実際的な救い


A.W.ピンク








 救いをあらゆる角度から考察し、さまざまな側面からじっくり考えることは可能である。しかし、どの面から見たとしても、『救いは主から出る』ということを絶えず心に留めておく必要がある。救いは、父なる神によって、世界の基が置かれる前から、選ばれた者のために計画された。それは、肉体をまとった子なる神の聖い生活と身代わりの死によって買い取られた。そして、聖霊が選ばれた者たちに救いを適用し、働きかけるのである。聖書の研究、信仰の修練、三位一体のエホバとの交わりを通して救いを知り、また楽しむことができるのである。



 さて、キリスト教世界には、心の中における神の恵みの働きに関して、まるっきりあかの他人であるにもかかわらず、自分が救いにあずかる者だと疑いもなく考え、真剣に信じている人が多い。これは非常に恐るべきことである。神の真理に個人的に心から接触することは、この真理について明確な知的概念を持つことと、まったく別である。聖書が言うように、罪とは恐ろしいものだと信じることと、その罪に対し、神聖な恐れと嫌悪を持つことは、まったく別である。神が悔い改めを要求されることを知識として持っているのと、自らの下劣さを実際に嘆きうめくこととはまるっきり別ものである。キリストのみが罪人に与えられた救い主であると信じるのと、心から本当に主に信頼を寄せるのとはまったく別である。キリストが、あらゆる美徳の総計であると信じることと、何にもまして主を愛することはまったく別なことである。神が偉大で聖なるお方であると信じることと、神に真実の敬意と恐れを持つことはまったく別である。救いは主のものであると信じるのと、主の恵み深い働きを通して実際に救いに与る者となるのとはまったく別なのである。



 聖書が人の責任を強調する一方で、その責任を通して、神は罪人を申し開きをするべき存在として扱われる。しかしまた、アダムの子孫は今まで誰一人として、その責任に達したことがなく、すべての者は惨めにもその義務を果たし損ねてきたと聖書ははっきりと、一様に示している。これは、神が罪人の内に働き、罪人が自らのためにできないことを神がなさなければならない深い必要性を引き起こす。『肉にある者は神を喜ばすことができない。』(ローマ8:8) 罪人は『弱い』(ローマ5:6)のである。神を離れては、私たちは『何もすることができない』(ヨハネ15:5)



 福音は聞く者すべてに対して招きと命令を発するが、誰もこの招きを気に留めず、この命令に従うことはない。『ところが、みな同じ様にに断り始めた』(ルカ14:18) ここで罪人は最も重大な罪を犯し、神とキリストに対して最も重大な憎しみをさらけ出すのである。つまり、罪人の必要にかなった救い主が面前に紹介されると罪人は彼を『さげすみ、尊ばない』(イザ53:3)



 これは罪人が、いかに手に負えない反逆者であり、永遠の苦しみにしか相当しないことを示している。しかし、この点において神は主権的で驚くべき恵みをお示しになるのである。神は救いを計画し、施されただけではなく、選ばれた者たちに実際にそれを授けられたのである。



 さて、この救いの授与は、ただ単に、救いは主イエスの中に見出すことができると告げる宣言をはるかに越えたことである。キリストを自分の救い主として受け入れなさいという招きをはるかに越えたことである。それは神が実際にご自分の民をお救いになるということである。まったく美点に欠けた者たち、救いを自分のものとするのに必要なステップを踏もうとしないどころか、踏むこともできないほど堕落した者たちに対し、またその内側に働く、主権的かつ全能の恵みなのである。実際に救われた者たちは、自分で理解する以上に、神の恵みに感謝すべきである。キリストが罪を除くために死んでくださっただけではなく、聖霊がキリストの贖いの死の功績を適用する御業を罪人たちの内に行ってくださったのである。



 非常に多くの説教者が真理の講解におてい失敗しているのは、まさにこの点である。その多くが、キリストこそ罪人に与えられた唯一の救い主だと主張しながら、同時にキリストはわれわれの承諾によってのみ実際救い主になるのだとも教えている。罪の自覚は聖霊の働きであり、聖霊のみがわれわれの失われた状態とキリストの必要性を示すと認めるかたわら、救いの決定的要因は人間の側の意志なのだと強く主張するのである。しかし、聖書は『救いは主から出る』(ヨナ2:9)、また、創造物に由来するものは、いかなる点においても救いの要因になることはないと教えている。神御自身から出たものだけが、神を満足させることができる。罪人が心から主イエス・キリストを信じるまでは、救いは罪人の個人的な一部分となることはないということは、真実である。だが、この信じるということそのものが、聖霊の働きによるのである。『あなたがたは、恵みにより、信仰を通して救われた。それはあなたがたから出たものではなく、神の賜物である。』(エペソ2:8)



