救ってくださる。」などと説くだろう。わが読者よ。なぜなのか。それは恵みではなく恥である。それはキリストを不法の奨励者として、汚名を着せることである。

 キリストが神の誉れを保ち、神の支配に役立ち、神の律法を強いるのは、彼の主としての職務によることである。そして、もし読者がルカ1:46,47,使徒5:31,IIペテ1:11,2:20,3:18 など、二つの呼び名が出ている箇所を開いてみるならば、その順序が常に『主であり救い主』であって、「救い主であり主」ではないことを発見するであろう。したがって、キリストの王権に頭を下げていない人や、心と生活において彼の王位を認めていない人で、なおかつ自分たちは、キリストを自分たちの救い主として彼に信頼しているなどと想像しているなら、そういう人は欺かれており、神が彼らの迷いを覚ますのでなければ、彼らは、その右の手の偽り(イザ 44:20)とともに終りのない火あぶりへと落ちていくことになる。キリストは『彼に従うすべての人に対して、永遠の救いの創始者』(ヘブ 5:9)である。しかし、キリストの主権に服従しない人々の態度は『われわれはこの者がわれわれを統治するのを好まない。』(ルカ 19:14)にほかならない。だから読者よ。立ち止まって、正直にこの質問を直視せよ。私は彼のみこころに服従しているだろうか。私は彼の命令を守るため、誠実に努力しているだろうか。

 悲しいかな。悲しいかな、神の「救いの方法」は、今日、ほとんどまったくといっていいほど知られていない。キリストの救いの性質は、ほとんど全域的に正しくは理解されていない。そして、救いの条件は、方々で誤り伝えられている。現在、宣べ伝え続けられている「福音」は、その十中八九が真理を曲げたものであり、いく万もの人々が、自分たちは天国に向かっているものと安心している。しかし実際は、時が巡ってくるのと同じくらいの速さで、彼らは今、地獄に急いでいるのである。キリスト教世界に置ける事態は「悲観的な人」や「心配症の人」などが想像するよりももっと、はるかに悪い。私たちは預言者ではない。また、聖書の預言者が何を予告しているのかを推測して楽しむべきでもない。−著者よりも賢い者は、しばしばこのようなことをして、自分たちを愚か者としている。私たちは率直にいって、神が何をなそうとしているかしらない。百五十年前の霊的状態は、英国においてさえも非常に悪いものであった。しかし、私たちがひどく恐れているのは、神が本当のリバイバルを与えるのでなければ、『暗黒が地を、全くの暗闇が民をおおう。』(イザ 60:2)のも間近いのではないかということである。なぜなら、真の福音の光は早々と消えてなくなっている。現代の「福音伝道」組織は、私たちの判断するところによれば、あらゆる「時のしるし」の中の、最も重大なものである。

 神の民は、この現状をかんがみて、どうすればよいのだろうか。エペソ5章11節は神聖な解答を提供している。『実を結ばない暗闇の働き人たちと、何の交わりも持つな。むしろ、彼らを非難せよ。』 そして、みことばの光に対立する者は、すべて『暗闇』である。今日の「福音的」怪物と何の取り引きも持たないことや、そういう者への精神的、あるいは経済的な支援をすべてやめてしまうこと。さらに、彼らのどんな集まりにも出席しないこと。彼らのトラクトはいっさい配布しないことなどは、すべてのクリスチャンの絶対的義務である。罪人に対して、自分たちの偶像を捨て去ることなしに、悔い改めなしに、キリストとの主従関係に屈服することなしに、救われることもできる、などと告げる説教者は、別の、救いは行いによるとか、天国は自分たち自らの努力の結果としていただくものでなければならない、などと主張する人々と同様に、誤っており、危険なのである。