 生まれながらの人間による、救いの信仰ではないキリスト「信心」なるものがあるとの事実を知るのは、きわめて厳粛なことである。キリスト教世界の中にも、仏教徒が仏陀を信じるようにキリストを信じている人が大勢いる。そして、この「信心」は何か知識以上のものである。そこには、しばしば大きな情が伴っている。感情は深く動かされることもあり得るのである。キリストは種蒔きのたとえ話しで、みことばを聞くと直に喜んで受け入れるが、自分のうちに根がない人たちがいると教えられた。(マタイ13:20,21) これは、恐ろしくも厳粛なことである。なぜなら、今でも日毎に起こっている出来事だからである。聖書はまた、ヘロデが、ヨハネの教えに『喜んで』耳を傾けていたと教えている。従って、このトラクトの読者が健全な福音説教者の教えを喜んで聴いているからといって、その人が新生したたましいだという何の証拠にもならない。主イエスはパリサイ人に『あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願った』とバプテスマのヨハネについて言われたが、その後の経過を見てみれば、真の恵みの働きはこの人たちのうちには何もなかったことがはっきりしている。そして、厳粛な警戒として、こういう事件が聖書に記録されているのである!



 上に参照した二つの聖書箇所の正確な語法を吟味して見ると、それは何と衝撃的で厳粛なことばであろうか。マルコ6:20で人称代名詞が何度も使われていることに注意せよ。『それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、(神ではなく!)彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、彼は多くのことを行い、喜んで耳を傾けていた』 ヘロデが魅力を感じていたのは、ヨハネの性格であった。今日もいかに同じであることだろう! 人々は、説教者の性格に魅了されている。説教者のスタイルに我を忘れてしまい、魂に対する真剣さに心を奪われてしまうのである。しかし、これだけで終わってしまうのであれば、粗野にも目覚めるときが来るだろう。真理を提唱する者への愛ではなく、『真理への愛』こそが、周りの『入り混じった群衆』から真の神の民を区別するのである。



 同じ様に、ヨハネ5:35で、キリストはご自分の先駆者についてパリサイ人たちに『あなたがたは、しばらくの間、(真の光の中で、ではなく)彼の光の中で楽しむことを願った』と言われた。同じ様にして、今日でも、神によってみことばの神秘と素晴らしさを表わす力が与えられた者に聞き入り、『彼の光の中で』楽しんでいるものの、暗闇の中にいるので、個人的に『聖なる方からの注ぎの油』を受けないでいる人が多くいる。『真理を愛する』(Uテサロニケ2:10)人々とは、神聖なる恵みの御業がそのうちに働いている人々である。そういう人々は、明確で知的な聖書理解以上のものをもっている。すなわち、彼らの魂の食物であり、心の喜びである(エレミヤ15:16)。彼らは真理を愛し、それだからこそ、過ちを憎み、死にいたる毒のごとくにそれを避けるのである。彼らは、みことばの真の著者の栄光のために非常に熱心であり、神の栄誉を損なうような教えをなす牧師のもとには座すことをせず、人を至高の位置にまで高め、人が自らの運命の決定者であるかのような説教など聞こうとはしない。



 『主よ。あなたは、私たちのために平和を定めておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのうちでなしてくださったのですから』(イザヤ26:12)。これが、真の神の民の心からの、そして無条件の告白である。前置詞に注意せよ。『あなたが私たちのうちでなしてくださった』。これは、聖徒の心の中になされた神聖なる恵みの御業のことを語っている。この聖句だけではない。次の箇所も注意深く考察せよ。『それは、生まれたときから私を選びわけ、御子を私のうちに啓示するために、私をご自分の恵みによって召してくださった神を喜ばせることであった。』(ガラテヤ1:15,16)



 『どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えてきわめて豊かに施すことのできる方に』(エペソ3:20) 『あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、・・・それを完成してくださることを私は堅く信じている』(ピリピ1:6) 『それは、あなたがたのうちに、すなわち神の善きみこころを行おうとするその意志と行為の両方に働かれる神なのである』(ピリピ2:13) 『わたしは、わたしのもろもろの法を彼らの心に入れ、彼らの思いに書き付ける』(ヘブル10:16) 『平和の神が・・・御目にまったくかなうことをあなたがたのうちに行い、みこころを行うことができるように、すべての善き業においてあなたがたを完全にしてくださるように』(ヘブル13:20,21)。これら七つの聖句は、内側に働く神の恵みについて語っている。言い換えれば、実際的な救いについて語っているのである。



 『主よ。あなたは、私たちのために平和を定めておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのうちでなしてくださったのですから』(イザヤ26:12) わが読者よ、私たちの心には、これへの応答がこだましているだろうか。あなたの悔い改めは生まれながらの人が持つ良心の呵責や涙より深いのだろうか。あなたの悔い改めは、聖霊があなたのたましいのうちになした神聖なる恵みの御業に根ざしているだろうか。あなたのキリストへの信仰は知的なそれ以上のものだろうか。聖霊の力と働きによって主と一つにされた結果、自分の行いがもたらした成果よりも、主との関係こそがもっと重大だと認識しているだろうか。「温和」で「優しい」イエス様のことを歌うローマ・カトリックの信者のような信心深い感傷的なもの以上の愛を、あなたはイエスに寄せているだろうか。あなたの主に対する愛は、神があなたの内に作られた全く新しい性質から生じたものだろうか。詩編作者と共に、『天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私は誰も望みません』と本当に告白できるだろうか。あなたの信仰告白には柔和で低い心が伴っているだろうか。「私は、価値のない無益な被造物だ」と自分の悪口を言うことは簡単である。しかし、本当に自分でそうだと思っているのだろうか。自分のことを『聖徒たちのうちでもっとも小さな』者だとあなたは感じているだろうか。パウロはそう思った! あなたがもしそうではなく、大衆のクリスチャンの失敗を嘆き、その罪を告白し、『私は、本当に惨めな人間です!』と泣き叫び、自分のことを彼らより優れていると考えているとしたら、あなたは神と何の関係もない者だと結論する厳粛な理由がそこにはある!



 本当の敬虔と人間の持つ宗教心を区別するものは何かというと、一つは外面的であるが、もう一つは内面的である。キリストは、パリサイ人について次のような不満を述べられた。『あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦で満ちている』(マタイ23:25)と。肉の宗教は表面的でしかない。神がご覧になるのは心であり、心を神は扱われるのである。御自分の民について神は、『わたしは、わたしのもろもろの法を彼らの心に入れ、彼らの思いに書き付ける』(ヘブル10:16)と言われる。



 『主よ。あなたは、私たちのために平和を定めておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのうちでなしてくださったのですから』 誇り高い者にとってこの言葉はどんなにその自尊心を傷つけることだろう! この言葉によると、全てが神によるのであって、被造物によるものは何もない! 人間の性質には、世界中どこでも、自惚れと自己満足の傾向がある。つまり、ラオデギヤの人々とともに『私は富んでいる、物が豊かになった、乏しいものは何もない』(黙示3:17)と言うのである。

しかし、ここに私たちの自尊心を傷つけ、プライドを虚無にするものがある。神が、私たちの内にあらゆる働きをされたのだから、私たちが高慢になる根拠は何もない。『あなたには何か受けなかったものがあるか。もしも受けたのなら、なぜ、受けていないかのように誇るのか。』(Tコリント4:7)



 そして、このように神が働かれるのは、どのような人々だろうか。神の側からいえば、神に好まれ、選ばれ、贖われた人々である。人の側からいえば、自分自身には神の目にかなうような主張などなく、価値もなく、神の怒りを駆り立てるばかりのものしか自分にはないと自覚した人々である。つまり、生活が惨めな失敗に終わり、人格が全く堕落し、乱れてしまった人々である。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれた。そして恵みは、その人々のために、彼らのうちで、自分ではしようともしない、むしろすることもできない事をしたのである。



 そして、神がご自分の民の内に「働かれる」とはどういうことであろうか。彼らのあらゆる行いのことである。まず最初に、神はご自分の民を生かされ。『生かすのは御霊である。肉は何の益ももたらさない。』(ヨハネ6:63) 『父はみこころのままに、真理のことばを持って私たちをお生みになった。』(ヤコブ1:18) 第二に、神は悔い改めを授けられる。『そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の許しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、御自分の右に上げられた。』(使徒5:31) 『それでは、神は、命にいたる悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。』(使徒11:18、Uテモテ2:25) 第三に、神は信仰を与えられる。『あなたがたは、恵みにより信仰を通して救われたのであり、それは、自分自身から出たことではなく、神の賜物だからである。』(エペソ2:8) 『あなたがたは、・・・神の力の信仰によって、キリストとともによみがえらされた。』(コロサイ2:12) 第四に、神は私たちに霊的理解を授けてくださる。『しかし、神の御子が来て、彼を真実な方として知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。』(Tヨハネ5:20) 第五に、神は私たちの奉仕を効果的なものにしてくださる。『私は他のすべての使徒たちよりも多く働いた。しかし、それは私ではなく、私とともにあった神の恵なのである。』(Tコリント15:10) 第六に、神は私たちの忍耐を確保してくださる。『あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、』(Tペテロ1:5) 第七に神は私たちの実を結んでくださる。『あなたは私から実を得る。』(ホセア14:8) 『御霊の実』(ガラテヤ5:22) しかり! 私たちのなすすべてのわざも、神が私たちのためにしてくださったのである。



 しかし、神はなぜ私たちのなすすべてのわざも、私たちのためにしてくださったのであろうか。まず最初に、もし神がそうされなかったなら、すべての人が永遠に滅びてしまったからである。(ローマ9:29) 私たちは、『力がなく』、神の義の要求を満たすことができなかった。したがって、神は主権的な恵みによって、私たちが自分のためにすべきであったがすることができなかったことをしてくださったのである。第二に、すべての栄光が神のものとなるためである。神はねたむ神である。神はそう言っておられる。神はご自分の栄誉を誰とも分かちあうことをなさならない。したがって、神はあらゆる賞賛を御自分のものにし、私たちには誇る根拠などあるすべもないということである。第三に、私たちの救いが有効にかつ確実に達成されるためである。もし、救いが部分的にでも私たち次第であるなら、救いは有効さと確実さを失ってしまう。人が手に触れるものは、みな朽ちるのである。私たちの試みはすべて失敗ということばで書き巡らされている。しかし、神が行われることは完璧で永遠に衰えない。『私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かを付け加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は御前で恐れなければならない。』(伝道者3:14)



 しかし、私はどのようにして、神が「私たちのうちで業を行われた」と知ることができるのだろう。おもに、そのわざの結果によってである。もし、あなたが生まれ変わったのなら、あなたの内には新しい性質がある。子の新しい性質は霊的であって肉とは相いれない。その願いと熱望がまるっきり反対なのである。古い性質と新しい性質は互いに反しているから、両者の間には耐えず戦いがある。あなたはこの戦闘に気づいているだろうか。



 あなたの悔い改めが神のわざなら、あなたは自分を蔑むであろう。あなたの悔い改めが純粋で霊的なら、あなたは神がずっと昔にあなたを地獄に投じなかったことに驚くだろう。あなたの悔い改めがキリストからの賜物ならば、あなたは日々神の驚くべき恵みに対し返している惨めな返答を嘆くだろう。つまり、あなたは罪を忌み嫌い、多種多様のそむきの罪を、神の前でひそかに悲しむのである。回心の時にそうするだけではなく、今やあなたは日々そのようにする。



 あなたの信仰が神に与えられたものならば、それは独善主義の放棄により、自分の行いの否認により、被造物への信頼から立ち返ることによって証明される。あなたの信仰が『神に選ばれた人々の信仰』(テトス1:1)なら、あなたは神の前に受け入れられる理由としてキリストのみに頼っているだろう。あなたの信仰が神の働きの結果なら、あなたは神のみことばを絶対的に信じ、低い心でそれを受け入れ、理性を十字架につけ、子供のような純真さをもって、神の仰せのすべてを受け入れるだろう。



 もしもあなたのキリストに対する愛が御霊の実なら(ガラテヤ5:25)、その証拠としてあなたは耐えず神を喜ばせようと努め、神が喜ばれないことを避けるだろう。一言でいえば、従順な歩みによって証拠づけられるということである。あなたのキリストへの愛が『新しい人』の愛なら、あなたは神を慕いあえぎ、何にもまして神との交わりを切望するだろう。あなたのキリストへの愛が、主のあなたに対する愛と同種のものなら(たとえ度は違っても)、主の栄光ある現れ、すなわち、キリストが、御自分の民を永遠に彼と共にいることができるように、御自分の身元に受け入れるために再び来られる時をあなたは熱心に待ち望むだろう。願わくわ、霊的識別力の恵みが読者の方々に与えられ、自分はクリスチャンなのだという告白が果たして真実なのか、それとも見せかけにすぎないのか、自分の希望が千歳の岩の上に建てられたものか、あるいは人の決意とか、努力、決断、また気持ちなどというような流砂の上に立てられたものか、つまり、自分の救いが『主のもの』なのか、それとも自分のずるい心のむなしい空想にすぎないのかを見極めることができるように。